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風待ち教室の署名簿  作者: 乾為天女


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7/10

第7話 期待されない私で戻る

 ホテルの宴会場では、誰かの幸せが予定表どおりに進んでいた。


 午後一時、新郎新婦入場。


 一時七分、主賓挨拶。


 一時二十二分、乾杯。


 一時三十分、料理の提供開始。


 プレシャスは金色の名札を胸につけ、丸い盆へ空のグラスを並べた。口角を上げる角度は、鏡を見なくても分かる。


 「おめでとうございます」


 「こちら、お下げいたします」


 「少々お待ちくださいませ」


 求められる言葉を、求められる速さで出す。


 困っている客がいれば、呼ばれる前に近づく。子どもがスプーンを落とせば、新しいものを持っていく。年配の客が立ち上がれば、椅子を引く。


 期待されることを先に見つけるのは、プレシャスの得意な仕事だった。


 「今日、いつもより元気ね」


 先輩の女性スタッフが、すれ違いざまに言った。


 「寝不足を元気で押し切ってます」


 「若いっていいわね」


 「明日には若さを使い切ってるかもしれません」


 先輩が笑う。


 プレシャスも笑う。


 笑ったまま、次の卓へ向かった。


 胸元のポケットでスマートフォンが震えた。


 見なくても、誰からか想像できた。


 ウィロウ。


 オレリアン。


 学校の事務室。


 どれであっても、今は開けなかった。


 画面を開けば、「大丈夫ではない自分」が外へ漏れ出してしまいそうだった。


 披露宴は予定より十一分押していた。


 新婦の母親が手紙を読み始める。


 『あなたが生まれた朝、私は――』


 プレシャスは壁際へ立ち、会場全体を見渡した。


 泣く人。


 笑う人。


 ハンカチを忘れて隣から借りる人。


 退屈してナプキンを折る子ども。


 それぞれの表情を見れば、次に必要なものが分かる。


 なのに、自分が今何を必要としているのかは、分からなかった。


 『失敗しても、帰ってこられる場所を作りたいと思っていました』


 新婦の母親が読んだ。


 プレシャスの笑顔が、そこで止まった。


 帰ってこられる場所。


 学校へ戻ったら、何を言われるだろう。


 なぜ黙っていたの。


 もっと早く言ってくれればよかったのに。


 任せなければよかった。


 誰も言っていない言葉が、頭の中で次々に聞こえる。


 グラスを持つ手が震えた。


 「プレシャスさん、交代して」


 先輩が小声で言った。


 「大丈夫です」


 「大丈夫な顔じゃない。五分、裏へ」


 「でも、次にケーキ――」


 「ケーキは逃げない」


 「新郎新婦は逃げるかも」


 「そのときは警備を呼ぶから、行って」


 軽く背中を押された。


 プレシャスは会場を出た。


 扉が閉じると、拍手と音楽が一枚の壁の向こうへ遠ざかった。


 控室へ入り、椅子へ座る。


 鏡の中に、笑っていない自分がいた。


 名札を外した。


 それだけで、肩から何かが落ちた。


 涙が出た。


 声を立てるほどではない。


 化粧が崩れるのを気にして、頬へ落ちる前に指で押さえた。


 泣くときまで、後始末を考えている自分がおかしくて、少し笑った。


 笑ったら、また涙が出た。


 役に立てない自分には、居場所がない。


 その考えが、ずっと胸の奥にあった。


 母親になったとき、しっかりしなければと言われた。


 ホテルで働き始めたとき、明るいから向いていると言われた。


 夜間学級では、動画や端末に詳しいから助かると言われた。


 褒められるたび、役目が増えた。


 役目を失えば、自分までいなくなる気がした。


 スマートフォンがもう一度震えた。


 今度は保育園からだった。


