第8話 あなたの一日を、私が読む
九月の教室には、夏の名残と新しい紙の匂いが混ざっていた。
窓の外の柳はまだ青い。しかし、枝先の何枚かは色を薄くし始めている。
公開授業まで、あと五日。
黒板には、オレリアンが大きく書いた。
『自分ではない人の一日を、本人の前で読む』
「難易度が上がってる」
ウィロウが言った。
「最初は三百字だったのに」
「皆さんが成長したので」
「先生、成長を理由に仕事を増やすタイプですね」
「社会ではよくあることです」
「学校で社会の嫌なところを先取りしなくていいです」
プレシャスが笑った。
夏休みの間に、署名資料の分類はほぼ終わっていた。
市内在住者で住所確認ができ、重複を除いた正式署名。
近隣自治体からの通学希望、利用希望。
全国から寄せられた応援メッセージ。
三冊の背表紙には、それぞれ違う色の葉が貼られている。
緑、青、黄色。
プレシャスは、数を大きく見せるためではなく、意味を混ぜないために表を作った。
その作業を終えた今、次は作文だった。
組み合わせは、くじ引きで決めた。
ウィロウはプレシャス。
プレシャスはエドワン。
エドワンはミモザ。
ミモザはオレリアン。
「先生も対象なんですか」
オレリアンが、くじを見て言った。
「公平です」
ミモザは嬉しそうだった。
「先生の一日、全部聞くわ」
「授業に必要な範囲でお願いします」
「起床時間、朝食、恋愛歴」
「最後は必要ありません」
「公開授業に一番必要でしょう」
「必要ありません」
ウィロウは、原稿用紙の陰で笑った。
オレリアンと目が合いそうになり、すぐプレシャスへ向き直る。
教師と生徒の線は変わっていない。
むしろ、互いに意識したからこそ、前よりはっきりしていた。
「朝、本当は何時に起きる?」
ウィロウが聞いた。
「五時四十分。目覚ましは五時半から五分おきに三回」
「起きるのは三回目?」
「四回目。ルカが上に乗る」
「目覚ましより強いね」
「重いからね」
「朝食は?」
「ルカはパン。私はパンの耳。時間があれば卵。時間がなければ、ホテルの休憩まで食べない」
ウィロウの鉛筆が止まる。
「それ、前は知らなかった」
「言ってないから」
「どうして?」
「みんなも忙しいでしょう」
「忙しい人は、空腹を言っちゃいけない?」
プレシャスは少し考えた。
「そういうわけじゃない。でも、言ったら何かしてもらわなきゃいけない気がする」
「何もしなくても、知るだけでいいこともあるよ」
ウィロウは、自分で言ってから、その言葉を覚えておこうと思った。
エドワンへの聞き取りは、さらに時間がかかった。
プレシャスが質問する。
「朝、何時に起きますか」
「四時五十分」
「目覚ましは?」
「四時四十五分」
「五分間は何を?」
「起きるか検討する」
「実施するんですね」
「毎日な」
清掃現場へ着き、無人の床へ挨拶すること。
洗剤の容器は文字だけでなく、色と持ったときの重さでも見分けること。
妻が亡くなってから、朝食は同じ皿一枚で済ませるようになったこと。
授業の日は、新しい字を一つ覚えるまで帰らないと決めていること。
「図面を覚えていた頃、怖くなかった?」
プレシャスが聞いた。
「怖かった」
「失敗したら?」
「もっと覚えた」
「誰かに聞こうとは思わなかった?」
「聞いたら、読めないと分かる」
「分かったら、どうなると思ってた?」
「仕事がなくなる」
プレシャスの鉛筆が止まった。
役に立てないと、居場所がなくなる。
エドワンも、同じ場所を長い間歩いていたのだ。
「今は?」
「読めないと言っても、ここには席がある」
エドワンは答えた。
プレシャスは、その一文を原稿の中心に置いた。
一方、エドワンはミモザの人生を聞いていた。
