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風待ち教室の署名簿  作者: 乾為天女


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第6話 先生が怖がっているもの

 七月に入ると、教室の窓を開けても風が涼しくなくなった。


 柳の葉は青く茂り、枝の内側へ熱気を抱え込んでいる。


 オレリアンは授業が始まる一時間前から、職員室の机に四種類の教材を並べていた。


 ウィロウには、造園技能士の学科問題を題材にした文章読解。


 エドワンには、清掃用品の注意書きと、市役所から届く通知文の読み方。


 ミモザには、新聞の短い記事と地図記号。


 プレシャスには、漢字の復習と、理由を筋道立てて書く練習。


 同じ教室にいても、必要な学びは同じではない。


 だから一人ずつ別の紙を作る。


 時間がかかる。


 だが、時間がかかることを理由に同じ紙を配れば、誰かがまた「自分には分からない」と言えないまま座ることになる。


 オレリアンは、プレシャス用の教材へ日付を書こうとして、手を止めた。


 彼女は三日続けて欠席している。


 連絡は短い。


 『仕事が忙しいので休みます』


 署名資料の分類期限は、二日後だった。


 ウィロウからは、プレシャスの端末にしかない記録が残っていると聞いている。


 電話をしても出ない。


 メッセージには既読がつかない。


 教員として連絡できる範囲と、署名活動の仲間として踏み込みたい範囲は違う。


 その境目を考えるたび、五年前の光景が戻ってきた。


 折り畳み椅子が並ぶ説明会場。


 正面の机へ座る教育委員会職員。


 閉鎖案に反対する生徒たち。


 オレリアンは、あのときも生徒を守るつもりだった。


 『数字だけで判断しないでください。この人たちには、この学校しかないんです』


 声を張った。


 記者が来た。


 翌日の記事には、「教師が感情的に反発」と書かれた。


 学校名が広まり、生徒の家や職場へ取材が向かった。


 家族へ通学を隠していた人もいた。


 読み書きが苦手だと知られたくない人もいた。


 その一人が、後日、静かに言った。


 『先生、私はただ卒業したかったんです。立派な話にされたくなかった』


 正しいことを言ったつもりだった。


 だが、正しさの前へ、生徒本人を立たせてしまった。


 以来、オレリアンは人前で学校の必要性を語ろうとすると、喉の奥が狭くなる。


 自分の言葉で、また誰かの生活を勝手に代表するのではないか。


 生徒のためと言いながら、自分が正しい教師であることを証明したいだけではないか。


 ノックの音がした。


 ウィロウが職員室の入口に立っていた。


 「まだ授業前ですよ」


 「分かってます。聞きたいことがあって」


 「署名活動についてなら、学校の職員室ではなく、授業後にしてください」


 「それです」


 ウィロウは入ってこず、入口で腕を組んだ。


 「先生は、どこまでなら手伝えるんですか」


 「提出形式や個人情報の扱いについて、一般的な注意を伝えることはできます。ただし、学校として署名を集めたり、教員が代表者になったりはできません」


 「それは何回も聞きました」


 「では、何を聞きたいんですか」


 「できない理由じゃなくて、怖い理由です」


 オレリアンの手が止まった。


 ウィロウは真っすぐこちらを見ている。


 怒っているようにも見えた。


 心配しているようにも見えた。


 「先生、説明会のときから、ずっと一歩後ろにいるでしょう」


 「教員として必要な距離です」


 「距離だけじゃない」


 「決めつけないでください」


 思ったより強い声が出た。


 ウィロウの眉が上がる。


 オレリアンは息を整えた。


 「すみません」


 「怒ることもあるんですね」


 「あります」


 「いつも黒板消しにしか相談しないのかと思った」


 「誰から聞いたんですか」


 「ミモザさんです」


 「事実ではありません」


 「黒板消しに話しかけたこと、一度もない?」


 オレリアンは答えなかった。


 ウィロウの口元が少し緩んだ。


 「授業後なら話せますか」


 「……授業後に」


 その日の授業は、いつもより静かだった。


 プレシャスの席が空いている。


 机の上には何もない。


 ミモザは何度もそちらを見た。


 エドワンは見ないふりをしていた。


