↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風待ち教室の署名簿  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/10

第5話 読めないと言える日

 六月の商店街には、梅雨入り前の湿った風が流れていた。


 エドワンは、署名用紙の入った透明な箱を両腕で抱え、パン屋と薬局の間をゆっくり歩いた。箱の側面には、ルカが描いた柳の葉が貼られている。先の尖った緑の丸が三枚。絵だけを見れば、何かの青汁の宣伝にも見えた。


 胸ポケットには、説明用の紙が入っていた。


 『海風市立みなと中学校夜間学級は、来年度、中央夜間中学へ統合される案が出ています。通学時間や仕事、育児、体力上の事情により、現在の生徒の多くが――』


 紙を開かなくても、最初の二行は覚えていた。


 三行目から先は、ところどころ文字が混ざる。


 通学時間は読める。仕事も読める。育児は、最初の字が子どもの「育」だと分かる。体力も分かる。


 しかし、「事情」と「継続」が続けて出てくると、目がそこで立ち止まる。


 文字は逃げない。紙の上に静かに並んでいるだけだ。


 それなのに、読む側の胸だけが急かされる。


 「おじさん、さっきから同じ店の前を三回通ってない?」


 後ろからプレシャスの声がした。


 エドワンは振り返らずに答えた。


 「下見だ」


 「一軒の金物屋に三方向から近づく必要ある?」


 「入口が多い」


 「一個だよ」


 プレシャスは今日は仕事が遅番で、昼の署名集めだけ参加していた。片手でスマートフォンを操作しながら、もう片方の手には新しい署名用紙を挟んだバインダーを持っている。


 「市内の正式署名、今朝までで四百二十九。近隣市からの通学希望が七十八。応援メッセージは九百を超えた」


 「分けたのか」


 「途中まで」


 答えが少し速すぎた。


 エドワンは振り向いた。


 プレシャスはすぐ笑顔を作った。


 「数が多いから、整理に時間がかかってるだけ。今日の夜までには終わるよ」


 「そうか」


 エドワンは、それ以上聞かなかった。


 聞かなかったが、プレシャスがスマートフォンの画面を伏せたことは見ていた。


 金物屋の前まで来る。


 ガラス戸の向こうには、園芸用の鋏、軍手、釘、工具箱が並んでいる。工場にいた頃、何度もこの店で道具を買った。


 店主とは顔見知りだ。


 だからこそ入りづらい。


 知らない相手には、決められた説明を読めばいい。途中で詰まっても、年のせいで目が悪いと思われるかもしれない。


 知っている相手には、何を知られていたかが分からない。


 エドワンが文字を読むのに時間がかかることを、工場の人間たちはどこまで気づいていたのか。


 「入らないの?」


 「入る」


 「今?」


 「検討している」


 ウィロウがその場にいれば、その言葉を聞いただけで眉を上げただろう。


 プレシャスは笑った。


 「最近、その言葉みんな使うね」


 エドワンはガラス戸へ手をかけた。


 その瞬間、内側から戸が開いた。


 「おい、エドワンじゃないか」


 軍手の束を抱えた男が出てきた。


 白髪交じりの短い髪。太い首。工場の油が染みついたような手。


 桑名だった。


 金属加工工場で三十年以上、一緒に働いた男である。


 「久しぶりだな。お前、今は駅前のビルで掃除してるんだって?」


 「ああ」


 「元気そうじゃないか。なんだ、その箱」


 桑名は、透明な箱に貼られた葉を見た。


 「青汁か?」


 「違う」


 プレシャスが横で小さく吹き出す。


 エドワンは箱を持ち直した。


 「学校の署名だ」


 「学校?」


 「夜間の中学だ。俺が通っている」


 桑名の顔から、笑いが少し引いた。


 「お前が?」


 「ああ」


 「何を習うんだ」


 「国語、数学、社会。いろいろだ」


 「今さら?」


 悪意はなかった。


 驚いたとき、人は一番短い言葉を出す。


 エドワンも、昔なら「暇だからだ」と答えただろう。


 新しいことを始めた理由を説明するより、気まぐれだと思われる方が楽だった。


 だが、胸ポケットには説明用紙がある。


 その紙の下には、授業で書いた自分の名前がある。


 曲がった最後の一画を、消さずに残した紙だ。


 「今だからだ」


 エドワンは言った。


 「今だから、習ってる」


 桑名は軍手を店先の台へ置いた。


 「そうか。まあ、悪いことじゃないな」


 「その学校が、なくなるかもしれない」


 エドワンは説明用の紙を出した。


 開く。


 文字が並んでいる。


 さっきまで読めた一行目が、急に遠くなった。


 「海風市立……みなと中学校の、夜間学級は、来年度……」


 桑名が黙って待っている。


 プレシャスも口を挟まない。


 「中央の学校へ……とう、ごう……」


 「統合か」


 桑名が自然に補った。


 エドワンの舌が止まる。


 補ってもらうことは、昔からあった。


 工場の掲示を誰かが先に読み上げる。


 新しい機械の説明書を、同僚が要点だけ話す。


 回覧板は、誰かの反応を見て内容を推測する。


