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風待ち教室の署名簿  作者: 乾為天女


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10/10

第10話 風待ち教室の新しい葉

 十二月九日、教室の柳は、ほとんど枝だけになっていた。


 窓越しに見ると、細い枝が空へ文字を書いているようだった。


 読めそうで読めない。


 それでも、春になれば続きを書くことを、木だけは知っている。


 その日の授業前、瀬田が教室へ来た。


 いつもの資料鞄に加え、厚い封筒を抱えている。


 生徒たちは誰も席へ座らなかった。


 プレシャスは緑色のペンを握ったまま立っていた。


 エドワンは腕を組んでいる。


 ミモザは、瀬田の顔色から答えを読もうとしていた。


 ウィロウは窓際に立った。


 「教育委員会で、来年度の方針案が決まりました」


 瀬田は、封筒から書類を出した。


 「現在の旧校舎にある夜間学級は、建物の安全上、今年度末で閉じます」


 誰も息をしなかった。


 分かっていたことだった。


 それでも「閉じる」と言葉になれば、机や黒板や柳の窓へ、別れの日付が刻まれる。


 瀬田は続けた。


 「中央夜間中学へ全面統合する案は撤回します」


 プレシャスの手から、ペンが落ちた。


 床を転がり、エドワンの靴へ当たる。


 「旧図書館駅前分館を改修し、海風市立みなと中学校の駅前分教室として、一年間試行運営する方針です」


 ウィロウは、すぐには意味を飲み込めなかった。


 瀬田の口が動いている。


 週五日の授業。


 専任教員の配置。


 教科ごとの巡回教員。


 送迎の実証。


 近隣保育施設との連携協議。


 言葉が一つずつ、乾いた土へ水が染みるように胸へ入った。


 「市議会で予算が可決されれば、四月に開室します」


 「まだ決まってないの?」


 プレシャスが聞いた。


 「学校運営の方針は教育委員会が決めました。ただし、改修費、教員配置費、送迎の実証費には市議会の議決が必要です」


 「あと一段あるのね」


 ミモザが言った。


 「はい。ただ、文教委員会では修正案を支持する意見が多数でした」


 ウィロウは、机へ手を置いた。


 「瀬田さん」


 「はい」


 「検討、終わりました?」


 瀬田は、一度だけ深く息を吸った。


 「皆さんの案を、できない理由を探すためではなく、実施する方法を探すために検討しました」


 ミモザが、杖の先で床を二度鳴らした。


 「長かったけど、今回は本当に考えていたのね」


 「遅くなりました」


 「遅いわ」


 「はい」


 「でも、ありがとう」


 瀬田は頭を下げた。


 ウィロウは、喜んでいいのか分からなかった。


 学校は続く。


 しかし、この教室は終わる。


 窓の柳も、低い天井も、オレリアンが何度も日付を書き間違えた黒板も、四月からは使えない。


 勝ったとは思えなかった。けれど、負けたとも思わなかった。


 失うものを抱えたまま、新しい場所へ進む。


 それが今の答えだった。


 十二月十八日、市議会で予算案が可決された。


 改修費。


 専任教員と巡回教員の配置費。


 送迎の実証費。


 保育連携の調査費。


 すべてが満額ではなかった。


 送迎は週二回から始める。


 保育延長は、まず二つの施設と協議する。


 地域協力者の補習は、登録制にする。


 条件はいくつもついた。


 それでも、四月から通える場所が地図の上だけではなくなった。


 改修工事が始まると、生徒たちは授業のない土曜日に旧分館を見に行った。


 貸出カウンターは撤去され、壁が塗り直される。


 古い書庫は、教材棚になる予定だった。


 中庭と呼ぶには狭い土の区画を、ウィロウは何度も測った。


 「何を植えるの?」


 ルカが尋ねた。


 「まだ決めてない」


 「柳は?」


 「柳は大きくなるから、この場所だと根が困るかもしれない」


 「根も困るの?」


 「狭いところへ押し込めたら困るよ。人と同じ」


