第1話 柳の窓と、遅刻した新入生
四月の夕方、ウィロウは泥のついた作業靴で学校の廊下を走っていた。
走るたび、腰から下げた小さな剪定ばさみのケースが、からり、からりと鳴った。会社を出る直前まで生け垣の刈り込みをしていたせいで、作業着の袖には細い葉が二枚くっついている。入学式の日くらい着替えたかったが、現場の片づけに時間がかかった。更衣室へ寄れば完全に遅刻する。迷った末に、ウィロウは仕事帰りの姿で校門をくぐった。
海風市立みなと中学校と刻まれた門柱は、昼間に見る普通の中学校と変わらなかった。けれど、夕焼けの下で見る校舎は、仕事を終えた大人たちを待つために、もう一度目を覚ました建物のようだった。
案内の紙には「夜間学級入学式 旧校舎二階」と書いてあった。
旧校舎がどれか分からない。
ウィロウは正面玄関の掲示板を見て、右へ曲がった。突き当たりに「夜間利用者入口」という立て札がある。そこから聞こえてきたのは、先生の話ではなく、陽気な音楽だった。
間違っている気はした。
しかし、始まる前に音楽を流しているだけかもしれない。最近の学校は入学式も柔らかい雰囲気になったのだろうと、ウィロウは都合よく考えた。
扉を開けると、体育館の半分ほどの広さの部屋で、十数人の男女が二人一組になって踊っていた。年齢は六十代から八十代くらい。全員が、教科書ではなく背筋をぴんと伸ばしている。
音楽が止まった。
全員がウィロウを見た。
「遅れてすみません。今日から三年に入るウィロウです」
勢いで頭を下げると、髪から乾いた小枝が落ちた。
最前列の白髪の女性が、小さく首を傾げた。鮮やかな紫色のスカーフを巻き、姿勢がやけに美しい。
「三年?」
「はい。三十一歳です」
「社交ダンス歴が?」
「中学校のほうです」
沈黙のあと、誰かが吹き出した。
笑いは一人から二人へ移り、たちまち部屋全体へ広がった。ウィロウも、肩を落としたまま笑うしかなかった。
「あなた、夜間学級へ行きたいのね」
紫のスカーフの女性は気の毒がるでもなく、楽しそうに言った。
「旧校舎は向かい。私もそこの三年よ。授業前に一曲だけ踊りに来ているの」
「じゃあ、案内をお願いします」
「いいけれど、音楽が途中なの。あと八小節だけ付き合って」
「八小節が何歩か分かりません」
「私が分かっているから大丈夫」
女性はウィロウの返事を待たず、右手を取った。
「ミモザ。七十三歳。あなたの同級生」
自己紹介と同時に足を踏まれた。ウィロウがではなく、ミモザがウィロウの作業靴を踏んだのである。
「あら。安全靴って強いのね」
「試すために履いてるんじゃないです」
二人がぎこちなく三歩進み、四歩目でぶつかり、五歩目で周りから拍手が起きた。八小節が終わる頃には、ウィロウの入学初日の緊張は、見事に別の種類の恥ずかしさへ置き換わっていた。
ミモザに連れられて外へ出ると、渡り廊下の先に、古びた二階建ての校舎が見えた。窓の一部は新しいアルミ枠に替わっているが、壁の色はところどころ薄くなっている。入口の横には、小さな紙の飾りで作られた「入学おめでとう」の文字があった。
「間に合うかしら」
「たぶん、名前を呼ばれるところには」
ミモザは時計を見ながら、少しも急がなかった。
「急がないんですか」
「七十三年も生きてきたんだから、二分くらい遅れても人生全体では誤差よ」
「その理屈、先生に通ります?」
「去年は通らなかった」
旧校舎の階段を上がるにつれ、ウィロウの足は重くなった。
中学校へ戻ると決めたのは自分だ。それでも、教室の前まで来ると、十三歳の頃に置いてきたものが扉の向こうで待っているような気がした。
母が倒れ、幼い弟の食事を作り、洗濯をし、病院へ通った。最初は一週間休むだけのつもりだった。次は一か月。そのうち教科書のページが追いつかなくなり、教室へ戻るほうが怖くなった。家計の足しになる仕事を始めた頃には、学校へ戻るという選択肢自体が生活から消えていた。
入学前の面談で、担当者から三年への編入を提案された。独学で覚えたことや識字講座で学んだことを確認した結果だという。
三年。
その響きは、十三歳の頃の自分に追いつくための最後の一年のように聞こえた。
扉の前で、ウィロウは作業着の袖についた葉を払った。一枚は落ちたが、もう一枚は縫い目に引っかかったままだった。