 それで仕事はできた。


 できてしまったから、言えなかった。


 エドワンは紙をたたんだ。


 「俺は字が読めなかった」


 商店街の音が、一度遠くなった。


 自転車のベル。


 パン屋の袋が擦れる音。


 薬局の自動扉が開く音。


 「今も全部は読めない」


 桑名は何も言わなかった。


 エドワンは、続けた。


 「工場の図面は、形で覚えた。注意書きは色と場所で覚えた。試験を受けなかったのは、興味がなかったからじゃない。問題が読めなかったからだ」


 喉の奥が乾いていた。


 五十八年のうち、どれほど長くこの言葉を飲み込んできたのか、自分でも分からなかった。


 桑名が、ゆっくり瞬きをした。


 「だからか」


 「何がだ」


 「お前、一回見た図面をほとんど忘れなかっただろ」


 エドワンは顔を上げた。


 「寸法の数字と線を、全部頭に入れてた。俺たちは説明書を何回も見直してたのに、お前は現場へ行くと迷わなかった」


 「迷ったら、ばれるからだ」


 「それでも覚えられるのは、お前の力だろ」


 桑名は少し困ったように頭をかいた。


 「俺は、お前が昇進に興味のない変わったやつだと思ってた」


 「変わったやつではある」


 「そこは否定しないのか」


 「事実だからな」


 桑名が笑った。


 エドワンも、口元だけで笑った。


 腹の奥に固まっていたものが、すぐに消えたわけではない。


 ただ、ただ、その塊のまわりに、風の通る隙間ができた。


 「署名、見せろ」


 桑名は言った。


 プレシャスがバインダーを差し出す。


 「海風市内にお住まいなら、こちらへお願いします。理由欄は任意です。公開するかどうかも選べます」


 「住所まで書くのか。老眼鏡、店の中だな」


 桑名は目を細めた。


 エドワンが言う。


 「読めないと言えばいい」


 「お前に言われたくないな」


 二人は同時に笑った。


 桑名は店から老眼鏡を持って戻り、名前と住所を書いた。


 理由欄の前で、しばらくペンを止める。


 やがて、ゆっくり書いた。


 『一緒に働いていた人のことを、俺は何も知らなかった』


 プレシャスが読み上げようとしたが、途中で口を閉じた。


 エドワンは自分で読んだ。


 一緒に。


 働いていた。


 人のことを。


 俺は。


 何も。


 知らなかった。


 知っている字を拾い、分からない字を前後から考えた。


 一行を読むのに時間がかかった。


 桑名は待っていた。


 「その通りだ」


 エドワンは言った。


 「俺も、お前のことをあまり知らない」


 「俺はだいたい見たままだ」


 「老眼鏡を忘れる」


 「それは今知っただろ」


 店先に笑いが残った。


 署名箱へ一枚の紙が増えた。


 その紙は軽い。


 しかし、エドワンには四十年分の重さがあるように感じられた。


 午後、教室へ集まると、ウィロウは署名数を黒板へ書いた。


 「市内四百八十七。近隣の通学希望が九十一。全国からの応援が千百三十六」


 数字が三段に並ぶ。


 「すごいじゃない」


 ミモザが拍手した。


 「この勢いなら、市内千人もいける」


 ウィロウは黒板の四百八十七へ丸をつけた。


 「いや、目標を上げよう。三千人」


 「市内で?」


 プレシャスが聞く。


 「市内と通学希望を合わせて。応援も含めれば、もっと早い」


 「分類は必要です」


 オレリアンが静かに言った。


 「提出先によって、三つの資料は意味が違います」


 「でも全部、残してほしい人の声でしょう」


 「大切さが違うという意味ではありません。扱いが違うということです」


 ウィロウは腕を組んだ。


 「数が多い方が伝わります」


 「数を増やす前に、書いた人の言葉を読め」


 教室が静かになった。


 エドワンが、自分でも驚くほど強い声を出していた。


 ウィロウが振り返る。


 「何?」


 「三千人に増やして、どうする。千人の理由も読んでないだろ」


 「全部読む時間なんてないよ」


 「なら、何のために理由欄を作った」


 ウィロウの眉が寄る。


 「学校を残すためでしょう」


 「人を数字にするためじゃない」


 エドワンは、桑名の署名用紙の複写を机へ置いた。


 公開可に印がついている。


 『一緒に働いていた人のことを、俺は何も知らなかった』


 ウィロウはその一行を見た。


 「これは、俺と四十年働いた男が書いた」


 エドワンは言った。


 「俺が字を読めないと知らなかった。俺も、言わなかった。今日、初めて話した」


 ウィロウの表情が変わった。


 「署名を集めなければ、話さなかったかもしれない。だから、この一枚は数じゃない」


 エドワンは、言葉を選びながら続けた。


 「四百八十七を三千にする前に、四百八十七人が何を書いたか、少しは見ろ」


 窓の外で、柳の葉が揺れていた。


 同じ風を受けても、葉の動きは一枚ずつ違う。


 ウィロウは黒板の数字を見た。


 四百八十七。


 さっきまで、足りない数に見えていた。


 今は、四百八十七人分の生活が、その後ろに立っているように見えた。


 「ごめん」


 ウィロウは言った。


