第3話 『検討します』は何をする言葉か
五月上旬の夕方、みなと夜間学級の教室には、いつもより椅子が二列多く並べられていた。
前の机には、海風市教育委員会と印刷された青い封筒が積まれている。黒板には授業の予定ではなく、「みなと夜間学級 統合案説明会」と白い文字が書かれていた。
ウィロウは窓際の席に座り、配られた資料を最初から読み直した。
読み直しているというより、一行進んでは前へ戻っていた。
耐震診断。改修費。教員配置。中央夜間中学。通学支援の検討。
知らない言葉が多いわけではない。それでも、文章が自分たちの教室をなくす方向へ整然と並んでいるように見えると、文字が頭へ入らなかった。
「同じところを五分見てる」
隣のプレシャスが小声で言った。
「読んでるの」
「そのページ、地図だよ」
ウィロウは紙を裏返した。確かに地図だった。中央夜間中学までの経路が、青い線で示されている。
「地図だって読むでしょう」
「負けず嫌いだねえ」
「そっちは読めたの?」
「読めた。分からないところはいっぱいあるけど」
プレシャスは三つの筆箱のうち、透明なものから黄色い色鉛筆を取り出し、地図の乗り換え駅へ丸をつけていた。保育園の最寄り駅、勤務先、今の教室、自宅。四つの地点を結ぶ線は、蜘蛛の巣のように絡んでいる。
「中央へ行くなら、保育園の迎えに間に合わない」
明るい声だったが、色鉛筆を握る指に力が入っていた。
前の席では、エドワンが資料を一枚ずつ指で押さえている。ミモザは文字を読むより先に、教育委員会の担当者が座る椅子の位置を確かめていた。
「逃げ道を見てるんですか」
ウィロウが聞くと、ミモザは首を振った。
「質問から逃げにくい席を見ているの」
「相手の?」
「もちろん」
教室の後ろには、生徒の家族や卒業生、地域住民も来ていた。校長と教頭のほか、昼間の学校の教師も数人いる。いつもの教室なのに、知らない人の気配が重なり、机と机の間が狭く感じられた。
午後六時半、説明会が始まった。
教育委員会の瀬田は四十五歳くらいで、細い銀縁の眼鏡をかけていた。濃紺のスーツはよく整っていたが、資料を持つ右手の親指だけが、紙の端を何度もなぞっていた。
「本日は、お仕事やご家庭のご都合がある中、お集まりいただきありがとうございます」
瀬田は、まず教室の歴史と役割について話した。
そのあと、旧校舎が耐震基準を満たしていないこと、補修には大きな費用が必要なこと、夜間学級を担当できる教員の確保が難しいこと、今年度の在籍者が十六人であることを、数字を一つずつ示した。
話し方は静かだった。
静かだからこそ、言葉が逃げ道なく届いた。
「以上を踏まえ、市教育委員会では、来年度から本学級を中央夜間中学へ統合する案を作成しております」
教室の空気が動いた。
誰かが息をのみ、誰かが資料をめくった。椅子の脚が床を擦る音が、あちこちから聞こえた。
瀬田は地図をスクリーンへ映した。
今の教室から中央夜間中学まで、直線距離で二十七キロ。実際には電車を二本とバスを一本乗り継ぐ。平日の夕方なら一時間半近くかかる。
「通学の負担については認識しております。皆様のご意見を踏まえ、必要な支援も含めて検討します」
ミモザの手が上がった。
質問を受け付ける前だった。
「どうぞ」
瀬田が促す。
「検討って、考えるふりをして帰ることでしょう」
教室が静まり返った。
教頭が咳払いをした。オレリアンは口元へ手を当てたが、咳ではなさそうだった。
瀬田は眼鏡を押し上げた。
「そのように受け取られてしまうことがあるのは承知しています。ただ、まだ決定ではありません」
「決定していないなら、残す案も同じ大きさで書いてあるはずでしょう。資料には統合した場合の話ばかりです」
ミモザは声を荒らげなかった。
七十三歳の細い指で、資料の余白を叩いただけだった。
瀬田はすぐには答えなかった。
「現在の建物を、そのままの形で使い続けることは難しいと考えています」
