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風待ち教室の署名簿  作者: 乾為天女


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第4話 署名欄のとなりに

 プレシャスの一日は、朝六時十二分に始まる。


 目覚ましは六時に鳴るが、十二分間は布団の中で、今日しなければならないことを順番に並べる。


 ルカを起こす。


 朝食を出す。


 保育園の着替え袋を確認する。


 ホテルの制服の替えを持つ。


 夜間学級の宿題を鞄へ入れる。


 署名活動の投稿を更新する。


 並べ終わる前に、隣で眠っていたルカが寝返りを打ち、かかとをプレシャスの脇腹へ入れた。


 「今日の最初の予定、変更。息子に蹴られる」


 「けってない」


 目を閉じたまま、ルカが答える。


 「起きてるじゃない」


 「ねてる」


 「寝てる人は返事しないよ」


 「じゃあ、いまのは夢」


 五歳児の理屈に朝から負けた。


 台所へ立ち、食パンを焼く。牛乳をこぼされ、靴下の片方が見つからず、連絡帳の昨日の欄へ記入を忘れていたことに気づく。


 保育園の門へ着いたのは八時二十七分だった。


 「今日も元気ですね、ルカくん」


 保育士が笑顔で迎える。


 「はい。朝から絶好調です」


 プレシャスも笑う。


 連絡帳の空欄に気づかれないよう、手渡す角度を少し変えた。


 「お母さん、学校のほうはどうですか。署名の動画、見ました」


 「すごく反応が来ています。みんな期待してくれてるので、絶対うまくいきます」


 期待しているとは、保育士は言っていなかった。


 ただ見たと言っただけだ。


 それでもプレシャスは、相手が聞きたいだろう答えを先に出した。


 そのほうが会話が丸く進む。


 午前中は自宅で動画の反応を確認した。


 再生回数は、昨夜から急に伸びている。


 最初に投稿した仮動画は、教室の魅力を真面目に説明したものだった。古い黒板、並んだ教科書、窓の外の柳。だが三時間で再生は二十七回。そのうち五回は自分で確認した数字だった。