 ルカは真剣に土を見た。


 「じゃあ、広いところに植える?」


 「小さいうちはここで育てて、大きくなったら考える方法もある」


 「検討する?」


 ウィロウは笑った。


 「実施する方法を探す方ね」


 冬の間、教室では授業が続いた。


 署名簿は提出を終え、活動の連絡は減った。


 代わりに、試験問題と卒業作文が机を埋めた。


 ウィロウは二級造園技能士の学科問題へ取り組んだ。


 実技は仕事で積んだ経験がある。


 難しいのは、文章を正確に読むことだった。


 『次のうち、樹木の移植時期として適切でないものを選べ』


 適切なものではない。


 適切でないもの。


 一語を読み落とせば、答えが逆になる。


 「問題を作った人、性格悪くない?」


 ウィロウが言う。


 「問題文を最後まで読むか確認しています」


 オレリアンは平然と答えた。


 「先生は問題を作る側だから、かばうんだ」


 「私はここまで意地の悪い問題は作りません」


 「『ここまで』ってことは、少しは意地悪なんですね」


 「学ぶために必要な範囲です」


 隣でエドワンが、問題文の「適切でない」へ二重線を引いた。


 「大事なところは囲む」


 「エドワンさん、慣れてきたね」


 「清掃の注意書きも同じだ。混ぜてよい、ではなく、混ぜてはいけない」


 文字は仕事とつながっていた。


 文章は、試験だけのものではない。


 自分を守り、誰かを守るために読むものだった。


 プレシャスは進級後の目標を書いた。


 『今の学習を続け、高等学校卒業程度認定試験について調べる。その後、学習支援に関わる講座を受ける』


 「先生になるの?」


 ルカが聞く。


 「すぐにはなれないよ」


 「じゃあ、何になるの?」


 「分からない人の隣で、一緒に分からないって言える人」


 「それ、仕事?」


 「仕事にできるように勉強するの」


 エドワンは、新入生向けの文字カードを作った。


 自分が最初に覚えた言葉。


 名前。


 住所。


 危険。


 混ぜるな。


 期限。


 振込。


 生活で必要だったのに、読めないと言えなかった文字を選んだ。


 ミモザは卒業作文に苦戦した。


 題名は、『学ぶのに遅すぎるという人へ』。


 本文より題名の方が長い日もあった。


 「短くしたら?」


 プレシャスが言う。


 「人生を短くまとめろというの?」


 「題名の話だよ」


 「題名も人生の一部よ」


 三月、ウィロウの試験結果が届いた。


 二級造園技能士、合格。


 封筒を開けたのは、教室だった。


 文字を自分で読んだ。


 合格。


 何度見ても、二文字は変わらない。


 「受かった」


 声にすると、急に現実になった。


 プレシャスが最初に抱きついた。


 ミモザが拍手した。


 エドワンは、机を一度強く叩いて喜んだ。


 オレリアンは、少し離れたところから笑っていた。


 「おめでとうございます」


 「先生のおかげです」


 「あなたが読んで、考えて、受けた結果です」


 「そういうところ、先生らしい」


 「先生ですから」


 その言葉へ、わずかな終わりの気配が混じった。


 オレリアンは三月末で別の中学校へ異動することが決まっていた。


 駅前分教室の担当にはならない。


 ウィロウは卒業する。


 春から、二人の立場は変わる。


 だが、卒業式までは教師と生徒だった。


 三月二十二日、卒業式。


 旧校舎の小さな教室に、折り畳み椅子が並んだ。


 卒業するのは、ウィロウとミモザを含む四人だった。


 プレシャスとエドワンは進級する。


 瀬田も来た。


 桑名も来た。


 商店街の人々は、後ろの席へ座った。


 ルカは、卒業生より緊張した顔で花束を持っている。


 ウィロウは名前を呼ばれ、前へ出た。


 オレリアンから卒業証書を受け取る。


 「卒業、おめでとうございます」


 「ありがとうございます」


 教師としての声。


 生徒としての返事。


 紙を受け取る指先が、ほんの少し近づいた。


 触れなかった。


 それでよかった。


