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風待ち教室の署名簿  作者: 乾為天女


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第9話 風が署名をさらう夜

 十月に入ると、柳の葉は先端から色を失い始めた。


 夏の間は光を押し返すほど青かった葉が、薄い黄緑へ変わり、風が吹くたびに裏側の白さを見せる。


 ウィロウは、旧海風市立図書館駅前分館の前で、錆びた門扉を押した。


 鍵は瀬田が開けてくれた。


 駅から歩いて七分。古い商店街の裏手にあり、現在の夜間学級より建物は小さい。それでも、中央夜間中学まで電車とバスを乗り継ぐより、ずっと近かった。


 「雨漏りは、北側の一か所です」


 瀬田が、建築担当者から受け取った資料をめくった。


 「耐震性は、今の旧校舎より高い。消防設備と照明、手洗い場を更新すれば、教室として使える可能性があります」


 「可能性」


 ウィロウは言った。


 「今日は嫌みじゃありません。ちゃんと可能性に見えます」


 瀬田は苦笑した。


 入口の先には、使われなくなった貸出カウンターが残っていた。棚の多くは撤去され、床には四角い跡だけが並んでいる。窓は曇っているが、開ければ駅前通りの街路樹が見えた。


 プレシャスは室内を歩きながら、スマートフォンで時間を測った。


 「駅から保育園経由で十五分。今の教室より五分短い」


 「清掃会社の車庫からは十二分だ」


 エドワンが言った。


 「ただし、仕事が延びれば遅れる」


 「遅れても入れる時間割にできないかな」


 ウィロウは、持ってきた方眼紙を床へ広げた。


 これまでの彼女なら、場所を見つけた時点で「ここに決めよう」と言っていただろう。


 今は、紙の中央へ施設名を書き、その周りへ条件を並べた。


 授業日数。


 教員数。


 交通手段。


 保育。


 防犯。


 改修費。


 誰かの事情が一つ抜ければ、その人にとっては「通える学校」ではなくなる。


 「週三日では足りません」


 オレリアンが言った。


 「正式な夜間中学の分教室として設けるなら、教育課程と授業時数を維持する必要があります」


 「週五日」


 ウィロウは書き直した。


 「専任の先生は?」


 「最低限必要です。中央夜間中学から巡回してもらう案だけでは、急な欠席や相談対応が難しい」


 瀬田が頷いた。


 「専任教員一人と、教科ごとの巡回教員。現在のみなと中学校に在籍したまま、駅前分教室として運営する案なら、制度上の整理はできます」


 「地域の人が先生をするのは?」


 プレシャスが聞いた。


 「正規授業は教員が担当します。ただし、放課後補習や会話練習なら、地域協力者に参加してもらえます」


 「パン屋の店主、計算なら教えられるって言ってた」


 ミモザが言った。


 「元交際相手の一人は英語ができるわ」


 「三人のうち、どの人ですか」


 ウィロウが尋ねる。


 「二人目」


 「理由欄に『二度と同じ席へ呼ばないでほしい』と書いた人?」


 「それは三人目。二人目は『逆らわない方がいい』の人よ」


 「区別できるのがすごい」


 プレシャスが感心した。


 笑いのあと、エドワンが手を挙げた。


 「送迎の話だが、会社へ聞いた」


 全員が振り返る。


 「清掃で使う九人乗りの車が、夕方から夜は一台空く。毎日ではないが、週二回なら試せるそうだ」


 「会社が出してくれるの?」


 「運転手と燃料代は必要だ」


 「無料ではないんですね」


 瀬田が確認する。


 「無料にすると続かない」


 エドワンは言った。


 「最初だけ好意で動いて、半年後になくなるより、払える額を決めた方がいい」


 ウィロウは、その言葉を赤いペンで囲んだ。


