第5話 読めないと言える日
六月の商店街には、梅雨入り前の湿った風が流れていた。
エドワンは、署名用紙の入った透明な箱を両腕で抱え、パン屋と薬局の間をゆっくり歩いた。箱の側面には、ルカが描いた柳の葉が貼られている。先の尖った緑の丸が三枚。絵だけを見れば、何かの青汁の宣伝にも見えた。
胸ポケットには、説明用の紙が入っていた。
『海風市立みなと中学校夜間学級は、来年度、中央夜間中学へ統合される案が出ています。通学時間や仕事、育児、体力上の事情により、現在の生徒の多くが――』
紙を開かなくても、最初の二行は覚えていた。
三行目から先は、ところどころ文字が混ざる。
通学時間は読める。仕事も読める。育児は、最初の字が子どもの「育」だと分かる。体力も分かる。
しかし、「事情」と「継続」が続けて出てくると、目がそこで立ち止まる。
文字は逃げない。紙の上に静かに並んでいるだけだ。
それなのに、読む側の胸だけが急かされる。
「おじさん、さっきから同じ店の前を三回通ってない?」
後ろからプレシャスの声がした。
エドワンは振り返らずに答えた。
「下見だ」
「一軒の金物屋に三方向から近づく必要ある?」
「入口が多い」
「一個だよ」
プレシャスは今日は仕事が遅番で、昼の署名集めだけ参加していた。片手でスマートフォンを操作しながら、もう片方の手には新しい署名用紙を挟んだバインダーを持っている。
「市内の正式署名、今朝までで四百二十九。近隣市からの通学希望が七十八。応援メッセージは九百を超えた」
「分けたのか」
「途中まで」
答えが少し速すぎた。
エドワンは振り向いた。
プレシャスはすぐ笑顔を作った。
「数が多いから、整理に時間がかかってるだけ。今日の夜までには終わるよ」
「そうか」
エドワンは、それ以上聞かなかった。
聞かなかったが、プレシャスがスマートフォンの画面を伏せたことは見ていた。
金物屋の前まで来る。
ガラス戸の向こうには、園芸用の鋏、軍手、釘、工具箱が並んでいる。工場にいた頃、何度もこの店で道具を買った。
店主とは顔見知りだ。
だからこそ入りづらい。
知らない相手には、決められた説明を読めばいい。途中で詰まっても、年のせいで目が悪いと思われるかもしれない。
知っている相手には、何を知られていたかが分からない。
エドワンが文字を読むのに時間がかかることを、工場の人間たちはどこまで気づいていたのか。
「入らないの?」
「入る」
「今?」
「検討している」
ウィロウがその場にいれば、その言葉を聞いただけで眉を上げただろう。
プレシャスは笑った。
「最近、その言葉みんな使うね」
エドワンはガラス戸へ手をかけた。
その瞬間、内側から戸が開いた。
「おい、エドワンじゃないか」
軍手の束を抱えた男が出てきた。
白髪交じりの短い髪。太い首。工場の油が染みついたような手。
桑名だった。
金属加工工場で三十年以上、一緒に働いた男である。
「久しぶりだな。お前、今は駅前のビルで掃除してるんだって?」
「ああ」
「元気そうじゃないか。なんだ、その箱」
桑名は、透明な箱に貼られた葉を見た。
「青汁か?」
「違う」
プレシャスが横で小さく吹き出す。
エドワンは箱を持ち直した。
「学校の署名だ」
「学校?」
「夜間の中学だ。俺が通っている」
桑名の顔から、笑いが少し引いた。
「お前が?」
「ああ」
「何を習うんだ」
「国語、数学、社会。いろいろだ」
「今さら?」
悪意はなかった。
驚いたとき、人は一番短い言葉を出す。
エドワンも、昔なら「暇だからだ」と答えただろう。
新しいことを始めた理由を説明するより、気まぐれだと思われる方が楽だった。
だが、胸ポケットには説明用紙がある。
その紙の下には、授業で書いた自分の名前がある。
曲がった最後の一画を、消さずに残した紙だ。
「今だからだ」
エドワンは言った。
「今だから、習ってる」
桑名は軍手を店先の台へ置いた。
「そうか。まあ、悪いことじゃないな」
「その学校が、なくなるかもしれない」
エドワンは説明用の紙を出した。
開く。
文字が並んでいる。
さっきまで読めた一行目が、急に遠くなった。
「海風市立……みなと中学校の、夜間学級は、来年度……」
桑名が黙って待っている。
プレシャスも口を挟まない。
「中央の学校へ……とう、ごう……」
「統合か」
桑名が自然に補った。
エドワンの舌が止まる。
補ってもらうことは、昔からあった。
工場の掲示を誰かが先に読み上げる。
新しい機械の説明書を、同僚が要点だけ話す。
回覧板は、誰かの反応を見て内容を推測する。
それで仕事はできた。
できてしまったから、言えなかった。