 『ルカくん、元気に過ごしています。今日は葉っぱの絵を描きました』


 写真が添えられている。


 緑色の丸が五つ。真ん中に太い線。


 柳というより、足の多い虫に見えた。


 プレシャスは、鼻をすすりながら笑った。


 「葉っぱ、増えてるし」


 仕事が終わり、ルカを迎えに行った。


 帰宅すると、郵便受けに白い封筒が入っていた。


 学校からだった。


 欠席を責める文ではない。


 『体調やご事情に合わせて連絡してください。教材は保管しています』


 短い一文だった。


 オレリアンの字ではなく、学校の事務的な印刷文字だった。


 それでも、「戻ってきなさい」でも「端末を返してください」でもなかった。


 プレシャスは封筒をテーブルへ置いた。


 「ママ、学校行かないの?」


 ルカが聞いた。


 「今、夏休みの前の休み」


 「学校が勝手に休み?」


 「ママが勝手に休み」


 「怒られる?」


 「どうかな」


 「ぼく、怒られたら寝る」


 「それで許されるなら、ママも寝たい」


 ルカは真剣な顔で、ソファの端を空けた。


 「ここ、いいよ」


 プレシャスは、息子の隣へ座った。


 翌日の夕方、玄関の呼び鈴が鳴った。


 扉の小窓から見ると、ウィロウが立っていた。


 作業着ではなく、薄い灰色のシャツを着ている。手には透明な袋があった。


 プレシャスは迷った末、扉を少し開けた。


 「どうしたの」


 「これ、返しに来た」


 ウィロウが袋を差し出した。


 中には、ルカが最初に署名用紙へ描いた葉の絵が入っていた。


 正式署名の用紙から複写し、原画部分だけを切り取って保管していたものだ。


 「学校に置いておくと、ミモザさんが恋愛成就のお守りに加工しそうだから」


 「何の恋愛?」


 「私のじゃないよ」


 「聞いてないけど」


 ウィロウが一瞬黙る。


 プレシャスは少しだけ笑った。


 「入る?」


 「いいの?」


 「ルカが散らかしてるけど」


 「うちの弟は昔、ミミズを机の引き出しで飼ってた。たいていの散らかりは平気」


 「それは散らかりじゃなくて事件だよ」


 ウィロウを部屋へ通した。


 ルカは床に寝転び、色鉛筆を並べていた。


 「葉っぱのお姉さん」


 「木のお姉さんね」


 「今日は葉っぱ持ってる」


 「じゃあ今日だけ葉っぱのお姉さん」


 ウィロウは絵をルカへ返した。


 ルカは受け取ると、冷蔵庫へ磁石で貼った。


 緑の葉の隣には、保育園の給食表と、ひらがなの練習紙があった。


 ウィロウは座布団へ座った。


 「みんな、心配してる」


 「うん」


 「怒ってないよ」


 「まだ話してないからでしょう」


 「話せば分かる」


 ウィロウは、少し前のめりになった。


 「分類は手伝える。期限も延ばしてもらった。だから、端末のデータを見ながら一緒に――」


 プレシャスの胸が固くなった。


 やはり、それなのだと思った。


 葉の絵を返しに来たと言いながら、結局は資料の話になる。


 「学校へ戻ってきてよ」


 ウィロウは続けた。


 「公開授業もやる。動画の告知だって必要だし、三種類の資料をきちんと作れば、瀬田さんにも――」


 「結局、私が必要なんじゃなくて、私の端末が必要なんでしょう」


 声が、自分でも驚くほど冷たかった。


 ウィロウが動きを止めた。


 「違う」


 「今、ずっと端末と資料の話だった」


 「それは、困ってるから」


 「ほら」


 「プレシャス」


 「私が失敗したから、みんな困ってる。分かってるよ」


 プレシャスは膝の上で手を握った。


 「だから、ちゃんと整理したら戻る。迷惑をかけない状態にしてから戻る」


 「一人でやる必要ない」


 「一人でやるって言ったのは私」


 「でも、できなかったんでしょう」


 ウィロウの言葉が、まっすぐ刺さった。


 事実だった。


 事実だから痛かった。


 「帰って」