 続く仕組みにする。


 善意だけへ寄りかからない。


 「保育園は、私が聞いてみる」


 プレシャスが言った。


 「近くの一時保育は午後七時まで。でも、夜間学級と市が連携するなら、試験的に八時半まで延長できる日があるかもしれないって」


 「誰に聞いたの?」


 「園長先生」


 「いつの間に」


 「ルカを迎えに行くたび、少しずつ」


 以前のプレシャスなら、一晩で話をまとめ、できると断言しただろう。


 今は「かもしれない」と言える。


 ウィロウは、それが後退ではなく、確かな前進に見えた。


 十一月までの一か月、生徒たちは案を磨いた。


 瀬田は建物の安全性と改修費を調べた。


 オレリアンは必要な授業時数と教員配置を整理した。


 プレシャスは保育施設、署名資料、公開授業の記録をまとめた。


 エドワンは送迎車の運行費を計算した。数字を読むときは時間がかかったが、紙の上へ一つずつ線を引き、間違いがないか二度確かめた。


 ウィロウは、全体を一冊の提案書へまとめた。


 表紙の題名は、三度書き直した。


 『みなと夜間学級を残すための案』


 最初はそう書いた。


 次に、


 『駅前分教室の開設を求める案』


 とした。


 最後に、


 『海風市で学び続けるための駅前分教室案』


 へ変えた。


 残すのは建物ではない。


 学び続けられる道だった。


 十一月十八日、市議会文教委員会の参考人意見聴取の日が来た。


 空は朝から低く、海の方角に灰色の雲が重なっていた。


 署名原本は、番号を振ったファイルへ綴じ、防水ケースに入れた。市内正式署名、近隣自治体からの通学希望、全国から寄せられた応援の三冊に分けてある。


 別の箱には、公開に同意された署名理由を匿名化して印刷したカードの複製が入っていた。


 『父は値札の数字だけで店を守った』


 『息子の連絡帳を、自分で読みたい』


 『一緒に働いていた人のことを、俺は何も知らなかった』


 議場前の展示で、市議や傍聴者に読んでもらうためのものだ。


 「原本は私が持つ」


 ウィロウが防水ケースを抱えた。


 「カードは私」


 プレシャスが蓋つきの箱を持つ。


 「風が強いから、蓋を押さえて」


 「押さえてるよ」


 市役所前の広場へ入った瞬間、海から吹き上げた風が建物の角へぶつかった。


 強い風が横から回り込む。


 プレシャスのコートが膨らみ、箱の取っ手が手からずれた。


 「あっ」


 蓋が浮いた。


 ウィロウが手を伸ばす。


 間に合わなかった。


 白いカードが、一斉に空へ上がった。


 数十枚の紙が、秋の葉のように回転しながら広場へ散った。


 「原本じゃない!」


 ウィロウは大声で言った。


 「個人情報のない展示カードです!」


 説明しなければ、拾う人がためらうと思った。


 プレシャスは一枚を追い、植え込みへ飛び込んだ。


 エドワンは歩道へ向かうカードの前へ立つ。


 ミモザは杖で一枚を押さえた。


 オレリアンも拾おうとしたが、風は人の手を笑うように紙を持ち上げる。


 一枚が、通行人の足元へ落ちた。


 女性が拾い、文字を読んだ。


 『不登校だった弟が、いつか通える場所であってほしい』


 「あ」


 女性はカードを見つめた。


 「これ、私が書いた言葉です」


 公開授業へ来た看護師だった。


 別のカードを、商店街のパン屋が拾った。


 『亡くなった父は、値札の数字だけで店を守った』


 「これは、うちだ」


 店主はカードを胸へ当て、周囲を見た。


 「みんな、拾ってくれ! 署名した人たちの言葉だ!」


 市役所へ入ろうとしていた人たちが足を止めた。


 制服姿の高校生が、車道へ行きかけたカードを踏んで止める。


 清掃会社の同僚が、二枚を拾ってエドワンへ渡す。


 公開授業の参加者。