「朝は何時だ」
「気分次第」
「数字で言え」
「六時から九時の間」
「幅が広い」
「人生に余白は必要よ」
「作文用紙に余白を作るな」
ミモザは、若い頃に洋裁店で働いたことを話した。
家計を助けるため学校を休み、のちに家族の介護が続いたこと。
読みたい本を買っても、辞書を引くのが遅く、途中で諦めたこと。
夫が亡くなったあと、時間ができたのに、今さら学校へ行くのは恥ずかしいと思っていたこと。
「どうして来た」
「七十歳を過ぎたら、恥ずかしがる時間がもったいなくなったの」
「もっと早く来ればよかったな」
「それを言わないのが礼儀でしょう」
「事実だ」
「事実を全部言うと嫌われるわよ」
「お前が言うな」
二人は、しばらく睨み合ってから笑った。
最後に、ミモザがオレリアンへ質問した。
「朝は何時?」
「六時です」
「朝食は?」
「ご飯、味噌汁、卵」
「ずいぶん整ってるわね。誰が作るの?」
「自分です」
「恋人は?」
「授業と関係ありません」
「一日の中に恋人がいるか確認しているだけ」
「いません」
教室の空気が一瞬止まった。
ウィロウは原稿用紙から顔を上げなかった。
ミモザは満足そうに次の質問へ進んだ。
「授業前に何をするの?」
「教材を準備します」
「何枚?」
「その日によります」
「全員同じじゃないの?」
「同じ内容でも、文字の大きさや問題の数、使う題材を変えます」
「誰も見ていないのに?」
「誰かが使います」
「生徒が帰ったあとは?」
「片づけと記録です」
「黒板消しに相談する?」
「しません」
「一度も?」
オレリアンが黙る。
エドワンが小さく言った。
「答えた」
「答えていません」
「黙るは肯定だ」
公開授業当日、教室の後ろには補助椅子が並んだ。
商店街の店主。
署名した保護者。
市内の別の学校の教員。
新聞記者もいたが、参加者の顔を撮影しない、作文内容は本人の許可なく記事へ使わないという条件を学校側から伝えてある。
教育委員会の瀬田は、一番後ろの席へ座った。
オレリアンは開始前に説明した。
「今日は、学校を残してほしいと訴える会ではありません。ここで行っている国語の授業を見ていただきます」
前列にいた男性が、隣へ小声で言った。
「勉強が遅れた人の補習みたいなものだろ」
声は小さかったが、ウィロウには聞こえた。
以前なら、その場で言い返していたかもしれない。
今日は、まず作文を読もうと思った。
最初はウィロウだった。
『朝五時四十分、私は三つの目覚ましを止め、四つ目の目覚ましに押しつぶされる』
会場に笑いが起きる。
ルカが前列から手を挙げた。
「ぼく、目覚ましじゃない」
「重さは目覚まし以上です」
プレシャスが答える。
笑いが大きくなる。
ウィロウは続けた。
『私は息子の靴下を探し、保育園へ送り、ホテルで誰かの幸せを予定どおり運ぶ。笑顔を先に出し、大丈夫と先に言い、そのあとで大丈夫になる方法を探す。夜、教室へ走る。私は学びたい。息子に宿題を聞かれたとき、分からないと隠すのではなく、一緒に考えられる母親になりたい』
プレシャスは俯いていた。
泣いているのではない。
一文ずつ、自分の一日が他人の声から戻ってくるのを聞いていた。
次はプレシャスだった。
エドワンの作文を本人が読むことになっている。
原稿用紙を受け取ったエドワンは、演台の前へ立った。
『朝四時五十分、私は、起きることを……検討する』
会場が笑う。
エドワンも少し笑った。
『五分後、実施する』
笑いが続いた。
そのあと、文章は静かになった。
『私は、まだ誰もいないビルの床へ、おはようと言う。床は返事をしない。返事をしない相手は、私が文字を読めるか聞かない』
エドワンは、そこで一度止まった。