「ほら。なくす方は考え終わっているじゃない」
後ろの席から、小さな笑いが漏れた。笑いというより、苦さを薄めるための息だった。
質疑に入ると、生徒たちの事情が次々に出た。
プレシャスは、中央夜間中学の授業が終わる時刻では、保育園の延長保育にも間に合わないと話した。
「家に着くのは十一時近くです。五歳の子を毎日そこまで連れ回すわけにもいきません」
エドワンは、清掃の仕事が終わる時刻を書いた紙を見せた。
「今でも、ここへ来るのに十五分遅れる日がある。中央なら、終わってから向かっても二時間目が終わる」
ミモザは夜の乗り換えで階段を使うこと、電車が止まったときに一人で帰れない不安を話した。
別の生徒は家族の介護をしていた。別の生徒は夜勤の前に授業へ来ていた。中央夜間中学が地図の上では一つの学校でも、それぞれの生活の中では、たどり着けない場所になっていた。
ウィロウは手を上げた。
「統合したら、何人が通い続けられると見積もっていますか」
瀬田は手元の資料を確認した。
「現段階では、全員へ個別の意向確認を行っていません」
「じゃあ、十六人を一つに集める案じゃないですよね。何人かを学校からこぼす案です」
「こぼすことを目的としているわけではありません」
「目的じゃなくても、結果がそうなるなら同じです」
言ったあと、ウィロウは自分の声が強すぎたと気づいた。
だが引っ込める気にはなれなかった。
瀬田は怒らなかった。
「おっしゃる結果を避けるために、通学支援や授業時間の調整を検討する必要があります。ただし、予算と人員には限りがあります」
「安全基準を満たさない建物へ通わせ続けられないことも、ご理解いただきたいと思います」
その一言で、ウィロウは反論を止めた。
旧校舎の壁には細い亀裂がある。雨の日、二階の廊下にバケツが置かれることも知っている。
残してほしい。
けれど、地震で天井が落ちてもよいとは言えない。
瀬田の後ろには、誰かを追い出したい悪意ではなく、金額と安全と人手の不足が立っていた。それがかえって腹立たしかった。悪い人が一人いれば、その人を説得すればよい。だが、相手が事情なら、何を殴ればよいのか分からない。
「反対署名を集めます」
ウィロウは立ち上がった。
自分でも、立つ必要はなかったと思う。
「この教室が必要な人がいることを、数で示します。千人集めます」
教室の何人かが顔を上げた。
瀬田は頷いた。
「ご意見を提出いただくことはできます。ただ、学校内で行う場合は、参加を強制しないことや個人情報の管理などについて、校長先生と確認してください」
「分かりました」
本当は何も分かっていなかった。
千人という数も、口から出ただけだった。
説明会は午後八時過ぎに終わった。
瀬田たちが帰ったあとも、生徒の半分ほどが教室に残った。黒板には統合案の文字が残っている。
「先生」
ウィロウは、資料を片づけていたオレリアンへ声をかけた。
「署名用紙を作るの、手伝ってください」
オレリアンの手が止まった。
「文章の確認ならできます。ただし、私が代表になったり、授業中に署名を求めたりすることはできません」
「どうしてですか」
「教師が先導すると、生徒が断りにくくなります。署名しない人が教室にいづらくなる可能性もあります。学校の立場と、有志の活動は分ける必要があります」
「先生は残したくないんですか」
オレリアンの表情がわずかに固まった。
「残したいかどうかと、教師としてできることは別です」
「便利ですね。別にすれば何も言わなくて済む」
「ウィロウさん」
「私たちは、別にできません。学校がなくなれば、通えないんです」
言い切ってから、ウィロウは鞄をつかんだ。
オレリアンが何か言う前に教室を出た。
渡り廊下には夜の風が通っていた。窓の外で柳が揺れている。細い葉が一斉に同じ方向へ倒れ、風が弱まると、それぞれ別の位置へ戻った。
「言いすぎた?」
追ってきたプレシャスが聞いた。
