第7話 期待されない私で戻る
ホテルの宴会場では、誰かの幸せが予定表どおりに進んでいた。
午後一時、新郎新婦入場。
一時七分、主賓挨拶。
一時二十二分、乾杯。
一時三十分、料理の提供開始。
プレシャスは金色の名札を胸につけ、丸い盆へ空のグラスを並べた。口角を上げる角度は、鏡を見なくても分かる。
「おめでとうございます」
「こちら、お下げいたします」
「少々お待ちくださいませ」
求められる言葉を、求められる速さで出す。
困っている客がいれば、呼ばれる前に近づく。子どもがスプーンを落とせば、新しいものを持っていく。年配の客が立ち上がれば、椅子を引く。
期待されることを先に見つけるのは、プレシャスの得意な仕事だった。
「今日、いつもより元気ね」
先輩の女性スタッフが、すれ違いざまに言った。
「寝不足を元気で押し切ってます」
「若いっていいわね」
「明日には若さを使い切ってるかもしれません」
先輩が笑う。
プレシャスも笑う。
笑ったまま、次の卓へ向かった。
胸元のポケットでスマートフォンが震えた。
見なくても、誰からか想像できた。
ウィロウ。
オレリアン。
学校の事務室。
どれであっても、今は開けなかった。
画面を開けば、「大丈夫ではない自分」が外へ漏れ出してしまいそうだった。
披露宴は予定より十一分押していた。
新婦の母親が手紙を読み始める。
『あなたが生まれた朝、私は――』
プレシャスは壁際へ立ち、会場全体を見渡した。
泣く人。
笑う人。
ハンカチを忘れて隣から借りる人。
退屈してナプキンを折る子ども。
それぞれの表情を見れば、次に必要なものが分かる。
なのに、自分が今何を必要としているのかは、分からなかった。
『失敗しても、帰ってこられる場所を作りたいと思っていました』
新婦の母親が読んだ。
プレシャスの笑顔が、そこで止まった。
帰ってこられる場所。
学校へ戻ったら、何を言われるだろう。
なぜ黙っていたの。
もっと早く言ってくれればよかったのに。
任せなければよかった。
誰も言っていない言葉が、頭の中で次々に聞こえる。
グラスを持つ手が震えた。
「プレシャスさん、交代して」
先輩が小声で言った。
「大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃない。五分、裏へ」
「でも、次にケーキ――」
「ケーキは逃げない」
「新郎新婦は逃げるかも」
「そのときは警備を呼ぶから、行って」
軽く背中を押された。
プレシャスは会場を出た。
扉が閉じると、拍手と音楽が一枚の壁の向こうへ遠ざかった。
控室へ入り、椅子へ座る。
鏡の中に、笑っていない自分がいた。
名札を外した。
それだけで、肩から何かが落ちた。
涙が出た。
声を立てるほどではない。
化粧が崩れるのを気にして、頬へ落ちる前に指で押さえた。
泣くときまで、後始末を考えている自分がおかしくて、少し笑った。
笑ったら、また涙が出た。
役に立てない自分には、居場所がない。
その考えが、ずっと胸の奥にあった。
母親になったとき、しっかりしなければと言われた。
ホテルで働き始めたとき、明るいから向いていると言われた。
夜間学級では、動画や端末に詳しいから助かると言われた。
褒められるたび、役目が増えた。
役目を失えば、自分までいなくなる気がした。
スマートフォンがもう一度震えた。
今度は保育園からだった。
『ルカくん、元気に過ごしています。今日は葉っぱの絵を描きました』
写真が添えられている。
緑色の丸が五つ。真ん中に太い線。
柳というより、足の多い虫に見えた。
プレシャスは、鼻をすすりながら笑った。
「葉っぱ、増えてるし」
仕事が終わり、ルカを迎えに行った。
帰宅すると、郵便受けに白い封筒が入っていた。
学校からだった。
欠席を責める文ではない。
『体調やご事情に合わせて連絡してください。教材は保管しています』
短い一文だった。
オレリアンの字ではなく、学校の事務的な印刷文字だった。
それでも、「戻ってきなさい」でも「端末を返してください」でもなかった。
プレシャスは封筒をテーブルへ置いた。
「ママ、学校行かないの?」
ルカが聞いた。
「今、夏休みの前の休み」
「学校が勝手に休み?」
「ママが勝手に休み」
「怒られる?」
「どうかな」
「ぼく、怒られたら寝る」
「それで許されるなら、ママも寝たい」
ルカは真剣な顔で、ソファの端を空けた。
「ここ、いいよ」
プレシャスは、息子の隣へ座った。
翌日の夕方、玄関の呼び鈴が鳴った。
扉の小窓から見ると、ウィロウが立っていた。
作業着ではなく、薄い灰色のシャツを着ている。手には透明な袋があった。
プレシャスは迷った末、扉を少し開けた。