 今ここで境界を曖昧にすれば、二人が積み上げてきたものまで曖昧になる。


 ミモザは証書を受け取ると、客席へ向き直った。


 「このあとも来るから、泣かなくていいわよ」


 会場に笑いが起きた。


 卒業作文の朗読では、エドワンが進級生代表として送る言葉を読んだ。


 「先に卒業する人へ。新しい教室で、待っています。卒業した人も、来てよいそうです。ただし、授業の邪魔は、しないでください」


 「私を見て言ったでしょう」


 ミモザが声を上げる。


 「全員へ言った」


 「正直でよろしい」


 式のあと、ウィロウは柳の下へ行った。


 まだ葉はない。


 しかし枝の先には、小さな芽がついていた。


 土の近くから伸びた若い枝を、管理者の許可を得て挿し木用に切る。


 新しい教室へ持っていくためだ。


 オレリアンが近づいてきた。


 「根づきますか」


 「絶対とは言えません」


 「あなたがそう言うのは珍しいですね」


 「先生に教わったんです。分からないことを、分かったふりで埋めない」


 「それなら、私は少し役に立てたようです」


 ウィロウは枝を湿らせた布へ包んだ。


 何か言うべきだと思った。


 卒業した。


 けれど、まだ今日の間は学校の時間が残っている。


 オレリアンも同じことを考えているようだった。


 「ウィロウさん」


 「はい」


 「あなたは、自分で選んだ道を進んでください」


 教師としての最後の言葉だった。


 「先生も」


 それだけ返した。


 個人的な約束はしなかった。


 食事にも誘わなかった。


 連絡先も交換しなかった。


 二人は柳の下で別れた。


 寂しかった。


 けれど、寂しさに急かされて何かを始めるより、春まで待つ方が、二人には正しいと思えた。


 四月五日。


 駅前分教室の開室準備の日。


 改修された旧図書館分館には、新しい机と椅子が入っていた。


 壁には、公開授業で読まれた作文の一部が、本人の許可を得て展示されている。


 エドワンは新入生の男性の隣で、住所の書き方を教えていた。


 「線を急ぐな。一画ずつだ」


 「エドワンさん、厳しい」


 プレシャスが笑う。


 「待っているだけだ」


 「先生より先生らしいよ」


 「先生ではない」


 「その台詞も先生っぽい」


 ミモザは卒業生代表の安全確認と称し、受付でお茶を飲んでいた。


 「開室初日に来ない卒業生は無責任でしょう」


 「誰にも頼まれてないよ」


 プレシャスが言う。


 「頼まれる前に動くのが大人よ」


 ルカは来訪者カードへ葉を描いていた。


 今度のカードは署名用紙ではない。


 この場所へ来た人が、名前を残すためのものだ。


 「名前も書く」


 ルカは鉛筆を持ち直した。


 覚えたばかりの自分の名前を、一文字ずつ書く。


 曲がった。


 消そうとした。


 エドワンが横から言う。


 「読める。消さなくていい」


 ルカは、そのまま残した。


 ウィロウは会社の作業着で、中庭の土を整えていた。


 卒業後、造園会社の正社員になった。


 駅前分教室の小さな植栽整備を、仕事として任されている。


 柳の挿し木は、冬の間に小さな根を出した。


 まだ若木とも呼べない細さだ。


 風が吹けば折れそうに見える。


 それでも、新しい芽が三つ開いていた。


 「支柱は、これでいいですか」


 後ろから声がした。


 ウィロウは振り返った。


 オレリアンが立っていた。


 以前の学校で着ていたものとは違う上着。手には、園芸用の支柱が二本ある。


 「どうしてここに?」


 「瀬田さんから、今日が開室準備だと聞きました」


 「異動先は?」


 「今日は休みです」


 三月末で異動は完了している。


 ウィロウは卒業している。


 教員と生徒の関係は、もうない。


 頭では分かっていた。


 それでも、声をかけるとき、反射的に「先生」と呼びそうになる。


 オレリアンも、いつもの距離で立つべきか迷っているようだった。


 「もう先生じゃないんですよね」


 ウィロウが言った。


 「あなたの先生ではありません」


 「じゃあ、オレリアンさん」