 誰へ向けた言葉か、自分でも決められなかった。


 エドワンへ。


 署名した人へ。


 数字だけを追い始めた自分へ。


 「目標を上げるのは、いったんやめる」


 黒板の「三千」を消す。


 「集めるのをやめるわけじゃない。でも、署名を受け取ったら、理由を聞く。公開していい言葉は、みんなで読む」


 「仕事が増えるよ」


 プレシャスが言った。


 「増えるね」


 「動画の更新も遅くなる」


 「遅くていい。分けて出そう」


 ウィロウはプレシャスへ振り返った。


 「市内署名、近隣の通学希望、全国の応援。三つに分けよう。数が小さく見えても、その方が嘘がない」


 プレシャスの顔から、色が少し引いた。


 「うん」


 返事はした。


 だが、机の下でスマートフォンを握る手に力が入っていた。


 話題を変えるように、ミモザが手を挙げた。


 「それなら、私も理由を聞いてきたわ」


 「何人ですか」


 「三人」


 「同じ場所で?」


 「同じ喫茶店に呼んだの」


 ミモザは三枚の署名を出した。


 名前はすべて男性だった。


 「知り合いですか」


 オレリアンが尋ねる。


 「昔の交際相手」


 プレシャスが顔を上げた。


 「三人とも?」


 「一度に呼んだの?」


 ウィロウまで食いつく。


 「別々に声をかけたのよ。同じ時間だとは言わなかったけど」


 「それ、修羅場になりませんでした?」


 「なったわ。でも三人とも署名してくれた」


 理由欄には、それぞれ別の筆跡で同じような言葉が並んでいた。


 『彼女には逆らわない方がいい』


 『この人が必要と言うなら必要なのだと思う』


 『二度と同じ席には呼ばないでほしい』


 エドワンは三枚を見比べた。


 「学び直しの理由ではない」


 「私の人間関係から得た立派な市民意見よ」


 ミモザは胸を張った。


 重かった空気が、少しほどけた。


 放課後、プレシャスは一人で集計表を開いた。


 ウィロウとエドワンは、公開可能な理由を読み、分類を始めている。


 オレリアンは、個人情報が含まれていないか確認していた。


 「プレシャス、三種類の元データを見せてもらえる?」


 ウィロウが言った。


 「今、端末にしか入ってない分があるんでしょう」


 「ある」


 「今日、分けられそう?」


 「できるよ」


 また、期待された答えを出してしまった。


 本当は、どこまでが正式署名で、どこからが応援なのか、最初の数日分は記録が混ざっている。


 動画の応募フォームも、住所欄を任意にしていた。


 名前だけの人。


 市外だが職場が海風市内の人。


 子どもが将来通えるならと書いた人。


 重複して送った人。


 一つずつ確認しなければならない。


 「明日までに整理する」


 プレシャスは言った。


 「無理なら手伝うよ」


 「大丈夫」


 「でも」


 「大丈夫だから」


 声が強くなった。


 ウィロウが少し驚く。


 プレシャスはすぐ笑った。


 「私が始めた集計だし、やり方は分かってる。任せて」


 教室を出ると、瀬田からオレリアン宛ての連絡が届いた。


 オレリアンが内容を読み上げる。


 「市内在住者の正式署名、近隣自治体から通学を希望する人の署名、全国からの応援メッセージは、資料上の意味が異なるため、分類して提出してください、とのことです」


 プレシャスの足が止まった。


 「いつまで?」


 「来週の金曜日です」


 「分かりました」


 また笑った。


 帰宅後、ルカを寝かせ、机へ座る。


 画面には、混ざった数字が並んでいる。


 四百八十七。


 九十一。


 千百三十六。


 その下に、分類されていない古い応募が二百件以上。


 プレシャスは一件目を開いた。


 『夜間中学を残してください。昔、学校へ行けなかった母のために』


 住所はない。


 二件目。


 『応援します』


 名前だけ。


 三件目。


 『隣の市に住んでいます。勤務先が海風市なので、通えるなら入学したいです』


 これは通学希望。


 四件目は、一件目と同じ名前だった。


 重複かもしれない。


 時計が午前一時を回る。


 明日は朝から保育園。


 昼から仕事。


 夜は授業。


 プレシャスは額を押さえた。


 みんなが期待している。


 数字を集められる人。


 動画を作れる人。


 明るく前へ進める人。


 そういう自分でいなければならない。


 画面の文字が、にじんだ。


 スマートフォンへ新しい通知が届く。


 瀬田からではない。


 ウィロウからだった。


 『無理してない? 明日一緒にやろう』


 プレシャスは、すぐ返事を書いた。


 『大丈夫! もう半分終わったよ』


 実際には、二十件しか終わっていなかった。


 送信ボタンを押したあと、教室の柳を思い出した。


 葉は一枚ずつ違う揺れ方をする。


 違っていていいと、自分で動画に書いた。


 それなのに、プレシャスは「大丈夫な自分」以外の揺れ方を、誰にも見せられなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。