#08. ラカンタ、大陸への第一歩。
セラタ港に到着し、父親が用意してくれた破氷船に乗って氷の海を渡り始めてから二か月。
エルナはついに長い船旅を終え、獣人大陸にたどり着くことができた。
「ついに獣人大陸に来たんだ。ザハード。あなたの故郷の土地だよ」
もちろんザハードの故郷は、彼女が足を踏み入れたラカンタ連邦よりもさらに南側に位置している場所だから、厳密に言えば故郷ではない。
しかし、長い氷の海を越え、かつてザハードが過ごしたかもしれないこの土地を踏みしめるのは、エルナにとって非常に特別なことだった。
足を踏み入れたばかりの港は、氷の海に隣接しているという特性のせいか、セラタと大きく変わらないように見えた。
しかし、よく見ると歩き回っている者たちは人間と獣人が入り交じっており、一風変わっていた。
「熊、猫、ウサギ……あの人は鳥? うーん……ワシ?」
ザハード以外の獣人を見るのは初めてだったが、ずっと昔に聞いた話の通り、さまざまな種族が見受けられた。
人族よりも少し大きな体格、身体を覆う毛皮。歩くたびに尻尾が動くのが神秘的だ。
大半が船員であるため、頑丈な体格に細かい傷が多いが、それに加えて獣人特有の野性味が混ざり合っている。
「似ているように見えても異国なんだな。本当に獣人大陸に来たんだ。あなたもいつかここにいたのだろうか? もし一緒に来ていたらどうなっていただろう?」
両目を閉じ、懐かしい顔を思い浮かべる。ザハードは寒がりだったから、全身を縮こまらせて一歩も動きたがらなかっただろう。
だが、エルナが早く行こうと手を引っ張れば、文句を言いながらも先頭に立って案内してくれたはずだ。
「お嬢さん。この港に来たらね、絶対ミード(蜂蜜酒)を飲まなくちゃいけないんだ。青熊族が作るミードは本当に甘くて美味しいからさ」
ザハードの声が自然と耳元で再生された。きっと楽しかったに違いない。
「楽しかったはずなのに」
吹き抜ける風が、懐かしい人の香りを運んできた。
乱れた髪がまるでザハードにぐしゃぐしゃと掻き乱されたかのようで、胸が締め付けられるように痛んだ。
「お嬢さん。本当に一人で旅するつもりかい? 下端港には大陸探検のために集まった人間の冒険者たちが結構いる。彼らとチームを組むのがいいんじゃないのか?」
気持ちを切り替えて荷造りを素早く終えたエルナが、港を背にして進もうとした時、破氷船の船長であるジェニュードが心配そうな声で彼女を引き止めた。
「心配しないでください、船長。この二か月間で船長も私の実力を十分に思い知ったでしょう? 下手に誰かと一緒の方がかえって不自由です」
「もちろん、よく分かっているさ。だがお嬢さん。ラカンタがいくら人族に好意的だといっても、あくまで氷の海がある青熊の統治領域だけだろう」
ラカンタ連邦連邦の端、貿易港が位置する永久凍土の地は、青い光を帯びた熊の獣人の領土だ。
青熊族は強大な力を持つ種族だが、性質が温和で開放的であるため、他の獣人たちに比べれば比較的人間とうまくやっていると聞いていた。
「まあ、うまくやっているといってもあくまで比較的の話だがね。熊ってやつは一度怒ったら後先考えないからな」
ザハードが青熊族に関する話を聞かせてくれたことを覚えている。そして、連邦に広く広がる他の部族についての話も。
「うん。全部覚えているよ。ザハードがくれた知識なんだから、心配することなんて何もない」
何よりも、エルナにはザハードがくれた「通行証」がある。これが一体何なのかはまだよく分からないが、ザハードが残してくれたのだから、きっと大きな助けになるはずだ。
ジェニュードの心配そうな表情に、エルナはにっこりと微笑んだ。彼女の笑みから答えを読み取った船長は深い溜息をつきながら言葉を続けた。
「お嬢さん。本当に気をつけろよ。万が一にもお嬢さんに何かあったら、俺の首が飛ぶだけじゃ済まないんだからな」
「もちろん、よく分かっていますよ。大丈夫です。何も問題ありませんから、船長は安心してハーメルンにお戻りください。また今度会いましょう」
ジェニュードは年に二回、破氷船に乗ってハーメルンとラカンタを行き来していると聞いていた。再会するのはどれほど早くても半年後。
エルナが未練なく手を振ると、ジェニュードは目を細めて彼女を見つめた後、エルナをきつく抱きしめた。
「お嬢さん。本当に気をつけろよ。知らない奴がキャンディをくれると言ってもついて行くなよ。顔ばかり取り得のありそうなチャラ男がでお茶でもしようと誘ってきたら、右ストレートを食らわせるんだ。いいな、絶対に忘れちゃ駄目だぞ」
「船長も……私を子ども扱いですか? そもそも獣人大陸なんですよ。人間の美意識に合う顔立ちの奴なんてそうそういるんですか?」
エルナはザハードを誰よりも愛しているが、だからといってザハードを異性としての視点で見たことはなかった。
そして今、この港を行き交う獣人たちを見ても、特に……。
エルナの答えに、ジェニュードが彼女の頭をポンポンと軽く叩きながら言葉を続けた。
「お嬢さんが本気でイケメンな獣人たちを見てないからそんなことが言えるんだ。あいつらは本当にすごいんだからな。あぁ、本当に心配だ」
「心配性ですね、船長。すぐ忘れるみたいですけど、これでも私、公爵令嬢ですよ? 絵画のように
美しい顔なんて見飽きるほど見てきましたから」
たとえ外見が美しくても、中身まで美しい人は極めて稀だ。貴族であれば美しいのが当然。
エルナは一生涯を美しいものに囲まれて生きてきたのだから、並み大抵のことでは彼女の心を揺さぶることはできない。
ジェニュードの腕から抜け出したエルナは、くすくす笑いながら再び別れの挨拶を交わした。
あっさりしすぎて無愛想にさえ感じられる挨拶に船員たちは名残惜しそうにしていたが、これが永遠の別れではないことを知っているため、笑顔で見送ってくれた。
「お嬢さん! 土産買ってこいよ!」
「獣人大陸の南側には珍しい食べ物が多いって言うから、食べて感想を聞かせてくれ! 持って帰ってきてくれたらもっといいけどさ!」
「男を連れて帰ってくるのは絶対に駄目だからな! 認めないからな!!」
「みんな……何を言ってるのやら」
船員たちを背にして前を向いて歩き出していたエルナは、背後から聞こえてくる温かい別れの言葉に耐え切れず、振り返って声を張り上げた。
「船に載せきれないほどのお土産を買ってきてあげるから、お土産を積むスペースでもたっぷり空けておいてください!」
最後に大きく手を振ったエルナは、一人で下端港をあとにした。
彼女の最初の目的地はラカンタ連邦国の首都バルカン。
バルカンまで行くには、青熊族が発行する身分証明書が必要だという。
「青熊族の族長様……お名前はタルだったかしら? 証明書の発行にはいくつかの試練が課されるって聞いたけど。いったいどんな試練なんだろう」
「すごく楽しみだ。試練が何であれ、やり遂げてみせるわ。見守っていてね、ザハード」




