#09. 公爵令嬢にとって山登りとは難しいものだから。
降る雪が痛いほど白かった。港を離れてから五日。ジェニュードの話によれば、青熊族が住む集落は港からも約三日ほどの距離にある雪山の上にあるという。
毎日数多くの冒険者たちが行き来しているから、彼らに従って歩けば簡単にたどり着けるとも聞いた。
なのに……。
エルナは無言で周囲を見回した。
前を見ても雪、後ろを見ても雪。横を見ても雪。上を見ても雪。
どこを見ても雪だけの世界。木立でもあれば現在地の手がかりにもなるだろうが、石でできた山はどこを見ても似たり寄ったりだった。
ただでさえ見慣れない山の中、降り続く雪が周囲を白く煙らせていて、どこがどこだか分からない。
「ここは一体……どこなのだろう」
エルナはぼんやりと手元の地図を眺めた。
彼女が持っている地図は下端港で購入した、冒険者のために作られた青熊族のガイドマップだ。地図通りに道を登り、ひたすら一本道を歩いてきたのだから、間違えるはずがない。
間違えるはずがないという一念のもと、ひたすら前へ歩き続けた。だが、ここまで来るとエルナも認めざるを得なかった。
「一体どこで道を間違えたのよ?! ここはどこなのよ!!」
誰もいない空間に響いた悲鳴に、厚く積もった雪の塊がわずかに揺れた。
エルナは頭を抱えたままその場にしゃがみ込んだ。
「嘘でしょう。このまま遭難して飢え死にしたりしないわよね?」
――冒険とは数多くの変数の集合体だから、いつどこでどんな変事が起こるか分からない。事前準備ほど生存率を高めるものはない。
ザハードはエルナが冒険の想像を膨らませるたびに、笑いながらそう助言してくれた。
だからこそエルナは旅立つ時、遭難に備えた非常食や応急キットなどをしっかりと用意しておいた。
エルナが持っている旅行カバンはオルテンス公爵家の魔道具の中でも一番人気の収納カバンで、公爵令嬢らしく最高級品のカバンを持ち歩いていた。
カバンの中には雪山でも十分に使えるほど保温性の高いテントもあり、一か月ほど優雅に過ごせる保存食も備わっていた。簡易ベッドや救護用品もあるにはあるが……。
「もし一か月間も道を見つけられなかったらどうしよう?」
遭難した時は最悪の状況を想定し、生存率が一番高い方向へ動くのが良い。ザハードの助言を思い出してエルナは眉をひそめた。
「ふう……よし。まずは現在地がどこなのか仮定してみよう」
まずは動かずに冷静に考えるのがいいだろう。冷静になるためにはお茶の一杯が必須だ。
エルナはできるだけ落ち着こうと努め、平らな地形を探してテントを張り始めた。
「私はここ五日間、山をずっと登ってきた。今も下を見下ろせば気が遠くなるほどの高さじゃない?」
一日前までまばらに木々や極地帯に育つ植物を見かけた。つまり、いざとなれば山を下りればそれまでのことだ。
「昨日今日と雪が猛烈に吹き荒れていたから、視界が悪くて道を勘違いしたのかもしれない」
振り返ってみれば、整備された道にしてはあまりにも険しすぎた気がする。
エルナなら魔法を使うかエアルテの力を借りて登ることもできたが、普通の冒険者が登るにはかなり荷が重いレベルだった。
ただ……。
「人が行き来した痕跡はあった。もしかして私が登った道は、人族ではなく獣人族が往来する道だったんじゃないかしら?」
あり得る話だ。エルナは確かに誰かの痕跡をたどって道を登ってきたのだから。
もしそうだとしたら、青熊族の集落までそう遠くないかもしれない。
テントをしっかりと固定したエルナはテントの中に入り、簡易テーブルとベッドを設置して、ティーカップとヤカンを取り出した。
「コーヒーはどこにあったっけ?」
カバンからコーヒー豆を取り出し、ミルで挽き始めた。
「ふふ。私もすっかり船員染みてきたわね」
昔のエルナといえば、公爵令嬢らしく最高級の紅茶を楽しんでいたものだ。
しかし、船員たちに貴族令嬢だと思われたくなくて彼らの食事に合わせるうちに、今では紅茶よりもコーヒーのほうが口に合うようになっていた。
特に焙煎に失敗して安く売られている質の低いコーヒーにラム酒を少しだけ混ぜて熱々で飲むと、頭がクラクラするほど苦くもあり、アルコールの熱さが体に残って良い刺激になった。
「うーん、これこれ。ふう、生き返るわ」
食道を伝って流れる熱いアルコールのおかげで、不安に揺らいでいた心が急速に落ち着いていった。外から吹き付ける風がテントを激しく揺らしている。
だが、エルナの魔法で守られている内部は少し騒がしいだけで、静かで居心地がよかった。
コーヒーの一杯とともに不安を洗い流したエルナは、椅子に深く身を預けた。
「せっかくテントを張ったんだし、今日はここで休んで、明日また旅を再開することに……」
のんびりとしたことを考えながらコーヒーを口に含んだ瞬間、エルナの耳に不穏な音が飛び込んできた。
[追え……!!]
[逃すな! 必ず捕まえろ!]
[あっちへ向かったぞ!]
誰かを追うような切迫した声と荒々しい罵声。
どれほど荒々しく駆け抜けているのか、地鳴りのせいで雪崩が起きそうなほどだった。
エルナの防御魔法は優秀だが、雪崩が起きてテントが埋まってしまっては脱出が容易ではないはずだ。
エルナの白い額に青筋が浮き出た。せっかくテントを張り、休息の準備を整えてコーヒーを一口含んだところなのに。
「こんな山の途中で、対策もなく走り回る頭のイカれた無頼漢はどこのどいつよ?」
雪崩が起きる前に事件を終結させたほうがよさそうだ。
そう決意したエルナは、さっと席を立ってテントの外へと出た。