「入るわよ」
ミモザがためらいなく扉を開けた。
教室には、二十人ほどの生徒が座っていた。若い人もいれば、白髪の人もいる。日本語の教科書を開いている外国出身らしい男性、ネクタイを緩めたままの会社員、作業服の女性。年齢も服装も、ここへ来るまでの道も、ひとつとして揃っていない。
前方では校長が話をしていた。扉の音で言葉を止め、ウィロウとミモザを見た。
「新入生のウィロウさんですね」
「はい。校舎を間違えました」
「私が保護しました」
ミモザが胸を張る。
「踊らせていましたよね」
教室の後ろから声がした。
見ると、明るい黄色のカーディガンを着た若い女性が、口元を隠しながら笑っていた。机の上には、赤、青、透明の三つの筆箱が並んでいる。
「窓から見えました。入学初日に先生より先に同級生と踊る人、初めてです」
「あなたは?」
「プレシャス。二年です。筆記用具を忘れたら、何でも貸せます」
三つも必要かと聞こうとして、ウィロウはやめた。初対面で人の筆箱に口を出すのも違う気がした。
案内された席の隣には、灰色の作業上着を着た大柄な男性が座っていた。五十代後半くらいだろう。手の甲には細かな傷があり、机の上には新品らしい鉛筆が一本置かれている。ただし、削りすぎて、もう新品の半分ほどの長さしかない。
「ウィロウです。よろしくお願いします」
「エドワン」
男性はそれだけ言った。
前を向いた横顔は不機嫌そうだったが、短い鉛筆を持つ指は、壊れ物を扱うように慎重だった。
入学式は、ウィロウが予想していたより短かった。校長の話、生徒代表の歓迎の言葉、教員紹介。最後に、担任で国語を担当するオレリアンが前へ出た。
三十代半ば。背が高く、落ち着いた紺色のシャツを着ている。教壇に立つ姿は穏やかだったが、出席簿を持つ左手だけが少し強く握られているように見えた。
「今日から皆さんは、同じ学校に通う生徒です。ただ、同じ年齢でも、同じ生活でもありません。互いの違いを、遅れや不足としてではなく、教室に持ち寄れるものとして扱いたいと思います」
きれいな話だ、とウィロウは思った。
きれいすぎる話は、現場では役に立たないこともある。植木は教科書どおりの方向へ枝を伸ばさないし、決められた人数で終わる仕事に急な欠勤者が出ることもある。
それでも、オレリアンの声には、聞かせるために作った立派さより、一人ずつ確かめるような慎重さがあった。
入学式が終わると、そのまま最初の国語の授業になった。
オレリアンは黒板に白いチョークで書いた。
私は、誰かの朝を知らない。
ウィロウは首を傾げた。国語の初日なら、漢字の読み方や教科書の使い方から始まると思っていた。
「隣の人へ、朝起きてからこの教室へ来るまでのことを聞いてください。その人になったつもりで、三百字ほどの文章にします」
教室のあちこちから、小さな戸惑いの声が上がった。
「先生。三百字が何行か分かりません」
プレシャスが手を挙げた。
「今日は数えなくても構いません。書けるところまでで大丈夫です」
「じゃあ、五行で三百字の気持ちを込めます」
「文字数と気持ちは別に数えます」
笑いが起きた。
ウィロウは隣を向いた。
「エドワンさん、朝は何時に起きました?」
「五時前」
「それから?」
「働いた」
「何の仕事ですか」
「清掃」
「どこを?」
「ビル」
「それから、ここへ?」
「来た」
会話が終わった。
ウィロウは鉛筆を置いた。三百字どころか、十字にもならない。
エドワンの作業上着からは、かすかに洗剤の匂いがした。手の傷は古いものと新しいものが重なっている。爪の間はきれいに洗われていた。眠そうな目をしているのに、短くなった鉛筆の先だけは丁寧に尖っている。
「誰もいないビルですか」
「朝はな」
「挨拶します?」
「誰に」
「床とか」
エドワンが初めてウィロウの顔を見た。
「床は返事をしない」
「だから気楽?」
「まあな」
ほんの少し、口元が動いた。
ウィロウはノートへ書き始めた。
朝五時、私は誰もいないビルの床へ、自分より先に挨拶する。
一度書いてから、「自分より先に」の意味が変だと思った。床は自分より先に来ている。挨拶が先なのか、床が先なのか。消しゴムを持ったところで、オレリアンが机の間を歩いてきた。
「消しますか」
「変ですよね」
「どこが変だと思いました?」