 名前で呼ぶと、彼の肩がわずかに動いた。


 「はい」


 「その支柱、少し長いです」


 「そうですか」


 「柳の高さに合わせて切ります」


 ウィロウは鋏を取った。


 オレリアンは、その手元を見つめている。


 何か言いたそうだった。


 「一つ、お願いがあります」


 ようやく口を開いた。


 ウィロウは鋏を止めた。


 「何ですか」


 「柳の剪定方法を教えてください」


 沈黙が落ちた。


 ウィロウは、彼の顔を見た。


 本気だった。


 緊張のあまり、最初に出す言葉を間違えた顔でもあった。


 「それだけですか」


 「いえ」


 オレリアンは息を吸った。


 授業中、難しいことを説明するときより緊張している。


 「その後、一緒に食事をしてください」


 ウィロウは黙って待った。


 彼は続けた。


 「先生としてではなく、あなたをもっと知りたい人として」


 風が、中庭を通った。


 柳の若い葉が三枚、別々の向きへ揺れた。


 ウィロウは、すぐ答えなかった。


 わざと真剣な顔を作る。


 「検討します」


 オレリアンの顔色が変わった。


 「そうですか」


 「実施する方法を探す方の検討です」


 数秒遅れて意味が届いた。


 オレリアンは、張りつめていた息を吐いた。


 「その言葉を、そう使われるとは思いませんでした」


 「私は最初から、使い方が柔軟なんです」


 「即断しすぎるところもありました」


 「今、それ言います?」


 「すみません」


 「謝るのが早い」


 二人は笑った。


 教室の中から、ミモザの声が飛んできた。


 「柳の下よりはましだけど、中庭も虫が出ますよ!」


 「聞いてたの?」


 ウィロウが振り返る。


 「卒業生代表の安全確認です」


 プレシャスが窓から顔を出した。


 「何の安全を確認してるの」


 「若い二人の判断力」


 「二人とも若いって年でもないでしょう」


 エドワンが真顔で言う。


 「そこは黙ってて!」


 ウィロウとプレシャスの声が重なった。


 笑いが、新しい教室の壁へ広がった。


 ルカが、来訪者カードを持って中庭へ出てくる。


 「見て。名前、書いた」


 ウィロウは膝をつき、カードを受け取った。


 葉の絵の隣に、少し傾いた文字でルカの名前がある。


 「上手だね」


 「エドワンさんが、消さなくていいって」


 「うん。これがルカの字だから」


 カードを受付へ戻す。


 署名の数には入らない。


 誰かを説得するための名前でもない。


 ただ、今日ここへ来た一人の名前だった。


 中庭へ戻ると、オレリアンが柳の細い幹を支えていた。


 ウィロウは根元へ土を寄せる。


 まだ弱い。


 風から守る支柱が必要だ。


 だが、支えへ縛りつけすぎれば、幹は自分で強くなれない。


 少し揺れられる余裕を残して結ぶ。


 「どのくらいで大きくなりますか」


 オレリアンが聞いた。


 「何年もかかります」


 「待つんですね」


 「育つものは、だいたいそうです」


 教室の中では、エドワンが新入生の書く速度を待っている。


 プレシャスは、分からないと言った人の隣へ座っている。


 ミモザは、自分の人生を勝手に短くまとめるなと笑っている。


 瀬田は入口で、開室初日の確認書類を抱えている。


 それぞれ別の理由で、同じ場所にいる。


 知らない人生を、最後まで全部分かることはできない。


 何十年一緒に働いても、知らないことがある。


 毎日隣に座っても、言えない夜がある。


 好きになった人の怖さも、全部を代わりに背負うことはできない。


 それでも、立ち止まって声を聞くことはできる。


 ほんの一日だけ、その人の靴を借りるように想像することはできる。


 その人が受けている風を、自分の頬にも感じてみることはできる。


 海の方から春の風が吹いた。


 若い柳の葉が、一枚ずつ違う動きをした。


 けれど、どの葉も同じ枝につながり、同じ風の中で揺れていた。


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