第2話 五十八歳の名前
エドワンは、文字を色で覚えていた。
赤い帯のある容器は使わない。青い印は床用。黄色い丸は手袋を替えるもの。清掃会社の倉庫で、薬品のラベルを一つずつ読む代わりに、色と容器の形と置かれている棚の高さを記憶している。
四月下旬の午前四時五十分、まだ空が暗いうちに、エドワンは駅前の雑居ビルへ入った。
警備員へ頭を下げ、清掃用具室の鍵を開ける。照明をつけると、棚に並ぶ容器が白い光の下へ現れた。
いつもの青い印のボトルを取ろうとして、手を止めた。
隣に、よく似た形の新しい容器が置かれている。ラベルには細かな字が並び、中央に赤い枠の注意書きがあった。
エドワンは手袋を外し、胸ポケットから折り畳んだ紙を出した。会社から渡された薬品一覧を、自分なりに写したものだ。容器の絵、ふたの色、混ぜてはいけない薬品の組み合わせ。文字は少なく、矢印と丸が多い。
それでも、新しい容器は載っていなかった。
「長谷川さん」
隣の部屋で道具を準備していた同僚を呼ぶ。
「これ、床に使うやつか」
長谷川はラベルを読んだ。
「違います。金属用ですよ。今日から棚が変わったみたいですね。青いのは一段下です」
「そうか」
「一覧、あとで新しいのを印刷しましょうか」
「頼む」
礼を言い、いつもの容器を取った。
勘で使うことだけはしなかった。読めないことを隠すために事故を起こせば、隠してきた何十年まで無駄になる。分からないときは、用途だけを聞く。字が読めないとは言わずに済む聞き方を、エドワンはいくつも覚えていた。
誰もいない一階の廊下へ出る。
窓の外では、始発前の駅が静かに光っている。自動ドアの向こうを新聞配達の自転車が通った。
エドワンはモップを水へ浸し、固く絞った。
朝五時、私は誰もいないビルへ入る。
数日前、ウィロウが書いた文章を思い出す。
他人に自分の朝を文章にされるのは妙な気分だった。実際には床へ挨拶などしない。だが、暗い廊下へ最初の一歩を置くとき、自分より先に床が待っているという感覚は、言われてみれば分からなくもなかった。
「床は返事をしない、か」
声に出すと、広い廊下へ小さく響いた。
その日から、エドワンは仕事を始める前に、誰もいないことを確かめてから、一度だけ「おはよう」と言うようになった。
床は、やはり返事をしなかった。
午前十時に仕事が終わり、いったん家へ戻った。古い団地の二階。玄関には靴が一足しかない。
妻がいた頃は、買い物用の靴と近所用のつっかけがいつも雑に並んでいた。何度そろえても、翌日にはまた斜めになっていた。今は整いすぎた玄関が、家の静けさを余計に目立たせている。
食卓の端には、市役所から届いた封筒が置かれていた。
差出人の「海風市」という文字は読める。夜間学級で何度も練習したからだ。その下の細かな文字は、まだ一人では追いきれない。
以前なら、開けずに引き出しへ入れていた。
妻が生きていた頃、役所からの封筒はすべて妻が読んだ。
「これは税金。こっちは保険。これは捨てていい」
妻は新聞を読みながら、何でもないことのように仕分けた。エドワンは、分からないと口にする代わりに、「任せる」と言った。
妻が亡くなったあとも、封筒は同じように届いた。
一通だけ、期限のある給付の案内を見落とした。あとで市役所の窓口へ持っていったときには、申請期間が過ぎていた。
「お知らせをお送りしています」と職員は言った。
届いていた。
読めなかった。
その二つの間にある深い穴を、職員へ説明する言葉をエドワンは持っていなかった。
帰り道で、夜間中学の入学案内を見つけた。市役所の掲示板に貼られた大きな文字だけは読めた。
学びたい人へ。
その言葉が、自分へ向けられているとは、最初は思わなかった。
五十八歳で中学校へ行く人間などいるのかと、案内の紙を三日間持ち歩いた。四日目に電話をした。
今、食卓には教科書が置かれている。
エドワンは市役所の封筒を開けた。中の紙を一行ずつ見て、読める文字へ鉛筆で丸をつける。
住所。
氏名。
期限。
分からない部分は、夜に学校へ持っていけばいい。
以前と同じく、一人では全部読めない。それでも、開けずにしまう人間ではなくなっていた。
夕方、教室へ着くと、プレシャスが三つの筆箱を机へ並べていた。
赤い筆箱にはペン、青い筆箱には付箋と定規、透明の筆箱には色鉛筆が入っているらしい。
「エドワンさん、今日はスマホを使います」
「持ってる」
「知ってます。電話だけじゃなくて、文字も書けるんですよ」
「文字は紙に書く」
「声で入力できます。住所を言ってみてください」
プレシャスは人の話を聞く前に、エドワンの机へ自分のスマートフォンを置いた。
国語の授業が始まる前だった。今日の内容は、申込書へ住所と名前を書く練習だという。オレリアンが人数分の見本を配っている。
「音声入力なら、漢字を調べるのにも使えます。ここを押して、海風市って言ってください」
エドワンは画面を見た。
小さなマイクの印がある。
「海風市」
画面に文字が出た。
貝風呂市。
プレシャスが口を押さえた。
隣のウィロウが覗き込む。
「ずいぶん温かそうな市になりましたね」
ミモザも後ろから見る。
「海が全部お風呂なら、観光客が来るわ」
エドワンは画面を見たまま言った。
「引っ越した覚えはない」
教室中に笑いが広がった。
以前なら、席を立っていたかもしれない。
