#10. 白い狐。
テントに入っていたほんの少しの間に、降り続く雪は一層激しさを増していた。視界を遮る不透明な白い幕に、思わず眉がひそめられた。
「こんなに雪がしんしんと降っているのに大声を出したりして。一体何をやっているのよ? 獣人たちは雪崩なんて何とも思わないわけ?」
彼らの体格を考えれば、並大抵の雪崩ではかすり傷一つ負わなそうではあるが。
だが、獣人たちが無事だからといって山に住む他の動物たちまで無事なわけがない。
(獣人たちは自然を愛し、命を尊く重んじると聞いていたのに。その間に変わってしまったとでもいうのかしら?)
眉をひそめたエルナは、怒号が聞こえてくる方向へと急いで足を進めた。
幸い、怒号の聞こえる方は比較的緩やかな山道だったため、移動するのは難しくなかった。怒号はかなり近い場所から聞こえてくる。
もうすぐ何かに遭遇しそうだが……。
距離を推測しながら周囲を警戒していた瞬間だった。
「……!」
一面の真っ白な世界の中から、黒赤色の何かが飛び出してきた。
驚いたエルナはすぐに後ろに下がり、護身用の短剣を取り出した。
彼女の前に現れたのは、彼女の腕の長さほどしかない小柄な動物だった。
本来の毛の色が分からないほど全身が赤く染まったその何者かは、一見すると子犬のように見えたが、子犬にしては尻尾が非常に大きく長かった。
(子犬じゃないわね。一体何?)
目を細めて目の前の動物をじっくりと確認したエルナは、小さく息を呑んだ。この子は子犬ではなく……。
(狐!)
しかも毛の色が白い狐だ! ハーメルンには狐が生息していないため、エルナは図鑑でしか狐を見たことがなかった。
いや、厳密に言えばよく見かけてはいたが、“動物”としての狐を生で見るのはこれが初めてなのだ。
エルナを警戒するように釣り上がった瞳の色は、ルビーを埋め込んだかのような赤色。
血に染まっているにもかかわらず逆立った毛皮が、どこか切なく感じられた。
狐は背中と脇腹に長い裂傷を負っていた。
獣人にやられたのか、鋭い爪によって引き裂かれた傷からは、まだ赤い血がドクドクと流れ出していた。
(獣人たちが追っているのはこの子なの?)
野生動物の狩り自体は珍しいことではないが、それにしてはどうもしっくりこない気がした。
それもそのはず、エルナの目の前にいる狐は食べるにはあまりにも小さく、毛皮にするにも皮革の損傷率が高すぎる。
非常に非効率的な狩りだ。それなのに追われている理由は何だろう。
「……どうしよう」
ザハードは野生動物をむやみに保護してはならないと言っていた。
一度人間の手に慣れてしまうと自然へ戻るのが難しくなるし、力が弱くて淘汰されることもまた自然の摂理だからだ。
だから、見なかったことにしてやり過ごすのがいい。だが……。
(他の動物でもなく狐だもの)
警戒するようにピンと立った尻尾が、ザハードの尻尾を彷彿とさせた。悩みは長くなかった。
視線を合わせるように地面に座り込んだエルナは、短剣を下ろして狐に手を伸ばした。
「助けてあげる。こっちに来て」
言うまでもないことだが、狐はエルナに近づいてこなかった。むしろ歯を剥き出して威嚇するだけだ。
どうすれば自分を信じてくれるだろうか。エルナが悩んでいた時だった。
「っ」
山の上から痛いほど強い風が吹きつけてきた。エルナの体が揺らぐほど強く吹きつけた風は、狐の体を宙に浮かかせた。
驚いたエルナは風魔法を使い、狐を自分のほうへと引き寄せた。かろうじて狐を抱き止めることに成功した。ただし……。
「ちょっと、っ。やめて。あなたを助けようとしてるのよ!」
エルナの腕の中に抱かれたと気づくやいなや、狐が猛烈に暴れ始めた。
出血と飢えのせいか攻撃をかわすのは難しくなかったが、こうも暴れられては治療をしてやれない。
(いっそ気絶させる? だめ、こんな状態で意識を失ったら死んでしまうかもしれない)
ただでさえ出血が止まらなくて危険なのに、こんなに激しく動いては……。
(困ったわね。一体どうすればこの子が私を信じて……くっ!)
困惑した表情で何とか狐を制圧しようとした時だった。その隙を見逃さず、狐がエルナの首を狙って爪を振り下ろした。
避けるために反射的に体を後ろに引くと同時に、首にかけていたペンダントから鋭い音が響いた。
「あっ……!」
驚いたエルナは狐を地面に下ろし、慌ててペンダントを確認した。幸い、ペンダントには大きな傷はついていなかった。
(よかった……)
昨日今日と風があまりにも強く吹くものだから、服の中にしまっておいたのだ。本当によかったと心から思った。
安堵の溜息をつくのもつかし、助けようとしただけなのに逆に危害を加えられそうになり、怒りがこみ上げてきた。
(だから野生動物なんて助けちゃいけないって言ってたのかしら?)
やっぱりザハードの言うことに間違いなんて一つもない。
ここまで拒絶するなら、一人でも大丈夫だろう。エルナは苛立ちながら立ち上がろうとした。いや、彼女が立ち上がろうとしたその瞬間だった。
「えっ? え?」
さっきまで激しくエルナを拒絶していた狐が、ポロポロと涙を流し始めた。驚くべきことはそれだけではなかった。
いったい何がそんなに悔しいのか、大きな瞳いっぱいに涙を浮かべた狐は、エルナが反応する間もなく彼女の腕の中に飛び込んできたではないか。
「うわ、っと」
反射的に狐を抱き締めると、狐はエルナの胸元に顔をうずめ、気力が尽きたのかピタリと動きを止めた。
「急に何なの……?!」