 「ごめん、言い方が――」


 「今日は帰って」


 ルカが二人の顔を見比べている。


 ウィロウは立ち上がった。


 「分かった」


 玄関へ向かい、靴を履く。


 「葉の絵、返したかったのは本当だから」


 「うん」


 「また来てもいい?」


 プレシャスは返事をしなかった。


 扉が閉まった。


 ウィロウは階段を下りながら、自分の口から出た言葉を何度も思い返した。


 できなかったんでしょう。


 正しい。


 だが、正しい言葉を相手の一番痛い場所へ投げた。


 オレリアンへ「正しいことを並べて動かない理由にしている」と言った自分が、今度は正しさで人を追い詰めた。


 翌日、教室で事情を話すと、エドワンは黙って聞いた。


 ミモザは腕を組んだ。


 「あなた、庭木にも同じことするの?」


 「何がですか」


 「弱っている枝に、早く伸びなさいって引っ張るの」


 「引っ張りません。折れるから」


 「人は折れないと思った?」


 ウィロウは何も言えなかった。


 オレリアンが、一枚の原稿用紙を机へ置いた。


 「課題です」


 「今?」


 「今だからです」


 黒板に題を書く。


 『プレシャスさんの一日を借りて書く』


 ウィロウは眉を寄せた。


 「本人に聞けないのに?」


 「聞いたことはあるでしょう。断片でも」


 「勝手に想像したら、先生が怖がってたことと同じになりませんか」


 「違いがあります」


 オレリアンは答えた。


 「これは公開しません。正解だとも決めません。あなたが見落としていた時間を考えるために書くんです」


 ウィロウは原稿用紙を見た。


 「最初の授業と同じ」


 「はい。ただし今回は、相手の靴を借りる前に、自分の靴を脱ぐ必要があります」


 ミモザが小声で言った。


 「先生、たまにうまいこと言うのよね」


 「たまに、は不要です」


 ウィロウは鉛筆を持った。


 『朝六時、私は目覚ましより先に起きる』


 書いて、止まる。


 プレシャスは朝何時に起きるのか知らない。


 保育園へ何時に送るのか。


 ルカが朝食を食べない日はどうするのか。


 ホテルの制服へ着替える場所はどこか。


 披露宴で何時間立ち続けるのか。


 授業のあと、帰宅してから動画を編集していたのか。


 知らないことばかりだった。


 ウィロウは、分からない部分へ「たぶん」と書かず、空白を残した。


 分かることだけをつないだ。


 『私は、子どもの靴を左右反対に履かせてやり直す』


 『私は、ホテルで笑顔を先に出す』


 『私は、教室で誰かが困るより先に端末を開く』


 『私は、大丈夫と返事をしてから、大丈夫になる方法を探す』


 最後の一文を書いたとき、ウィロウの手が止まった。


 プレシャスは、失敗を隠したかったのではない。


 期待を失うのが怖かったのだ。


 役に立つ人でなくなった瞬間、居場所から外されると思っていた。


 ウィロウは、その思い込みを否定する前に、自分が端末と動画の話をしたことを思い出した。


 翌日の夕方、もう一度プレシャスの家を訪ねた。


 今度は手ぶらだった。


 扉が少し開く。


 「また端末?」


 「違う」


 ウィロウは頭を下げた。


 「戻ってきてって言う前に、謝りに来た」


 プレシャスは黙っている。


 「私は、あなたが何をしてきたか知ってるつもりだった。でも、動画を作る時間も、集計する時間も、ルカを迎えに行く時間も、ちゃんと考えてなかった」


 原稿用紙を差し出す。


 「勝手に書いた。違うところだらけだと思う」


 プレシャスは受け取った。


 玄関先で読む。


 途中まで読んだところで、ルカが脇から覗いた。


 「ママ、朝静かじゃないよ」


 赤い色鉛筆を持ってきて、原稿用紙の余白へ大きく書く。


 『ママはあさこんなにしずかじゃない』


 「ちょっと、ルカ」


 「朝、早くって言う」


 「それはあなたが靴下を片方なくすからでしょう」