工場でも、読めない漢字を間違えて笑われたことがある。若い頃、一度だけ「潤滑」を別の読み方で言い、数人の同僚に何日も真似された。それからは、読めないものを声に出さなくなった。
けれど、今の笑いには、自分を下へ押しつける感じがなかった。プレシャスもウィロウも、自分たちの失敗と同じ場所へ並べて笑っている。
「もう一度、ゆっくり言ってみましょう」
プレシャスが言った。
「機械のほうが聞き直せ」
「強い。スマホに厳しい」
オレリアンが教壇から声をかけた。
「便利な道具ですが、今日は紙にも書きます。どちらか一つを選ぶのではなく、使える方法を増やしましょう」
配られた申込書の見本には、住所、氏名、生年月日と大きく印刷されていた。
エドワンは住所から書いた。
海風市。
何度も練習したので、手が覚えている。
問題は名前だった。
エドワンという名は、外国出身の父が付けた。戸籍では漢字が当てられている。最初の二文字は書ける。最後の一文字は画数が多く、形が崩れやすい。
仕事の書類では印鑑を押してきた。署名が必要なときは、ひらがなで済ませた。妻が横にいるときは、小さく見本を書いてもらった。
鉛筆を持つ。
紙の上で、最初の線が震えた。
隣からウィロウの気配がした。見ているのかと思ったが、彼女は自分の住所を書いていた。プレシャスも、スマートフォンを片づけている。誰も手元を覗き込んでいない。
オレリアンが机の横へ来た。
「見本を大きくしますか」
「子どもの字の本でも出すのか」
思わず低い声になった。
入学前に、書店で練習帳を探したことがある。表紙には、笑顔の小学生と動物の絵が描かれていた。自分が持ってレジへ行く姿を想像し、棚へ戻した。
オレリアンは怒らなかった。
「出しません」
「じゃあ、何を使う」
「エドワンさんが実際に使うものです」
オレリアンは別の紙を置いた。清掃用品の注文票、役所の申請書、以前働いていた工場で使われていたような簡単な図面。その中に必要な漢字が、読みやすい大きさで抜き出されている。
「五十八歳の人へ、八歳用の宿題を渡す必要はありません。覚える字が同じでも、使う生活が違いますから」
エドワンは返事をしなかった。
胸の奥に固く置いてあったものが、少しだけ動いた。
読めないことを知られたら、子どもと同じ場所へ戻されると思っていた。五十八年生きたことも、四十年働いたことも、全部なかったことにされる気がした。
だが、オレリアンの紙には、エドワンが生きてきた時間が残っていた。
「名前を書きます」
「はい」
「最後の字だけ、見本をここへ置け」
「分かりました」
一画目。
二画目。
途中で形が傾いた。最後の長い一画は、見本より右へ曲がった。
消しゴムへ手を伸ばす。
「消すんですか」
ウィロウが聞いた。
「曲がった」
「でも、その字、立ってるみたいで強いですね」
「どこがだ」
「踏ん張ってる感じがします」
「字は踏ん張らない」
「柳は踏ん張りますよ。上がどれだけ揺れても、根は残るから」
エドワンは、もう一度自分の名前を見た。
上手ではない。見本と同じでもない。
だが、自分が書いた字だった。
消しゴムから手を離した。
オレリアンは何も言わず、見本の紙を少しだけ離した。大げさに褒められなかったことが、ありがたかった。
授業の終わりに、全員が自分の書いた申込書を一度読み上げた。
エドワンは住所を読み、名前を読んだ。
自分の名前なのに、声に出すと新しく聞こえた。
帰宅したのは午後九時半を過ぎていた。
食卓の引き出しから、古い缶を出す。妻が裁縫道具を入れていた缶だ。今は、写真と手紙をしまっている。
妻が入院していた頃の手紙を一通取り出した。
病院では電話をできる時間が決まっていたため、妻は短い手紙を書いた。エドワンは、受け取るたびに読んだふりをして持ち帰った。家では辞書を引いても分からず、知っている文字だけをつなげて意味を想像した。
封筒の表には、妻の字で自分の名前が書かれている。
以前は、形として覚えていただけだった。
今は、一文字ずつ分かる。
エドワンは、昼間に書いた自分の字を隣へ置いた。
妻の字は丸く、エドワンの字は右へ傾いている。同じ名前には見えないほど違う。
「立ってるみたいで強い、か」
呟く。
手紙の本文は、まだ全部読めない。
それでも、妻が何度も書いた自分の名前だけは、もう誰にも読んでもらわなくてよかった。
翌日、教室の掲示板に新しい紙が貼られていた。
大きな文字で、
「みなと夜間学級統合に関する説明会」
と書かれている。
日付は五月上旬。市教育委員会の担当者が来るらしい。
エドワンは「統合」という二文字を知らなかった。
授業前、国語辞典を開く。見出しを探すのに時間がかかった。オレリアンにページを教えてもらい、指で一行ずつ追った。
複数のものを、一つに合わせること。
「何と何を合わせる」
エドワンが聞くと、オレリアンは少し間を置いた。
「この教室と、二十七キロ離れた中央夜間中学です」
「ここは、なくなるのか」
「案の段階です。説明会で詳しい話があります」
エドワンは掲示板の紙を見上げた。
ここへ通い始めて、まだ一年もたっていない。
自分の名前を一人で書けたのは、昨日が初めてだ。
ようやく開けた教科書を、もう閉じろと言われているような気がした。
短い鉛筆を握る。
削りすぎた鉛筆は、これ以上強く握れば折れそうだった。