次の漢字が読めない。
練習では読めた。
人が見ているだけで、字が知らない形に見える。
オレリアンは席を立たなかった。
プレシャスも助け舟を出さなかった。
観客の誰も、急かさなかった。
空調の音が聞こえる。
窓の外で、柳の葉が擦れる。
エドワンは指で字の形をなぞった。
「せん……ざい」
洗剤。
読めた。
次へ進む。
『私は洗剤の文字を読み、使う量を確かめる。昔は容器の色だけで覚えた。間違えないために、誰よりも見た。誰よりも覚えた。読めないと知られたら、仕事がなくなると思っていた』
前列の男性が、姿勢を正した。
『今、私は読めない字があると言える。言っても、私の席はなくならない。だから明日も、ここへ来る』
最後の一文を読み終える。
すぐには拍手が起きなかった。
言葉が教室へ沈み、全員の中へ届く時間があった。
それから、誰かが手を叩いた。
拍手が広がった。
エドワンは頭を下げ、席へ戻った。
「長かったな」
ミモザが囁く。
「待たせた」
「待つ授業なんでしょう」
エドワンは、少しだけ胸を張った。
続いて、エドワンがミモザの一日を読んだ。
『朝六時から九時の間、私は気分で起きる。人生に余白が必要だからだ』
「そこ、ちゃんと入れたのね」
ミモザが満足そうに言う。
『若い頃、私は布を裁った。家族の服を縫い、自分の時間を小さく折りたたんだ。介護が終わり、夫を見送り、時間が戻ってきたとき、私は何をしたいか分からなかった。七十歳を過ぎて、恥ずかしがる時間がもったいないと気づいた』
ミモザの隣に座っていた同年代の女性が、目元を押さえた。
最後はミモザだった。
『朝六時、私は味噌汁を作る。恋人はいない』
「そこから始めますか」
オレリアンが顔をしかめる。
「本人確認済みです」
教室が笑う。
『私は授業の一時間前に教室へ来る。机の上に四種類の紙を置く。ウィロウには木と土の言葉。エドワンには仕事と役所の言葉。プレシャスには自分の考えを順番に並べる言葉。私は同じ教室にいる人へ、同じ紙を配らない』
オレリアンは、驚いたようにミモザを見た。
彼女がそこまで見ていたとは思わなかった。
『生徒が帰ったあと、私は黒板消しへ相談する。今日の言い方は正しかったでしょうか。待つべきでしたか。押すべきでしたか』
「そこは創作です」
オレリアンが言った。
「作文には想像も必要でしょう」
「事実ではありません」
「一度もないの?」
会場の視線が集まる。
オレリアンは、しばらく黙った。
「一度だけです」
教室が沸いた。
「何を相談したんですか」
プレシャスが聞く。
「授業がうまくいかなかった日に、誰もいないと思って」
「黒板消しは何て?」
ウィロウが尋ねる。
「何も」
エドワンが真顔で言った。
「床と同じだな」
笑いと拍手が重なった。
公開授業が終わると、参加者はすぐ帰らなかった。
署名用紙へ向かう人。
三冊の資料を見る人。
作文を書いた本人へ話しかける人。
最初に「補習みたいなものだろ」と言った男性は、エドワンの前で足を止めた。
「私の兄も、読み書きが苦手だったんです」
男性は言った。
「家族は気づいていたのに、本人が嫌がると思って、誰も触れなかった。今日、聞けばよかったと思いました」
エドワンは答えた。
「今から聞けばいい」
「兄は、もう亡くなりました」
エドワンは黙った。
簡単な慰めを言わなかった。
代わりに、署名理由欄を指した。
「書けるなら、兄のことを書いてくれ」
男性は頷いた。
公開授業から三日後、住所確認が済んだ市内正式署名は千二百筆を超えた。
ただし、教室で喜ばれたのは数字だけではなかった。
理由欄が長くなった。
『母は病院の説明を分かったふりをしていました』
『不登校だった娘が、昼の学校だけが道ではないと知ってほしい』