エドワンは紙をたたんだ。
「俺は字が読めなかった」
商店街の音が、一度遠くなった。
自転車のベル。
パン屋の袋が擦れる音。
薬局の自動扉が開く音。
「今も全部は読めない」
桑名は何も言わなかった。
エドワンは、続けた。
「工場の図面は、形で覚えた。注意書きは色と場所で覚えた。試験を受けなかったのは、興味がなかったからじゃない。問題が読めなかったからだ」
喉の奥が乾いていた。
五十八年のうち、どれほど長くこの言葉を飲み込んできたのか、自分でも分からなかった。
桑名が、ゆっくり瞬きをした。
「だからか」
「何がだ」
「お前、一回見た図面をほとんど忘れなかっただろ」
エドワンは顔を上げた。
「寸法の数字と線を、全部頭に入れてた。俺たちは説明書を何回も見直してたのに、お前は現場へ行くと迷わなかった」
「迷ったら、ばれるからだ」
「それでも覚えられるのは、お前の力だろ」
桑名は少し困ったように頭をかいた。
「俺は、お前が昇進に興味のない変わったやつだと思ってた」
「変わったやつではある」
「そこは否定しないのか」
「事実だからな」
桑名が笑った。
エドワンも、口元だけで笑った。
腹の奥に固まっていたものが、すぐに消えたわけではない。
ただ、ただ、その塊のまわりに、風の通る隙間ができた。
「署名、見せろ」
桑名は言った。
プレシャスがバインダーを差し出す。
「海風市内にお住まいなら、こちらへお願いします。理由欄は任意です。公開するかどうかも選べます」
「住所まで書くのか。老眼鏡、店の中だな」
桑名は目を細めた。
エドワンが言う。
「読めないと言えばいい」
「お前に言われたくないな」
二人は同時に笑った。
桑名は店から老眼鏡を持って戻り、名前と住所を書いた。
理由欄の前で、しばらくペンを止める。
やがて、ゆっくり書いた。
『一緒に働いていた人のことを、俺は何も知らなかった』
プレシャスが読み上げようとしたが、途中で口を閉じた。
エドワンは自分で読んだ。
一緒に。
働いていた。
人のことを。
俺は。
何も。
知らなかった。
知っている字を拾い、分からない字を前後から考えた。
一行を読むのに時間がかかった。
桑名は待っていた。
「その通りだ」
エドワンは言った。
「俺も、お前のことをあまり知らない」
「俺はだいたい見たままだ」
「老眼鏡を忘れる」
「それは今知っただろ」
店先に笑いが残った。
署名箱へ一枚の紙が増えた。
その紙は軽い。
しかし、エドワンには四十年分の重さがあるように感じられた。
午後、教室へ集まると、ウィロウは署名数を黒板へ書いた。
「市内四百八十七。近隣の通学希望が九十一。全国からの応援が千百三十六」
数字が三段に並ぶ。
「すごいじゃない」
ミモザが拍手した。
「この勢いなら、市内千人もいける」
ウィロウは黒板の四百八十七へ丸をつけた。
「いや、目標を上げよう。三千人」
「市内で?」
プレシャスが聞く。
「市内と通学希望を合わせて。応援も含めれば、もっと早い」
「分類は必要です」
オレリアンが静かに言った。
「提出先によって、三つの資料は意味が違います」
「でも全部、残してほしい人の声でしょう」
「大切さが違うという意味ではありません。扱いが違うということです」
ウィロウは腕を組んだ。
「数が多い方が伝わります」
「数を増やす前に、書いた人の言葉を読め」
教室が静かになった。
エドワンが、自分でも驚くほど強い声を出していた。
ウィロウが振り返る。
「何?」
「三千人に増やして、どうする。千人の理由も読んでないだろ」
「全部読む時間なんてないよ」
「なら、何のために理由欄を作った」
ウィロウの眉が寄る。
「学校を残すためでしょう」
「人を数字にするためじゃない」
エドワンは、桑名の署名用紙の複写を机へ置いた。
公開可に印がついている。
『一緒に働いていた人のことを、俺は何も知らなかった』
ウィロウはその一行を見た。
「これは、俺と四十年働いた男が書いた」
エドワンは言った。
「俺が字を読めないと知らなかった。俺も、言わなかった。今日、初めて話した」
ウィロウの表情が変わった。
「署名を集めなければ、話さなかったかもしれない。だから、この一枚は数じゃない」
エドワンは、言葉を選びながら続けた。
「四百八十七を三千にする前に、四百八十七人が何を書いたか、少しは見ろ」
窓の外で、柳の葉が揺れていた。
同じ風を受けても、葉の動きは一枚ずつ違う。
ウィロウは黒板の数字を見た。
四百八十七。
さっきまで、足りない数に見えていた。
今は、四百八十七人分の生活が、その後ろに立っているように見えた。
