#06. 待ち続ける価値。
エルナを追わなければならない。だが、動かなくなった足が一歩も動かなかった。エルナの鼻歌すら途絶えた宴会場には、重苦しい静寂だけが立ちこめていた。
「王妃殿下が……狂われたのか?」
静寂を破るように聞こえてきた誰かの呟きに、カメルははっと顔を上げ、エルナを追って走り出した。
しかし、ほんのその一瞬の間にどこへ行ってしまったのか、エルナは広々とした回廊のどこにも見当たらなかった。
「宴は中断だ。王妃宮へ向かう。誰でもいい、直ちにエルナを捕まえろ!」
カメルは急いでエルナのいるはずの王妃宮へと向かった。しかし、王妃宮のどこにもエルナの痕跡はなかった。
「どうして……?」
ぼんやりと王妃宮の前に立ち尽くしていたカメルは、一か月前、聖女派の貴族たちが彼女を別宮へ追いやったという事実を思い出した。
別宮とはいっても、カモルの母親である側妃が起居していた宮であり、正妃が亡くなってから主のいなくなった宮というだけで、特別問題になる場所ではなかった。
しかし、正妃であるエルナがその宮に起居することは問題であり、王妃派の筆頭貴族でありエルナの父親であるオルテンス公爵が強く非難していたことが思い出された。
「……くそっ」
正妃を冷遇することは国の威信にも関わる。魔獣戦争の最前線に立ち、命を懸けて戦ったエルナをこのように扱ってはならない。
数多くの嘆願が寄せられ、カメル自身もこんなことではいけないと考えていた。
しかし、カメルには処理しなければならない公務が山ほどあった。滅亡した王国に巣食う魔獣たちは虎視眈々とハーメルンを狙っており、聖女を独占するなとあらゆる国から圧力がかけられた。
「聖女を独占しているだと? 馬鹿げたデタラメを……」
そもそもセレンは、ハーメルンが「借り受けた」期限付きの聖女だった。
貸出期間はわずか五年。あと二年さえ経てばセレンはいなくなるし、そうなればエルナの問題はすべて解決するのだから、エルナに関する問題はすべて後回しにしてしまったのだ。
もう少し、ほんのもう少しだけ待ってくれればよかった。エルナなら待っていてくれると信じていた。
信じていたのに。
冷たく凍りついた王妃宮が、宴会場を後にするエルナの姿と重なって見えた。急いで別宮へと向かったが、すでにそこにエルナの姿はなかった。
いったいどのようなつもりで王妃を王宮から追い出したのかと近衛騎士たちを問い詰めてもみた。しかし近衛騎士たちは「王妃に見える人物は城の外へ出ていない」という言い訳を口にするだけだった。
「エルナ……本当に発つつもりだったのか? そんなに辛かったなら、王妃でいることすら辛かったなら、そう言ってくれればよかったのに」
辛いと。これ以上は耐えられないと、一言だけでも言ってくれたなら、カメルはエルナの元へ駆けつけていただろう。彼女のか弱い肩を抱きしめ、慰めてやったはずだ。
どうして言ってくれなかったのか? 君が言ってさえくれたら……私は。
遅すぎた後悔に口の中がひどく苦かった。だが、役立たずの近衛騎士たちの中から、比較的もっともらしい話を一つ耳にした。
エルナと呼ばれる一人の令嬢が、本家へ向かったという話だった。
「エルナはまだこの国にいる」
エルナならすぐにこの国を去るものだと思っていたが、幸いにもここに留まってくれたようだ。エルナが残っていてくれたのなら、まだ希望はある。
カメルは今すぐオルテンス公爵家へと向かいたい気持ちを必死に抑え込んだ。
いかに国王といえど、夜遅くに臣下の屋敷を訪ねるのは礼儀に反するし、オルテンス公爵が素直に通してくれるはずもなかったからだ。
やけに長い夜だった。夜遅くから降り始めた雨は夜通し止む気配を見せず、夜明けになってようやくどうにか止み、真っ青な世界を見せてくれた。
まるで雨など降っていなかったかのように雲一つない晴れ渡った空の日だった。
カメルは胸を焦がす思いをじっとこらえ、最低限の礼儀を守れる時間にオルテンス公爵家へと向かった。かなり早い朝であるにもかかわらず、公爵家の正門には頑丈な馬車が止められていた。
行く先が遠いのか、六頭立ての馬車は非常に大きく頑丈に見えた。王室ですら滅多に使用できない高価な馬車の佇まいに、公爵家の財力が際立っていた。
公爵家の正門をしっかりと塞ぐ馬車を見つめることしばし、タウンハウスの門の向こうからカメルが切実に探し求めていた人物が姿を現した。
長い髪をひとつにきつく結び、平民と変わらない身なりをしたエルナは、大きくはないトランクを一つ手に持ったまま公爵夫妻の前に立っていた。
「ああ……エルナ」
ほんの一日見かけなかっただけなのに、エルナの姿を目にした途端に胸が焦がれる思いがした。
国王とは、本能の赴くままに動いてはならない存在だ。
しかし今日ばかりは、この瞬間ばかりは愛する者の元へ駆け出したい衝動に駆られた。
だからこそカメルは、タウンハウスの正門を通り過ぎてエルナの元へと走った。
傷ついた彼女を抱きしめて謝りたかった。自分が愛しているのは君だけなのだと伝えたかった。
いつから走っていたのか覚えていなかった。カメルはひたすらエルナに向かって走った。家族との抱擁を終えたエルナは馬車へと歩みを進めていた。
視線が絡み合ったのはほんの刹那。その場で足を止めたカメルはエルナに向かって両腕を差し出した。
「エルナ! 君を迎えに……」
カメルの言葉は最後まで続かなかった。彼の視界の端を、長い黒髪がかすめて通り過ぎていった。
まるでカメルなど見えていないかのように。
エルナはカメルを通り過ぎて歩みを進めた。
思考が停止した。カメルを通り過ぎたエルナは、そのまま馬車へと向かって歩いていた。
だめだ。このまま彼女を逃してはならない。カメルは彼女が発たんと手を伸ばし、エルナの腕を掴んだ。エルナの黄金色の瞳にカメルが映り込んだ。
安堵の息を漏らしたカメルが彼女の名を呼ぼうとしたその瞬間だった。
――バシッ!
乾いた音とともに、カメルから彼女の手が振り払われた。
驚いたカメルがエルナを見上げると、氷よりも冷たく冷え切ったエルナの瞳がカメルをとらえた。
聞くだけで背筋が凍るような声が耳元に響き渡った。
「女性の腕をみだりに掴むとは。どなたか存じませぬが、極めて卑俗なお方のようですね」