 ウィロウは文章読解の問題へ向かっていたが、ページをめくる音が少し乱暴だった。


 授業の終わり、オレリアンは全員へ話した。


 「署名資料の分類は、提出先から求められた作業です。ただ、プレシャスさんが一人で抱える必要はありません」


 「連絡がつかない」


 ウィロウが言った。


 「家へ行こうと思います」


 「まず、学校から本人の安全確認をします。住所を、署名活動のために勝手に使うことはできません」


 「でも私、前に送ってもらったことがあるから知ってます」


 「知っていることと、使ってよいことは違います」


 ウィロウは唇を結んだ。


 オレリアンは続けた。


 「ただし、友人として連絡することまで止めるつもりはありません。返事を急がせず、仕事や育児の状況も考えてください」


 「先生は、結局、何をしてくれるんですか」


 「学校から欠席理由を確認します」


 「それだけ?」


 「それ以上を教員が先導すると、本人の意思を置き去りにする可能性があります」


 「またそれ」


 ウィロウが立ち上がった。


 「本人の意思、個人情報、教員の立場。全部正しい。でも正しいことを並べて、動かない理由にしてない?」


 教室が凍った。


 ミモザが、珍しく口を挟まない。


 エドワンは机の木目を見ていた。


 オレリアンは、返す言葉を探した。


 正しい答えはいくつも浮かぶ。


 学校職員としての責任。


 活動の公平性。


 生徒へ与える影響。


 だが、ウィロウが聞いているのは、それではない。


 「授業は終わりました」


 オレリアンは言った。


 「少し、外で話しましょう」


 校舎裏の柳の下は、昼間よりわずかに涼しかった。


 細い葉が風を受け、重なり合う音を立てる。


 遠くで電車が通った。


 ウィロウは幹へ背を預けた。


 「怒らせました?」


 「少し」


 「すみません」


 「謝るのが早いですね」


 「先生が先に謝ったから」


 オレリアンは、柳の枝を見上げた。


 話すべきか、迷った。


 生徒へ自分の傷を見せることが、適切なのか。


 また、相手に自分を支えさせることにならないか。


 その迷い自体が、いつもの逃げ道かもしれない。


 「五年前、別の夜間学級の閉鎖案がありました」


 オレリアンは話し始めた。


 「私は説明会で反対しました。生徒の事情を知っていたので、黙っていられなかった」


 「閉鎖されたんですか」


 「されました」


 「先生のせいじゃないでしょう」


 「結果だけなら、そうです」


 オレリアンは、当時の記事と、生徒の言葉を説明した。


 取材が押しかけたこと。


 通学を知られたくなかった人がいたこと。


 『立派な話にされたくなかった』


 その一言が、今も胸の奥に残っていること。


 「私は、生徒を守ると言いながら、生徒の人生を自分の主張の材料にしたのかもしれません」


 「本人の許可を取らなかった?」


 「個人名は出していません。それでも、学校名や状況から分かる人には分かった」


 「だから、今回も前に出ない」


 「怖いんです」


 言葉にした途端、胸の奥が冷えた。


 教師が生徒へ「怖い」と言う。


 それだけで、自分の役割が崩れるような気がした。


 「また、自分の正しさに酔って、誰かを傷つけるのが怖い。何かを守ろうとして、守る相手の声を聞かなくなるのが怖い」


 ウィロウは、すぐには答えなかった。


 風が強くなり、葉が細かく震えた。


 「怖いのに、先生は教室へ来てるんですね」


 「仕事ですから」


 「それだけ?」


 オレリアンは、彼女を見た。


 ウィロウは笑っていなかった。


 「怖いのに来て、私たちの紙を一人ずつ作って、署名の注意も調べてくれた。前に出ないことと、逃げることは同じじゃないと思います」


 「ですが、あなたはさっき動かない理由にしていると言いました」


 「言いました。半分は今もそう思ってます」


 率直すぎて、オレリアンは思わず息を漏らした。


 「でも、怖いことを隠して、全部立場の話にしてたから腹が立ったんです」


 「生徒へ話す内容ではないと思っていました」


 「先生は、支える側は弱いところを見せちゃいけないと思ってる?」


 オレリアンは答えられなかった。


 それが答えだった。


 「エドワンさんは、読めないと言った。プレシャスは、たぶん今、大丈夫じゃないのに大丈夫って言ってる。私も、何でもすぐ決めればいいと思ってた」


 ウィロウは、柳の幹を指でなぞった。


 「先生も、怖いって言っていいんじゃないですか」