「ごめん」
ウィロウは言った。
誰へ向けた言葉か、自分でも決められなかった。
エドワンへ。
署名した人へ。
数字だけを追い始めた自分へ。
「目標を上げるのは、いったんやめる」
黒板の「三千」を消す。
「集めるのをやめるわけじゃない。でも、署名を受け取ったら、理由を聞く。公開していい言葉は、みんなで読む」
「仕事が増えるよ」
プレシャスが言った。
「増えるね」
「動画の更新も遅くなる」
「遅くていい。分けて出そう」
ウィロウはプレシャスへ振り返った。
「市内署名、近隣の通学希望、全国の応援。三つに分けよう。数が小さく見えても、その方が嘘がない」
プレシャスの顔から、色が少し引いた。
「うん」
返事はした。
だが、机の下でスマートフォンを握る手に力が入っていた。
話題を変えるように、ミモザが手を挙げた。
「それなら、私も理由を聞いてきたわ」
「何人ですか」
「三人」
「同じ場所で?」
「同じ喫茶店に呼んだの」
ミモザは三枚の署名を出した。
名前はすべて男性だった。
「知り合いですか」
オレリアンが尋ねる。
「昔の交際相手」
プレシャスが顔を上げた。
「三人とも?」
「一度に呼んだの?」
ウィロウまで食いつく。
「別々に声をかけたのよ。同じ時間だとは言わなかったけど」
「それ、修羅場になりませんでした?」
「なったわ。でも三人とも署名してくれた」
理由欄には、それぞれ別の筆跡で同じような言葉が並んでいた。
『彼女には逆らわない方がいい』
『この人が必要と言うなら必要なのだと思う』
『二度と同じ席には呼ばないでほしい』
エドワンは三枚を見比べた。
「学び直しの理由ではない」
「私の人間関係から得た立派な市民意見よ」
ミモザは胸を張った。
重かった空気が、少しほどけた。
放課後、プレシャスは一人で集計表を開いた。
ウィロウとエドワンは、公開可能な理由を読み、分類を始めている。
オレリアンは、個人情報が含まれていないか確認していた。
「プレシャス、三種類の元データを見せてもらえる?」
ウィロウが言った。
「今、端末にしか入ってない分があるんでしょう」
「ある」
「今日、分けられそう?」
「できるよ」
また、期待された答えを出してしまった。
本当は、どこまでが正式署名で、どこからが応援なのか、最初の数日分は記録が混ざっている。
動画の応募フォームも、住所欄を任意にしていた。
名前だけの人。
市外だが職場が海風市内の人。
子どもが将来通えるならと書いた人。
重複して送った人。
一つずつ確認しなければならない。
「明日までに整理する」
プレシャスは言った。
「無理なら手伝うよ」
「大丈夫」
「でも」
「大丈夫だから」
声が強くなった。
ウィロウが少し驚く。
プレシャスはすぐ笑った。
「私が始めた集計だし、やり方は分かってる。任せて」
教室を出ると、瀬田からオレリアン宛ての連絡が届いた。
オレリアンが内容を読み上げる。
「市内在住者の正式署名、近隣自治体から通学を希望する人の署名、全国からの応援メッセージは、資料上の意味が異なるため、分類して提出してください、とのことです」
プレシャスの足が止まった。
「いつまで?」
「来週の金曜日です」
「分かりました」
また笑った。
帰宅後、ルカを寝かせ、机へ座る。
画面には、混ざった数字が並んでいる。
四百八十七。
九十一。
千百三十六。
その下に、分類されていない古い応募が二百件以上。
プレシャスは一件目を開いた。
『夜間中学を残してください。昔、学校へ行けなかった母のために』
住所はない。
二件目。
『応援します』
名前だけ。
三件目。
『隣の市に住んでいます。勤務先が海風市なので、通えるなら入学したいです』
これは通学希望。
四件目は、一件目と同じ名前だった。
重複かもしれない。
時計が午前一時を回る。
明日は朝から保育園。
昼から仕事。
夜は授業。
プレシャスは額を押さえた。
みんなが期待している。
数字を集められる人。
動画を作れる人。
明るく前へ進める人。
そういう自分でいなければならない。
画面の文字が、にじんだ。
スマートフォンへ新しい通知が届く。
瀬田からではない。
ウィロウからだった。
『無理してない? 明日一緒にやろう』
プレシャスは、すぐ返事を書いた。
『大丈夫! もう半分終わったよ』
実際には、二十件しか終わっていなかった。
送信ボタンを押したあと、教室の柳を思い出した。
葉は一枚ずつ違う揺れ方をする。
違っていていいと、自分で動画に書いた。
それなのに、プレシャスは「大丈夫な自分」以外の揺れ方を、誰にも見せられなかった。