 商店街の店主。


 たまたま通った人。


 自分の言葉ではないカードも、誰かの生活が書かれたものとして、濡れた地面から拾い上げた。


 「これ、あなたたちの学校の話?」


 高校生が尋ねた。


 「はい」


 プレシャスは乱れた髪を押さえた。


 「いろんな人が、どうして必要なのか書いたカードです」


 「名前がない」


 「名前を見せるためじゃなくて、理由を読んでもらうためだから」


 高校生は、手元のカードを読んだ。


 『五十八歳で、自分の名前を書いた』


 「これも返します」


 「ありがとう」


 プレシャスは両手で受け取った。


 箱へ戻ったカードは、少し曲がり、角に土がついていた。


 それでも文字は読めた。


 カードを全部数えると、二枚足りなかった。


 ウィロウは広場を探した。


 一枚は、市役所の案内板へ張りついていた。


 最後の一枚は、植え込みの低い木の枝に引っかかっていた。


 柳の葉のように細長く揺れている。


 オレリアンが取った。


 そこには、


 『支える人も、支えられてよい』


 と書かれていた。


 公開授業のあと、匿名で追加された理由だった。


 誰が書いたかは分からない。


 オレリアンは少し長く、その文字を見ていた。


 「先生」


 ウィロウが呼ぶ。


 「行きましょう」


 議場前の廊下へ入ると、外の風音が遠くなった。


 代わりに、靴音と人の話し声が反響する。


 委員会室の前には、傍聴者が並んでいた。


 机の上へ提案書を置く。


 プレシャスが三冊の資料を確認する。


 エドワンは、自分が読む原稿を何度も指でなぞっていた。


 オレリアンは壁際へ立ち、呼吸を整えようとしていた。


 だが、息が浅い。


 喉が狭くなる。


 五年前の折り畳み椅子。


 記者のカメラ。


 『私はただ卒業したかったんです』


 過去の声が、今の廊下へ重なる。


 「先生」


 ウィロウが近づいた。


 「大丈夫です」


 オレリアンは答えた。


 「大丈夫じゃない顔です」


 「今日は、私が説明すべきところがあります」


 「ありません」


 オレリアンが目を上げる。


 「授業の内容は、資料に書いてあります。聞かれたら答えてください。でも代表は私たちです」


 「しかし」


 「今日は先生が私たちを支える日じゃない」


 ウィロウは、声を落とした。


 「私たちが先生の隣にいる日です」


 オレリアンの唇がわずかに震えた。


 ウィロウは励ますために笑わなかった。


 背中を叩かなかった。


 怖がるなとも言わなかった。


 ただ、隣に立った。


 反対側へ、エドワンが立つ。


 「俺も読む」


 プレシャスも頷く。


 「私も失敗したことまで説明する」


 ミモザは杖を床へついた。


 「先生は後ろで、黒板消しに相談していればいいわ」


 「ここに黒板消しはありません」


 「では、私に相談しなさい」


 オレリアンは、息を吐いた。


 少しだけ深く吸えた。


 「分かりました」


 委員会室では、市議が半円形に座っていた。


 教育委員会の担当者として瀬田もいる。


 傍聴席は、ほとんど埋まっていた。


 最初にウィロウが立った。


 以前の彼女なら、統合反対から話し始めただろう。


 今回は、今の校舎を使い続けられない理由から話した。


 「現在の旧校舎は、耐震補修と設備更新に大きな費用が必要です。教員不足もあります。私たちは、それを無視して、同じ場所をそのまま残してほしいと言うつもりはありません」


 委員の一人が顔を上げた。


 ウィロウは続ける。


 「ただ、中央夜間中学へ統合すると、仕事、育児、体力、交通の事情で通えない生徒がいます。学校が存在していても、そこへ行けなければ、その人にとってはなくなったのと同じです」