 「ママがしまった」


 「しまった場所から出して、なくしたのはあなた」


 ウィロウが吹き出した。


 プレシャスも、耐えきれず笑った。


 久しぶりに、誰かを安心させるためではない笑いだった。


 「文章、朝以外はだいたい合ってる」


 プレシャスは言った。


 「大丈夫って言ってから探すところも」


 「ごめん」


 「私も、ごめん。市外の分、最初から混ざってた。重複もある。住所を任意にしたから、市内かどうか分からない人もいる」


 「一緒に分けよう」


 「その前に、分け方を決めたい」


 プレシャスはテーブルへノートを広げた。


 一、市内在住者の正式署名。


 二、近隣自治体から通学を希望する人、利用を希望する人の署名。


 三、全国からの応援メッセージ。


 「三冊にする」


 プレシャスは言った。


 「住所が確認できない人は、正式署名へ入れない。重複も除く。でも、消さない。応援の冊子へ入れる」


 「瀬田さんが資料として受け取ってくれるかな」


 「正式署名と同じ扱いじゃなくていい。参考資料って書く。何の数字か分かるようにする」


 ウィロウは頷いた。


 「それ、プレシャスが説明して」


 「私が?」


 「失敗した人だからじゃない。直し方を考えた人だから」


 プレシャスは、すぐには答えなかった。


 期待される役を渡されたようで、胸が一度固くなる。


 だが、今回は「できる人でいなければ」という役ではなかった。


 失敗を含めたまま、自分の言葉で話す役だった。


 「考える」


 「大丈夫って言わないんだ」


 「大丈夫じゃないから」


 「それでいい」


 夏休み前、プレシャスは教室へ戻った。


 緑色のペンは、机の上にそのまま置かれていた。


 ミモザが言う。


 「遅かったわね。私なら三日で元交際相手全員を分類できる」


 「何の分類ですか」


 「謝る人、謝らない人、まだ私を好きな人」


 「最後の分類、本人に確認しました?」


 「必要ないわ」


 エドワンが緑色のペンをプレシャスへ差し出した。


 「インクは出る」


 「使ったの?」


 「毎日、確認した」


 「どうして?」


 「戻ったときに書けないと困る」


 プレシャスは、ペンを受け取った。


 「ありがとう」


 全員の前で、資料が混ざった経緯を説明した。


 早く数を増やしたかったこと。


 期待を裏切るのが怖くて、途中で言えなかったこと。


 三冊へ分け直すこと。


 正式署名の数が減る可能性があること。


 話し終わっても、誰も席を立たなかった。


 責める声もなかった。


 ウィロウが最初に言った。


 「減った数じゃなくて、残った数を本当の数にしよう」


 エドワンが頷く。


 「嘘の千人より、本当の一人だ」


 「でも、本当の千人は欲しいわね」


 ミモザが言った。


 「欲張り」


 プレシャスが笑う。


 オレリアンは、公開授業の企画書を配った。


 「夏休み明けの九月に行います。参加は自由。書きたくないこと、読まれたくないことは使いません」


 その日のうちに、教育委員会から連絡が届いた。


 夜間学級の統合案について、市議会の文教委員会で参考人意見聴取を行う予定がある。日程は九月の公開授業後、正式に調整するという。


 「あと二週間で夏休み。そのあと、公開授業」


 ウィロウが言った。


 「署名だけじゃ足りない。ここで何をしているか、見てもらおう」


 プレシャスは緑色のペンを握った。


 失敗する前の自分へ戻るのではない。


 失敗したことを知っている自分として、もう一度ここへ座る。


 窓から入る風が、緑色のペンと、三冊に分けるための見出し紙を揺らした。


 プレシャスはそれを手で押さえた。


 今度は一人で抱え込むためではなく、隣の人と一緒にページを綴じるために。



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