 葉が一枚、風に外れて落ちてきた。


 ウィロウの髪へ引っかかる。


 オレリアンは反射的に手を伸ばした。


 指先が、彼女の髪へ触れる直前で止まる。


 教師と生徒。


 今、彼女は自分を慰めるためにここにいるのではない。


 オレリアンは手を下ろした。


 「葉がついています」


 ウィロウは自分で髪へ手をやり、細い葉を取った。


 「取ってくれてもよかったのに」


 「言えば取れます」


 「そうですね」


 短い返事だった。


 彼女は、オレリアンが引いた線を理解したようだった。


 胸の奥に、安堵と寂しさが同時に生まれた。


 その感情に、今はまだ名前をつけるべきではない。


 少なくとも今は。


 「先生が代表になれないのは分かりました」


 ウィロウが言った。


 「でも、先生にしかできないことはありますか」


 オレリアンは、しばらく考えた。


 「公開授業ならできます」


 「公開授業?」


 「学校の教育活動として、生徒が作文を朗読する授業です。署名を集める場にはしません。参加するか、どこまで話すかは一人ずつ決める。公開したくない内容は使わない」


 「それで、教室が必要な理由を伝える?」


 「主張を押しつけるのではなく、ここで何を学んでいるかを見てもらう」


 ウィロウの目が明るくなった。


 「『誰かの一日を借りて書く』をやるんですね」


 「はい。違う人の一日を聞き、自分の言葉で書く。最初の授業でやったことを、もう一度」


 「それなら、先生は先生として前に出られる」


 「授業の責任者としてなら」


 オレリアンは頷いた。


 「署名運動と授業は分けます。ただ、授業を見た人が何を感じるかまでは、こちらが決めることではありません」


 「検討する価値ありです」


 「その使い方は、少し腹が立ちますね」


 「怒ることもあるんでしょう」


 ウィロウが笑った。


 翌日、教室へ入ると、ミモザが窓際で待ち構えていた。


 「先生」


 「何ですか」


 「柳の下は告白に向きませんよ」


 オレリアンの足が止まる。


 ウィロウは鞄を落としそうになった。


 「何の話ですか」


 「虫が多いもの。特にこの季節は蚊がいるでしょう」


 「告白してません」


 ウィロウが強く言う。


 「そうなの? 昨日、二人で長く話していたから」


 「公開授業の相談です」


 「公開する告白?」


 「授業です」


 エドワンが席から顔を上げた。


 「五月十五恋の続きか」


 「まだ覚えていたんですか」


 「読める字は覚える」


 教室に笑いが起きた。


 オレリアンは黒板へ今日の日付を書いた。


 今度は間違えないよう、いつもより慎重に。


 七月七日。


 「七夕ね」


 ミモザが言った。


 「先生の願い事は?」


 「全員が授業へ集中することです」


 「かなわなそう」


 ウィロウが即答した。


 笑いがもう一度広がる。


 だが、プレシャスの席は今日も空いていた。


 机の上には、前回忘れていった緑色のペンが一本だけ残っている。


 授業後、オレリアンは職員用の連絡記録を確認した。


 電話はつながらない。


 メールの返信もない。


 ホテルへ直接連絡することは、本人の事情を職場へ知らせる危険があるため避けた。


 緊急連絡先へ連絡するほどの根拠はない。


 ウィロウたちには、署名データの提出期限延長を瀬田へ相談するよう勧めた。


 「プレシャスがいなくても、できるところから分けよう」


 ウィロウは言った。


 「でも端末の中の分は、本人しか開けない」


 エドワンが答える。


 「待つしかないな」


 「待って、戻らなかったら?」


 ミモザが、緑のペンを見た。


 誰も答えなかった。


 オレリアンは公開授業の企画書を机へ置いた。


 誰かの人生を勝手に語らないこと。


 本人が話したくないことを、話させないこと。


 話せない日には、待つこと。


 支えることは、前へ引っ張ることだけではない。


 しかし、待つだけでよいのかという不安も残る。


 窓の外で、柳の葉が風に揺れていた。


 一枚の葉だけが枝の内側へ巻き込まれ、外から見えなくなる。


 それでも枝は、そこに葉があることを知っている。


 オレリアンは、プレシャスの教材を捨てずに机の中へしまった。


 戻ってきたとき、途中からではなく、その日のための紙を渡せるように。



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