「言いすぎてない」
「即答したときは、だいたい言いすぎてるよ」
「署名をやらないの?」
「やるよ。動画も作る。だから役割を決めよう」
プレシャスは透明な筆箱を開き、色鉛筆を指揮棒のように振った。
「私は交流サイト。ウィロウは全体。エドワンさんは商店街。ミモザさんは――」
「過去の人脈」
いつの間にか後ろにいたミモザが答えた。
「その言い方、ちょっと怖いです」
「長く生きると知人が増えるのよ。敵も増えるけれど、署名欄では一人一筆だから平等」
エドワンも教室から出てきた。
「俺は、商店に何を言えばいい」
「まず署名用紙を作りましょう」
四人は教室へ戻った。
オレリアンはいなかった。
ウィロウは胸の奥が少し沈むのを無視し、黒板へ大きく題名を書いた。
『みなと夜間学級を残してください』
「弱い」
プレシャスが言った。
「何が」
「見た人の心をつかまない。もっと気持ちが必要」
プレシャスはその下へ、
『私たちの青春を返してください』
と書いた。
「私は青春を返されても困る」
エドワンが真顔で言った。
「どうしてですか」
「腰がもたない」
ミモザが吹き出した。
「私は返してほしいわ。今度はもっと上手に使う」
「返品と交換みたいに言わないでください」
結局、題名は『海風市立みなと夜間学級の学びを継続するための要望署名』になった。
長すぎるとプレシャスが不満を言い、短いとウィロウが意味が伝わらないと言った。エドワンは題名を一度読むだけで疲れ、ミモザは「読む練習になる」と賛成した。
活動は学校とは別の生徒有志として行うこと。
署名するかどうかは自由であること。
授業中には頼まないこと。
住所や名前を人目にさらさないこと。
四人で決めていると、教室の扉が開いた。
オレリアンが戻ってきた。
手には白い紙を何枚か持っている。
「校長先生に確認しました」
ウィロウは黙った。
「校外で有志として活動すること。授業や評価と無関係であること。未成年者や個人情報の扱いに注意すること。校内の印刷機は使えませんが、様式についての一般的な助言はできます」
紙には、署名活動で注意する点が、短い文章で整理されていた。
活動を止めるための紙ではなかった。
動けるように、転ばない場所を示した紙だった。
「先生は何も言わずに帰ったのかと思いました」
「何も言わずに確認へ行きました」
「そういうところ、説明が足りないです」
「すみません」
素直に謝られると、ウィロウのほうが困った。
「私も、さっきは……」
言いかけたところで、教室の後ろから子どもの声がした。
「ママ、これ書くの?」
プレシャスの息子、ルカが保育園の延長保育を終え、迎えに来た祖母と一緒に教室へ入ってきていた。
五歳のルカは、試し刷りした署名用紙を見つけると、色鉛筆を持った。
「これは大人が書くものだから、ルカは――」
プレシャスが止める前に、ルカは余白へ大きな丸を描いた。
丸は途中で細くなり、最後に尖っていた。名前には見えない。
「葉っぱ」
ルカは言った。
「風で揺れてるの」
窓の外の柳を指さしている。
プレシャスは丸の横へ小さく「ルカ・五歳・正式署名には含めません」と書いた。
「最初の一筆?」
ルカが聞く。
「これは応援の絵。署名とは別だけど、大事にする」
正式な署名欄には、ミモザが迷いなく名前を書いた。
次にウィロウ。
エドワンは少し時間をかけ、自分で覚えたばかりの漢字を一文字ずつ書いた。
一時間かけて、三筆。
千人まで、あと九百九十七人だった。
「大丈夫」
プレシャスはスマートフォンを持ち上げた。
「人数が必要なら、明日までに百人集める」
「待って。どうやって」
「こういうのは、見てもらえれば早いから」
彼女の目はもう、画面の向こうを見ていた。
ウィロウはその速さを頼もしいと思った。
同時に、どこか危ういとも感じた。
けれど、その危うさが何なのかを考える前に、プレシャスは最初の動画を撮り始めていた。




