#07. すでに遅く、すでに失ったもの。
昇った太陽が世界を明るく照らす時間。朝食の時間に家族と挨拶を済ませたエルナは、氷の海へと旅立つ支度を整え、タウンハウスの玄関前に立った。
もっとも、支度といっても大したものはなかった。
娘の行動パターンを熟知していたテオドールが、ずっと前からエルナのために獣人大陸へ向かえるよう準備してくれていたからだ。
「これはザハードの毛だ。獣人たちは戦場で仲間が亡くなったとき、身体の一部を持ち帰る風習があるそうだ」
聞いたことがあった。
獣人大陸では、故郷で死ねない者は永遠の安息を得られず、「異域の鬼」と呼ばれる幽霊となって永遠に故郷を探してさまよい歩くという。
「お前なら墓を掘り起こしてでも奴を連れ帰ろうとするだろうから、あらかじめ用意しておいた」
屋敷を立ち去る瞬間に、もう一度墓地へ行って墓を掘り起こし、遺骨を収めるつもりだったため、テオドールの言葉に肩をすくめるしかなかった。
「セラタ港までは一族の馬車で行きなさい。そうすれば組合長がお前を認識できるはずだから」
「馬車でなくても分かるのではないでしょうか? 私はお父様とそっくりですから」
実はエルナは、母親のビオラを生き写したような顔立ちをしていた。
しかし、黒髪と黄金色の瞳は父親のテオドールから受け継いだうえにあまりにも特徴的だったため、テオドールにより似ていると言われることが多かった。
エルナの答えにテオドールが苦笑いを浮かべ、エルナの肩を抱き寄せた。
「ハーメルンにいる時だけでも、お前の足取りが分かるようにしておくれ。獣人大陸に渡ったら、いつ戻ってくるか分からないのだから」
「お父様……」
できれば一族の馬車は使いたくないと思っていた。
獣人大陸に足を踏み入れる瞬間、エルナは公爵令嬢ではなく一人の冒険家にすぎない。
一族の威光が消え去った場所にどのような変数潜んでいるか分からないため、見慣れた土地のうちに自力で調べてみたかったからだ。
しかし、我が子を心配する親の心情も理解できた。だからこそエルナは両親の好意を受け入れ、馬車に乗って港へ向かうことにした。
遅くとも必ず戻ると挨拶を交わした後、エルナは軽やかな足取りで歩みを進めた。
一族の馬車の向こうに見慣れた馬車が停まっていることには気づいていた。
もはやその馬車がエルナの瞳に映ることはなく、馬車から降りて駆け寄ってくる人物すら目に入っていなかった。
だからこそ、何者かが自分を引き止めた時、エルナは強い不快感を覚えて手を振り払った。
「女性の腕をみだりに掴むとは。どなたか存じませぬが、極めて卑俗なお方のようですね」
エルナの拒絶に、彼女の手を掴んだ無頼漢であり元夫であったカメルは、信じられないという表情でエルナを見つめながら呟いた。
「エルナ? 何言ってるんだ? 僕は君の夫だぞ。妻の手を掴むのが……」
「すべての人が見守る前で私に屈辱を与えたあなたが、今さら夫のふりをするつもりですか?」
「エルナ。誤解だ! あれは……」
「誤解だろうと真実だろうと関係ありません。知りたくもありません」
カメルの言葉を遮ったエルナは、もう関心はないと言わばかりに身を翻した。
「聖女に土下座をした瞬間から、私はもはや王妃ではなく、この国に価値ある人間でもありません。ですから陛下は、心置きなく聖女とお過ごしください」
一片の感情も残されていないエルナの姿に、カメルの表情が歪んだ。
これで終わらせるわけにはいかない。エルナはハーメルンの王妃であり、彼の妻なのだ。
「エルナ・フォン・ハーメルン。止まれ。これは命令だ」
カメルの低い声に、前へ進みかけていたエルナが足を止めた。彼女の黄金色の瞳が暗い色を帯びた。エルナの赤い唇が彼の言葉をなぞった。
「命令?」
「そうだ、お前は俺の妻だ。離婚は断じて認めない。王妃としての職務を放棄するつもりか?」
「そのつもりだとしたらどうするの?」
「何……?」
「どうするのかって聞いてるの。あなたが私を無理やり王城に連れ戻すのか?」
「……」
「できるものならやってみなさい。あなたが私を強引に連れ戻すのが先か、王宮が『エアルテ』のエサになるのが先か。勝負してみる?」
「……っ」
いつの間にかエルナの背後には、巨大な何かが立っていた。それが何なのか、どこから来たのかは誰も分からない。
魔獣の侵攻当時、エルナが召喚した異世界の幻獣。
それは知能も理性も持たず、ひたすらエルナの言葉にだけ従う破壊的な怪物だった。
北方の小国が魔獣の侵攻を防ぎきれたのも、幻獣エアルテが魔獣を片っ端から喰らい尽くしたからであり、聖女の威光の下でも王妃である彼女が大きな問題なく生き延びることができた理由もまた、破滅の幻獣を召喚する幻獣使いだからにほかならなかった。
蒼白になったカメルが一歩後ろに下ろした。
エルナは興味を失った表情で身を翻し、最後に警告した。
「二度と私の行く手を遮らないでください。私は今、あなた風情に人生を縛られていたそのすべての時間の自分を殺してしまいたいくらい、腹が立っているのですから」
言い終えると、エルナはテオドールが用意した馬車に身を乗り込んだ。
馬車が公爵家のタウンハウスを離れるその瞬間まで、カメルはエルナを引き止めることができなかった。
馬車に乗ったエルナはカメルに関する記憶を完全に忘れ去り、父親が差し出してくれたザハードの毛を大切に握りしめた。
「もう少し待って、ザハード。すぐに連れて行ってあげるから」
エルナの長く儚かった愛は、跡形もなく消え去った。
一人残されたカメルは、いつまでもエルナが去ったその場所に立ち尽くしていた。
ひどく、長い間。