 もっと見てもらわなければならない。


 題名が弱い。


 そう考えて、プレシャスは次の動画の編集画面へ文字を入れた。


 『三十一歳の同級生が国語の先生を好きになるまで』


 指が止まる。


 ウィロウはまだ、先生を好きだとは言っていない。


 けれど、オレリアンが近くに来ると返事が一拍遅れる。授業で褒められた日は、帰り道でも機嫌がいい。柳の下で話している姿なら、絵になる。


 「仮だから」


 プレシャスは自分に言った。


 公開前に本人へ見せればよい。


 そのつもりで保存した。


 昼からは、海風駅前のホテルで披露宴の補助に入った。


 白い手袋をはめ、グラスを並べ、子ども用の椅子を運ぶ。新郎新婦が入場すると、会場全体が拍手に包まれた。


 プレシャスは笑顔で扉を押さえた。


 「おめでとうございます」


 仕事中、嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、同じ明るさを保つ。


 料理をこぼした客には、恥をかかせない声で近づく。


 酔った親族が大声を出せば、周囲が気まずくならない言葉を選ぶ。


 人が望む空気を察して、その形へ自分を合わせる。


 プレシャスは、それが得意だった。


 披露宴が終わったのは午後五時十分。


 制服を着替えながらスマートフォンを見ると、ウィロウからメッセージが三件届いていた。


 『動画の確認、今日できる?』


 『題名だけ見えたんだけど』


 『好きになるまでって何』


 プレシャスは目を閉じた。


 共有設定を間違え、仮動画が仲間へ公開されていた。


 『説明します』


 そう返して、駅へ走った。


 教室へ入ると、ウィロウは黒板の前で腕を組んでいた。


 「説明して」


 「見てもらうためには、最初の引きが必要で」


 「事実じゃないでしょう」


 「完全な嘘でもないと思う」


 「どこが」


 「先生が来ると声が少し高くなる」


 「ならない」


 「今、高いよ」


 「怒ってるから!」


 教室の後ろで、ミモザがエドワンへ小声で言った。


 「好きなのね」


 「俺に聞くな」


 オレリアンは、何も聞こえていない顔で黒板へ今日の日付を書いていた。


 五月十五日。


 ところが「五」の横へ、なぜか「恋」と書いた。


 教室が静まる。


 オレリアンは自分の誤字に気づき、黒板消しを手に取った。


 「先生」


 ミモザが言った。


 「意識しすぎると、そうなるのね」


 「これは単純な書き間違いです」


 「五月十五恋」


 エドワンが真顔で読み上げた。


 プレシャスが吹き出した。


 ウィロウは笑うものかと唇を結んだが、最後まで耐えられなかった。


 笑いが収まると、プレシャスは頭を下げた。


 「ごめん。見てもらうことを優先しすぎた。題名は変える」


 「動画も、公開前に本人の許可を取って」


 「分かった」


 オレリアンも黒板の文字を消した。


 「個人の恋愛を広報材料にするのはやめましょう」


 「個人の恋愛ではないです」


 ウィロウが即座に否定する。


 オレリアンは一瞬だけ彼女を見て、


 「では、なおさらです」


 と答えた。


 新しい動画の題名は、


 『十代から七十代までが同級生になる夜の教室』


 になった。


 プレシャスは、ウィロウが作業着で教科書を開く手元、エドワンが鉛筆で自分の名前を書く手元、ミモザが教科書へ老眼鏡を近づけすぎる様子を撮った。


 顔を出すかどうかは一人ずつ確認した。


 オレリアンは顔出しを断り、黒板へ文字を書く後ろ姿だけ許可した。


 「先生、後ろ姿のほうが謎があって人気出るかも」


 「人気は必要ありません」


 「そういう人ほど出るんだよね」


 公開した動画は、前のものより早く見られた。


 だが、署名そのものは思うように増えなかった。


 五月中旬の土曜日、四人は商店街へ出た。


 ウィロウとエドワンが署名台を運び、プレシャスが通行人へ声をかけ、ミモザは椅子へ座っているだけなのに、なぜか最も多くの知人を呼び止めた。


 「夜間学級を残すための署名にご協力ください」


 プレシャスは明るく声をかけた。


 多くの人は会釈をして通り過ぎた。


 足を止めた人も、用紙を見て迷った。


 「うちの家族は使っていないからねえ」


 「中央に大きい学校があるなら、まとめたほうが効率はいいんじゃない?」


 「夜の中学校って、外国の人のためのところでしょう?」


 悪意のない質問ほど、答えるのが難しかった。


 必要な人がいる。


 通えなくなる人がいる。


 それだけでは、相手の生活と結びつかない。


 パン屋の前で、店主の男性が署名用紙を手に取った。


 「名前を書けばいいの?」


 「はい。海風市にお住まいなら、住所もお願いします」


 「どうして残したいの」


 プレシャスは用意した説明を始めた。


 耐震問題。統合先までの距離。在籍者の事情。


 店主は最後まで聞いたが、ペンを置かなかった。


 「必要なのは分かる。でも、俺はその学校を知らない。知らないものに名前を書くのは、少し怖いな」


 責められたわけではない。


 それでもプレシャスは、期待された答えを出せなかった気がした。


 「そうですよね。すみません」


 すぐに引こうとしたとき、足元に座っていたルカが、署名用紙の余白へ色鉛筆を走らせた。


 「ルカ、正式な紙には描かないで」


 「葉っぱ」


 前回と同じ、先の尖った丸だった。


 「なんで葉っぱなの」