「どうしたの」
「これ、返しに来た」
ウィロウが袋を差し出した。
中には、ルカが最初に署名用紙へ描いた葉の絵が入っていた。
正式署名の用紙から複写し、原画部分だけを切り取って保管していたものだ。
「学校に置いておくと、ミモザさんが恋愛成就のお守りに加工しそうだから」
「何の恋愛?」
「私のじゃないよ」
「聞いてないけど」
ウィロウが一瞬黙る。
プレシャスは少しだけ笑った。
「入る?」
「いいの?」
「ルカが散らかしてるけど」
「うちの弟は昔、ミミズを机の引き出しで飼ってた。たいていの散らかりは平気」
「それは散らかりじゃなくて事件だよ」
ウィロウを部屋へ通した。
ルカは床に寝転び、色鉛筆を並べていた。
「葉っぱのお姉さん」
「木のお姉さんね」
「今日は葉っぱ持ってる」
「じゃあ今日だけ葉っぱのお姉さん」
ウィロウは絵をルカへ返した。
ルカは受け取ると、冷蔵庫へ磁石で貼った。
緑の葉の隣には、保育園の給食表と、ひらがなの練習紙があった。
ウィロウは座布団へ座った。
「みんな、心配してる」
「うん」
「怒ってないよ」
「まだ話してないからでしょう」
「話せば分かる」
ウィロウは、少し前のめりになった。
「分類は手伝える。期限も延ばしてもらった。だから、端末のデータを見ながら一緒に――」
プレシャスの胸が固くなった。
やはり、それなのだと思った。
葉の絵を返しに来たと言いながら、結局は資料の話になる。
「学校へ戻ってきてよ」
ウィロウは続けた。
「公開授業もやる。動画の告知だって必要だし、三種類の資料をきちんと作れば、瀬田さんにも――」
「結局、私が必要なんじゃなくて、私の端末が必要なんでしょう」
声が、自分でも驚くほど冷たかった。
ウィロウが動きを止めた。
「違う」
「今、ずっと端末と資料の話だった」
「それは、困ってるから」
「ほら」
「プレシャス」
「私が失敗したから、みんな困ってる。分かってるよ」
プレシャスは膝の上で手を握った。
「だから、ちゃんと整理したら戻る。迷惑をかけない状態にしてから戻る」
「一人でやる必要ない」
「一人でやるって言ったのは私」
「でも、できなかったんでしょう」
ウィロウの言葉が、まっすぐ刺さった。
事実だった。
事実だから痛かった。
「帰って」
「ごめん、言い方が――」
「今日は帰って」
ルカが二人の顔を見比べている。
ウィロウは立ち上がった。
「分かった」
玄関へ向かい、靴を履く。
「葉の絵、返したかったのは本当だから」
「うん」
「また来てもいい?」
プレシャスは返事をしなかった。
扉が閉まった。
ウィロウは階段を下りながら、自分の口から出た言葉を何度も思い返した。
できなかったんでしょう。
正しい。
だが、正しい言葉を相手の一番痛い場所へ投げた。
オレリアンへ「正しいことを並べて動かない理由にしている」と言った自分が、今度は正しさで人を追い詰めた。
翌日、教室で事情を話すと、エドワンは黙って聞いた。
ミモザは腕を組んだ。
「あなた、庭木にも同じことするの?」
「何がですか」
「弱っている枝に、早く伸びなさいって引っ張るの」
「引っ張りません。折れるから」
「人は折れないと思った?」
ウィロウは何も言えなかった。
オレリアンが、一枚の原稿用紙を机へ置いた。
「課題です」
「今?」
「今だからです」
黒板に題を書く。
『プレシャスさんの一日を借りて書く』
ウィロウは眉を寄せた。
「本人に聞けないのに?」
「聞いたことはあるでしょう。断片でも」
「勝手に想像したら、先生が怖がってたことと同じになりませんか」
「違いがあります」
オレリアンは答えた。
「これは公開しません。正解だとも決めません。あなたが見落としていた時間を考えるために書くんです」
ウィロウは原稿用紙を見た。
「最初の授業と同じ」
「はい。ただし今回は、相手の靴を借りる前に、自分の靴を脱ぐ必要があります」
ミモザが小声で言った。
「先生、たまにうまいこと言うのよね」
「たまに、は不要です」
ウィロウは鉛筆を持った。
『朝六時、私は目覚ましより先に起きる』
書いて、止まる。
プレシャスは朝何時に起きるのか知らない。
保育園へ何時に送るのか。
ルカが朝食を食べない日はどうするのか。
ホテルの制服へ着替える場所はどこか。
披露宴で何時間立ち続けるのか。
授業のあと、帰宅してから動画を編集していたのか。
知らないことばかりだった。
ウィロウは、分からない部分へ「たぶん」と書かず、空白を残した。
分かることだけをつないだ。
『私は、子どもの靴を左右反対に履かせてやり直す』
『私は、ホテルで笑顔を先に出す』
『私は、教室で誰かが困るより先に端末を開く』
『私は、大丈夫と返事をしてから、大丈夫になる方法を探す』