『日本語を読み、子どもの連絡帳へ自分で返事を書きたい』
一行に収まらず、裏面へ続く人もいた。
瀬田は、公開授業のあとも教室に残っていた。
オレリアンではなく、生徒たちへ向かって話す。
「今日の授業を見て、この学級が必要とされる理由は、以前より具体的に理解できました」
ウィロウが尋ねる。
「では、残せますか」
瀬田はすぐに頷かなかった。
「今の校舎をそのまま使い続ける案は、安全と費用の面で難しいです」
教室の空気が沈む。
瀬田は続けた。
「耐震補強だけではなく、避難設備、空調、階段の安全対策も必要です。教員の配置も、今の人数のままでは維持できません」
「結局、無理ってことですか」
プレシャスが聞いた。
「今の建物のまま、という条件では難しいということです」
瀬田は鞄から市内地図を出した。
「通いやすい別の施設。必要な教員数。改修費。運営費。送迎が必要な人数。具体的な数字を示せるなら、中央夜間中学への全面統合以外の案も、正式な検討資料へ載せます」
「私たちが探すんですか」
ウィロウが聞く。
「行政側でも候補は調べます。ただ、利用者の事情を一番知っているのは皆さんです」
以前のウィロウなら、「そちらの仕事でしょう」と言ったかもしれない。
実際、それも一部は正しい。
だが、市側には安全と予算の事情がある。
生徒側には、通勤時刻、保育園、体力、乗り換えという事情がある。
どちらか一方の人生だけでは、通える教室を作れない。
「検討資料に載せるだけ?」
ウィロウは確認した。
「載せたあと、教育委員会で運営案を判断します。費用が必要なら、市議会で予算審議になります」
「決定ではない」
「はい」
瀬田は誤魔化さなかった。
「でも、統合案だけだったところへ、別の選択肢を正式に置くことはできます」
ウィロウは地図を受け取った。
赤い線が鉄道。
青い線がバス。
灰色の四角が公共施設。
今までは、古い教室を守ることだけを考えていた。
窓の柳。
傷のついた机。
黒板消しへ相談する先生。
失いたくない。
だが、建物を残すことと、学べる場所を残すことは同じではない。
「探そう」
ウィロウは言った。
「夜に使える施設。駅から近い場所。少し直せば教室にできるところ」
「保育園から間に合う場所」
プレシャスが加える。
「掃除が楽な床」
エドワンが言う。
「そこは重要?」
「毎日使うなら重要だ」
「近くに喫茶店も必要ね」
ミモザが言った。
「何のためですか」
「卒業後も私が通うため」
「まだ卒業してません」
オレリアンが指摘する。
「先の人生を検討しているの」
教室に笑いが戻った。
ウィロウは地図を黒板へ貼った。
風が入り、端がめくれる。
四人で押さえた。
プレシャスが上。
エドワンが左。
ミモザが右。
ウィロウが下。
オレリアンは画鋲を持ってきた。
誰か一人の手を離せば、紙はまた風にめくれる。
だから、全員で押さえている間に留める。
ウィロウは地図の中に、小さく書かれた施設名を見つけた。
『旧海風市立図書館 駅前分館』
駅から徒歩七分。
現在の用途は、資料倉庫。
「ここ、まだ建物がある?」
瀬田が地図へ近づいた。
「あります。ただし、一般利用はしていません」
「夜に使えるか、検討できますか」
ウィロウが聞く。
瀬田は、施設名を見つめた。
「まず、建物の状態を確認します」
ウィロウは笑った。
「実施する方法を探す方の検討でお願いします」
瀬田も、ほんの少し笑った。
「そのつもりです」
窓の外で、風に揺れる葉が光を返した。
同じ教室を残す話は、ここで形を変えた。
通える場所を作る話へ。
知らない人生を一日借りた人たちは、今度は、違う事情を持つ全員が通える明日を考え始めた。