 旧図書館分館の写真を示す。


 「駅前分教室として週五日の授業を行い、専任教員と巡回教員を配置する案です。地域協力者は正規授業ではなく、放課後補習に参加します。送迎と保育の試行案も付けました」


 質問が出る。


 「送迎は一企業の好意へ依存していませんか」


 「試行期間は協力会社の空き車両を使いますが、燃料費と運転手費を予算化する案です。好意だけへ頼る形にはしません」


 「保育施設の延長は確約されていますか」


 「現時点では確約ではありません」


 プレシャスが答えた。


 「園長から、行政との正式な連携協議があれば検討できると聞いています。できると決めつけず、条件を資料へ書きました」


 彼女は、三冊の資料を示した。


 「署名は、市内在住者、近隣自治体からの通学希望者、全国からの応援へ分けています。最初は私が、全部を一つの数にまとめようとしました」


 傍聴席が静かになる。


 「期待に応えたくて、問題に気づいても言えませんでした。でも、それでは署名した人の立場も、資料の信頼も守れない。仲間へ謝り、確認できるものを一件ずつ分類しました」


 市議の一人が、市外応援の冊子を開いた。


 「市外分を捨てなかった理由は?」


 「市の意思決定で正式署名と同じには扱えません。でも、夜間中学を必要とする人が市境で消えるわけではないからです。違う資料として残しました」


 次に、エドワンが立った。


 原稿を両手で持つ。


 紙がかすかに震えていた。


 最初の行へ指を置く。


 「わたしは、五十八さいで、じぶんの名まえを、書きました」


 ゆっくり読む。


 一文字ずつ、確かめる。


 「それまでも、名まえは、書いたことが、あります。まねをして、形を、おぼえて、書きました。けれど、字の意味を、よく分からないまま、書いていました」


 途中で詰まった。


 次の漢字が読めない。


 傍聴席から、息を飲む音がした。


 誰も続きを言わなかった。


 オレリアンも、口を動かさなかった。


 待った。


 エドワンは、指を戻した。


 「工場で、四十年、はたらきました」


 読めた。


 「図面は、形で、おぼえました。読めないと、言うのが、こわかったからです」


 桑名が傍聴席にいた。


 目を伏せず、エドワンを見ている。


 「この教室で、読めないと、言いました。そうしたら、読むことを、待ってくれる人が、いました」


 エドワンは、一度息を吸った。


 「学校が、なくなると、わたしは、こまります。でも、わたしだけの、話では、ありません」


 最後の段落へ進む。


 「ここで、読めるようになった、わたしは、次に来る人を、待てます」


 静寂のあと、委員長が小さく頷いた。


 拍手は禁止されていた。


 それでも傍聴席の人々は手を膝の上に置いたまま、声を上げずにまっすぐエドワンを見つめていた。


 質疑は一時間を超えた。


 改修費。


 教員確保。


 利用人数の見込み。


 一年間の試行後、何を基準に継続を判断するか。


 すぐ答えられないものもあった。


 ウィロウは、分からないことを分かったふりで埋めなかった。


 「それは、追加で確認します」


 「現時点では確約できません」


 「教育委員会と相談し、数字を出します」


 以前なら、弱く見えると思って避けた言葉だった。


 今は、嘘をつかない強さとして使えた。


 最後に、委員長が言った。


 「本日の意見と提出資料を踏まえ、教育委員会へ旧図書館分館の安全性と費用の再算定を求めます。予算を伴うため、この場で開設を決めることはできません。十二月の審議へ向け、検討します」


 傍聴席の後方から、小さな不満の声が上がった。


 「また検討か」


 ウィロウにも聞こえた。


 五月の自分なら、同じように思っただろう。


 考えるふりをして帰る言葉。


 何もしないための言葉。


 だが、今日の質問を思い出す。


 送迎を続ける費用。


 保育の条件。


 教員の配置。


 建物の安全。


 どれも、勢いだけでは決められない。


 「お願いします」


 ウィロウは頭を下げた。


 「実施する方法を探すために、検討してください」


 委員長は、はっきり頷いた。


 教室へ戻ったのは、日が沈んだあとだった。


 外は風が強い。


 柳の下には、落ち葉が重なっていた。


 枝の隙間が増え、春から見慣れた窓の景色が変わっている。


 「葉が減ったね」


 プレシャスが言った。


 「なくなったように見える」


 エドワンは、窓を見た。


 「枝は残ってる」


 ミモザが机へ手をついた。


 「春になれば、新しい葉が出るわ。私たちは、その前に結果を聞くのね」


 ウィロウは、議場前で拾い集めた理由カードを箱から出した。


 土のついたもの。


 角が折れたもの。


 雨粒で少し文字がにじんだもの。


 その中に、『支える人も、支えられてよい』というカードがある。


 オレリアンが、それを黒板の端へ貼った。


 「採決は一週間後ではありません」


 瀬田から届いた予定表を確認し、言う。


 「教育委員会の方針修正案は来月上旬、市議会の予算審議は十二月中旬です」


 「待つ時間が長い」


 ウィロウが言った。


 「はい」


 「先生、こういうときは何をすればいい?」


 「授業です」


 オレリアンは答えた。


 「結果を待つ間も、卒業までの時間は進みます」


 ウィロウは自分の机を見た。


 造園技能士の学科問題集が置いてある。


 署名を集めている間も、自分がここへ来た最初の理由は消えていなかった。


 学ぶため。


 読めるようになるため。


 自分の人生を、自分で選ぶため。


 「じゃあ、今日は計算から?」


 「逃げようとしましたね」


 「少しだけ」


 「少しでも逃げたので、問題を一問増やします」


 「先生、意見聴取のあとくらい優しくして」


 「授業では公平です」


 プレシャスが笑った。


 エドワンも教科書を開いた。


 ミモザは、卒業作文の題名を考え始めた。


 窓の外で、最後まで枝へ残っていた葉が一枚、風に離れた。


 地面へ落ちる前に、暗がりの中で一度だけ光った。


 結果はまだ出ていない。


 それでも教室には、鉛筆が紙をこする音が戻っていた。



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