最後の一文を書いたとき、ウィロウの手が止まった。
プレシャスは、失敗を隠したかったのではない。
期待を失うのが怖かったのだ。
役に立つ人でなくなった瞬間、居場所から外されると思っていた。
ウィロウは、その思い込みを否定する前に、自分が端末と動画の話をしたことを思い出した。
翌日の夕方、もう一度プレシャスの家を訪ねた。
今度は手ぶらだった。
扉が少し開く。
「また端末?」
「違う」
ウィロウは頭を下げた。
「戻ってきてって言う前に、謝りに来た」
プレシャスは黙っている。
「私は、あなたが何をしてきたか知ってるつもりだった。でも、動画を作る時間も、集計する時間も、ルカを迎えに行く時間も、ちゃんと考えてなかった」
原稿用紙を差し出す。
「勝手に書いた。違うところだらけだと思う」
プレシャスは受け取った。
玄関先で読む。
途中まで読んだところで、ルカが脇から覗いた。
「ママ、朝静かじゃないよ」
赤い色鉛筆を持ってきて、原稿用紙の余白へ大きく書く。
『ママはあさこんなにしずかじゃない』
「ちょっと、ルカ」
「朝、早くって言う」
「それはあなたが靴下を片方なくすからでしょう」
「ママがしまった」
「しまった場所から出して、なくしたのはあなた」
ウィロウが吹き出した。
プレシャスも、耐えきれず笑った。
久しぶりに、誰かを安心させるためではない笑いだった。
「文章、朝以外はだいたい合ってる」
プレシャスは言った。
「大丈夫って言ってから探すところも」
「ごめん」
「私も、ごめん。市外の分、最初から混ざってた。重複もある。住所を任意にしたから、市内かどうか分からない人もいる」
「一緒に分けよう」
「その前に、分け方を決めたい」
プレシャスはテーブルへノートを広げた。
一、市内在住者の正式署名。
二、近隣自治体から通学を希望する人、利用を希望する人の署名。
三、全国からの応援メッセージ。
「三冊にする」
プレシャスは言った。
「住所が確認できない人は、正式署名へ入れない。重複も除く。でも、消さない。応援の冊子へ入れる」
「瀬田さんが資料として受け取ってくれるかな」
「正式署名と同じ扱いじゃなくていい。参考資料って書く。何の数字か分かるようにする」
ウィロウは頷いた。
「それ、プレシャスが説明して」
「私が?」
「失敗した人だからじゃない。直し方を考えた人だから」
プレシャスは、すぐには答えなかった。
期待される役を渡されたようで、胸が一度固くなる。
だが、今回は「できる人でいなければ」という役ではなかった。
失敗を含めたまま、自分の言葉で話す役だった。
「考える」
「大丈夫って言わないんだ」
「大丈夫じゃないから」
「それでいい」
夏休み前、プレシャスは教室へ戻った。
緑色のペンは、机の上にそのまま置かれていた。
ミモザが言う。
「遅かったわね。私なら三日で元交際相手全員を分類できる」
「何の分類ですか」
「謝る人、謝らない人、まだ私を好きな人」
「最後の分類、本人に確認しました?」
「必要ないわ」
エドワンが緑色のペンをプレシャスへ差し出した。
「インクは出る」
「使ったの?」
「毎日、確認した」
「どうして?」
「戻ったときに書けないと困る」
プレシャスは、ペンを受け取った。
「ありがとう」
全員の前で、資料が混ざった経緯を説明した。
早く数を増やしたかったこと。
期待を裏切るのが怖くて、途中で言えなかったこと。
三冊へ分け直すこと。
正式署名の数が減る可能性があること。
話し終わっても、誰も席を立たなかった。
責める声もなかった。
ウィロウが最初に言った。
「減った数じゃなくて、残った数を本当の数にしよう」
エドワンが頷く。
「嘘の千人より、本当の一人だ」
「でも、本当の千人は欲しいわね」
ミモザが言った。
「欲張り」
プレシャスが笑う。
オレリアンは、公開授業の企画書を配った。
「夏休み明けの九月に行います。参加は自由。書きたくないこと、読まれたくないことは使いません」
その日のうちに、教育委員会から連絡が届いた。
夜間学級の統合案について、市議会の文教委員会で参考人意見聴取を行う予定がある。日程は九月の公開授業後、正式に調整するという。
「あと二週間で夏休み。そのあと、公開授業」
ウィロウが言った。
「署名だけじゃ足りない。ここで何をしているか、見てもらおう」
プレシャスは緑色のペンを握った。
失敗する前の自分へ戻るのではない。
失敗したことを知っている自分として、もう一度ここへ座る。
窓から入る風が、緑色のペンと、三冊に分けるための見出し紙を揺らした。
プレシャスはそれを手で押さえた。
今度は一人で抱え込むためではなく、隣の人と一緒にページを綴じるために。