「床が先なのか、挨拶が先なのか分からなくなって」
オレリアンはすぐに答えなかった。ウィロウのノートを勝手に引き寄せることもせず、机の横で待った。
「エドワンさんの朝が、書く前より少し見えましたか」
「少しだけ」
「では、今は残しておきましょう。あとで読み返したとき、もっと合う言葉が見つかるかもしれません」
「間違いでも?」
「消すのは、いつでもできますから」
それだけ言って、オレリアンは次の机へ向かった。
急かされなかったことが、ウィロウには意外だった。
子どもの頃、答えが遅いと、教師は別の生徒を指した。仕事では、判断が遅いと作業全体が止まる。だからウィロウは、考えるより先に決める癖を身につけてきた。
待ってもらうと、こんなにも落ち着かない。
それでも、もう一度ノートへ向かった。
朝五時、私は誰もいないビルへ入る。廊下の灯りをつける前に、暗い床がそこにいる。おはようとは言わない。床は返事をしないから、私も黙って仕事を始める。
書けたのは百字ほどだった。けれど、授業の終わりに読むよう言われると、ウィロウは手を挙げた。
自分でも理由は分からない。土のついた袖のまま入学式へ来た時点で、今さら格好をつけても仕方がないと思ったのかもしれない。
読み終えると、教室は静かだった。
エドワンが短い鉛筆を指で回した。
「床は返事をしないから気楽だ」
授業の前より少し長い言葉だった。
「そこ、入れたほうがいいですか」
「好きにしろ」
「じゃあ入れます」
「勝手だな」
「質問に答えないからです」
エドワンの口元が、今度ははっきり緩んだ。
オレリアンは黒板の横に立ち、ウィロウのノートを見ずに言った。
「聞けなかった部分を、都合よく決めつけなかったのがいいと思います。手や匂いや鉛筆から、見えたことだけを手がかりにした。誰かの人生を書くとき、想像することと、勝手に決めることは似ているようで違います」
文章を褒められたはずなのに、ウィロウの胸に残ったのは、別のところだった。
オレリアンは、字が乱れているとも、百字しかないとも言わなかった。次はもっと書けとも言わなかった。
ただ、見ていたところを見つけてくれた。
授業が終わる頃には、窓の外は濃い青色になっていた。教室のすぐ近くに、大きな柳が立っている。細い枝が風に押され、窓へ触れそうなほど揺れていた。
ウィロウは帰り支度をしながら、袖に残っていた葉をようやく取った。
「この木、かなり大きいですね」
窓を閉めていたオレリアンが振り返った。
「旧校舎より長く、ここにいるそうです」
「剪定が少し偏っています。道路側を避けすぎて、校舎側に重さが寄ってる」
「分かるんですか」
「一応、それで給料をもらってますから」
オレリアンも窓の外を見た。
「葉は一枚ずつ揺れますが、風は同じなんですよ」
ウィロウは横顔を見た。ずいぶん整った言葉である。
「先生、それ毎年言ってません?」
オレリアンは真顔で答えた。
「今年、初めて思いつきました」
「去年も聞いたわよ」
後ろでミモザが鞄を肩にかけていた。
「おととしは『葉は別々でも根は同じ』だったわ。少しずつ変えているのね」
オレリアンの耳が赤くなった。
「毎年、柳は見ていますから」
「先生も成長しているのよ。言葉が」
「褒められている気がしません」
ウィロウは声を立てて笑った。
教室を出るとき、廊下の窓にも柳の影が映っていた。枝は同じ場所にあるのに、風が吹くたび形を変える。
ここでは、誰が普通なのか分からない。
そのことが、来る前より少しだけ心地よく感じられた。
入学から三週間ほどたった四月末、帰りの学級活動で校長が教室へ入ってきた。
いつもなら冗談を一つ言ってから話し始める人だったが、その日は資料の封筒を両手で持ったまま、すぐ本題へ入った。
「来週、市教育委員会から、みなと夜間学級の今後について説明があります」
教室の空気が変わった。
「今後って、何のですか」
プレシャスが聞いた。
校長は一度、オレリアンを見た。
「中央夜間中学との統合案についてです」
統合。
聞き慣れない言葉だったが、祝い事でないことだけは分かった。
ウィロウがオレリアンを見ると、彼は出席簿を閉じていた。入学式の日と同じように、左手へ少し強く力が入っている。
窓の外で、柳の葉がいっせいに裏返った。