 「みんな、ちがう揺れかたするから」


 五歳の説明は、それだけだった。


 店主が用紙を覗き込む。


 「学校を知らない人には、その学校が必要な理由が見えないんだな」


 彼はペンを持ち直した。


 「名前の横に、理由を書くところがあればいいんじゃないか。俺も、理由を読んでから決めたい」


 プレシャスは顔を上げた。


 署名欄の右には、広い余白があった。


 「書く人にも、理由を書いてもらうんです。どうして残したいか。どうして学び直したいか」


 ウィロウがすぐに頷いた。


 「いい。数だけじゃなくなる」


 エドワンは用紙を見た。


 「理由を書けない人は、署名できないのか」


 「書かなくてもいいことにします。話してくれたら、本人に確認して代筆もできる」


 「公開されたくない人もいる」


 オレリアンの注意書きを思い出し、プレシャスは欄を三つに分けた。


 名前とともに公開してよい。


 匿名なら公開してよい。


 提出のみで公開しない。


 その場で仮の線を引き、店主へ見せた。


 「これなら、どうですか」


 店主は少し考えたあと、名前を書いた。


 理由欄には、ゆっくりと一行を記した。


 『亡くなった父は文字が苦手で、値札の数字と商品の場所を全部覚えて店を続けた。父にも、こんな学校があればよかった』


 プレシャスは、その文章を二度読んだ。


 パン屋の店主は、毎朝パンを焼く人だと思っていた。


 その後ろに、文字を読めないまま店を守った父親の人生があるとは知らなかった。


 署名台へ戻ると、理由欄を加えた新しい用紙を手書きで作り、近くの文具店で複写した。


 その日から、署名する人の話が増えた。


 看護師の女性は、長く不登校だった弟のことを書いた。


 『昼の学校へ戻れなくても、いつか学べる場所があると知っていてほしい』


 外国出身の配達員は、ひらがなを確かめながら書いた。


 『子どもの連絡帳を、自分で読みたいです』


 古書店の主人は、若い頃に家業を継ぐため進学を諦めた妻が、六十歳を過ぎてから歴史を学び始めたことを書いた。


 『学ぶ時期を、他人が決めない町であってほしい』


 一筆ごとに、見えなかった生活が現れた。


 名前は一行だった。


 その横に書かれた理由は、別の人生へ開く小さな窓だった。


 夕方、プレシャスは動画を更新した。


 署名数を大きく見せるのではなく、公開を許可された理由を匿名で一つずつ紹介した。


 『五十八歳で、初めて自分の名前を書いた人がいます』


 『子どもの連絡帳を読みたい人がいます』


 『家族の介護が終わってから、学び始めた人がいます』


 最後に、ルカの葉の絵を画面へ出した。


 『違う人生は、違う揺れ方をする。でも、同じ町の風を受けています』


 投稿して一時間後、再生回数は千を超えた。


 夜には、交流サイトの通知が止まらなくなった。


 応援します。


 署名用紙を送ってください。


 以前、夜間中学へ通っていました。


 近くにはありませんが、残ってほしいです。


 遠くの県からもメッセージが来た。


 プレシャスは一件ずつ返事をした。


 翌朝までに、オンラインの応援表明は三百を超え、郵送で署名用紙を取り寄せたいという連絡も数十件届いた。


 教室へ報告すると、ウィロウが両手を叩いた。


 「すごい。これなら千人いける」


 ミモザも満足そうに頷く。


 「恋愛の題名を使わなくても、ちゃんと見てもらえたじゃない」


 「それはもう忘れて」


 オレリアンは、理由欄の扱い方を確認した。


 「公開の許可を必ず記録してください。オンラインの応援と、正式な署名も分けましょう」


 「分かっています」


 プレシャスは答えた。


 だが、その夜、自宅で集計表を開いたとき、手が止まった。


 画面の上には、大きく「協力者数 三百八十六」と表示してある。


 中身は三種類だった。


 海風市内に住み、住所を記入した正式署名。


 市外に住むが、通学を希望する人の署名。


 全国から届いた、名前だけのオンライン応援メッセージ。


 どれも嘘ではない。


 どれも大切な声だ。


 けれど、市へ提出するとき、同じ一票のように足してよいものではない。


 オレリアンも、最初から分けるように言っていた。


 今から分ければ、正式署名の数は大きく減る。


 ウィロウは千人へ近づいたと思っている。


 ミモザは「あなたのおかげ」と褒めてくれた。


 エドワンは、動画の使い方を教えてほしいと言った。


 みんなの期待が、画面の数字の上に乗っている。


 プレシャスは集計表へ新しい項目を作ろうとした。


 指が動かなかった。


 「明日やろう」


 小さく言って、画面を閉じた。


 明日なら、もっと増えているかもしれない。


 増えてから分ければ、減って見えないかもしれない。


 そう考えた時点で、自分が何かを間違え始めていると分かっていた。


 隣では、ルカが葉の絵を何枚も描いていた。


 一枚ずつ形が違う。


 プレシャスは、その違いを大事にする動画を作ったばかりだった。


 それなのに、自分は三種類の声を、一つの大きな数字へまとめようとしていた。


 通知音が鳴る。


 『あなたたちの活動を応援します』


 新しいメッセージだった。


 プレシャスは笑顔の絵文字をつけて返信した。


 送信したあと、その笑顔が自分の顔から消えていることに気づいた。



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