#03. 守れなかった約束は。
「ザハードは死んだ」
聞こえてきた声は、水を吸った綿のように重く沈んでいた。父親が吐き出した言葉の意味が理解できなかった。
「お父様も……いったい何をそんな冗談を言っているの。ザハードが死ぬわけないじゃない」
エルナが懸命に口元を引きつらせて答えた。明らかに微笑んでいるのに、わなわたと震える目元は、少しでも油断すれば涙を零し落としてしまいそうだった。
強く否定する娘の姿に、テオドールの瞳が切なく曇った。
「……エルナ。ザハードは死ぬ直前までお前の前では素振も見せなかった。彼はそういう男だからな。エルナ。ザハードは、ずいぶん昔に闘技場から救い出した獣人の奴隷だった」
聞いたこともない過去に、エルナは見開いた目を大きくした。では、ザハードが故郷に帰れなかったのは。
「ザハードは我が家の奴隷だから故郷に帰れなかったの?」
「それは違う。彼はいつでも奴隷生活を清算することができた。だが、彼は故郷には帰れないと言っていたよ。理由は分からない。ただ、自分はどうせ長く生きられないから、愛するお前の未来を見守りたいと。ここに残ったんだ」
父親の声が耳によく入ってこなかった。確かに体は現実にあるのに、精神は過去のどこかをさまよっているようだった。
「だけどお嬢様。俺は行けない。行かないのではなく、行けないんだ」
「そうだな、それはいい。お嬢様、俺を連れていってくれ。お嬢様ならきっと連れていってくれるはずだからな。約束だぞ?」
まるで昨日聞いたかのように鮮明な声が耳元に響いた。エルナは即座に現実を否定した。そんなはずがない。ザハードが死んだりするわけがないじゃない。
「ザハードは獣人でしょう。長く生きられないわけがないじゃない。百年は余裕で生きるし、人間の数十倍に達する強靭な肉体を持った、世界最強と称される獣人なのに」
「……ハーメルンで長年奴隷生活を送っていたせいで、彼の体はボロボロだった。お前が成人するまで生き延びたのが奇跡だったほどだ」
嘘だ。嘘に決まっている。頭の中が真っ白に染まる。そんなはずはない。ザハードはエルナがお嫁に行くその日も祝福してくれた。
もう王妃様だからとむやみに呼べないと、悪戯っぽく笑っていた。片方しか残っていない足は不自由そうに見えたが、それはただ歳をとったからだけだ、大したことないと笑っていたじゃない。
「お父様。本当に面白くないわ。そんなこと言わないで。お嫁に行った日以来会えなかったけど、あの日のザハードは本当に元気そうだったもの」
「エルナ。ザハードはお前を実の娘のように可愛がっていた。もしかすると私よりもずっと、お前の幸せを願っていたのかもしれん。お前がこれ以上傷つく前に連れて帰らなければならないと、強く主張していたからな」
そんなはずがない。ザハードはいつも私を応援してくれたわ。私ならできるって……。
いつだったか、王妃教育があまりにも辛くてザハードに愚痴をこぼしたことがあった。いっそ全部放り出してザハードと一緒に逃げ出してやるって。
そんな時、ザハードはあの大きな手でエルナの髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら言ったのだ。
「そんなこと言うなよ。お嬢様は王子様と結婚するって約束しただろ? お嬢様は約束を守る子だからさ。待ってくれている人がいる場所へ、しっかり頑張っていかないとな」
「だけどザハード……」
「お嬢様ならできるさ。大丈夫だ。お嬢様は幸せになれる。お嬢様は誰が何と言おうと最高なんだから」
大丈夫だ。できるよ。お前は約束を守る子なんだから。
ザハードの言葉が頭の中をぐるぐると巡った。動きを止めたエルナの姿に、テオドールは彼女を応接室ではなく自分の書斎へと連れていった。さっきまで晴れていた夜空に黒い雲が立ち込め始めていた。
ぼんやりと父親の後をついていくことどれくらいだっただろうか。書斎のソファに座ったエルナに、テオドールがきれいに折られた手紙とペンダントを手渡した。
「ザハードがお前に残した物だ。いつかお前がここに帰ってきたなら。もし自分を捜すようなことがあれば渡してくれと頼まれていた」
「ザハードが……」
震える手で手紙を開いた。獣人は身体構造上、文字を書くのが得意ではない。無骨で拙い文字は子供が書いたかのようにめちゃくちゃだったが、それでも温かかった。
-お嬢様。約束を守れなくてごめんな。
お前と一緒に冒険をすることはできなくなっちまったが、それでもお前が獣人の大陸に行きたいならこのペンダントを使え。
この通行証があれば比較的自由に歩き回れるはずだ。
お嬢様。辛かったら逃げてもいいんだぞ。一度の失敗なんて大したことないさ。
正直、お嬢様みたいな素敵な女性にとって国王なんてあまりにも格が落ちる男だったろ?
あんな奴は忘れて、自由で幸せに生きろ。
お嬢様はどこへでも行けるし、どこでだって幸せになれるんだから。
お嬢様。エルナ。大精霊が、お前の傍らに留まりますように-
心臓が激しく打った。震える手が、色あせた手紙を思わずクシャクシャと握りしめた。手紙がしわくちゃになったことにハッと気づき、エルナは再び手紙を広げようとした。
手がブルブルと震えてなかなかきれいに伸びない。
「お父様……ザハードのお墓はどこにあるの? それを見るまで、私はザハードが死んだなんて信じないから」
「エルナ……」
「連れていって。今すぐ絶対に!!!」
テオドールの衣の裾を掴んだエルナが、震える声で叫んだ。宴会場でも気高い笑みを浮かべていた娘だった。
十年の王妃教育で完璧な感情制御を身につけた娘が、これほどまでに乱れているのはいったいどれぶりだろうか。
もしこの感情が喜びであったなら、どれほどよかったことか――。
娘の願いに、テオドールがゆっくりと立ち上がった。
馬車に乗って向かったのは、郊外にある小さな共同墓地だった。
エルナが共同墓地に足を踏み入れた時、重く垂れ込めていた黒い雲から一粒、また一粒と雨粒が落ちてきた。
雨粒に全身が濡れていくのも構わずにたどり着いた場所には、小さな小さな墓標が建てられていた。
[ザハード・カン、ここに眠る。]
「……墓なんて必要ない。火葬してどこかにまいてくれと言われたが、そうするわけにはいかんかった。彼は何十年も我が家を守ってくれた大切な使用人だったからな」
ザハード。本当に、死んじゃったの?
あなたとした約束も守れなかったのに。
本当に……もう二度と会えないの?
降り注ぐ雨粒に墓標が黒く染まっていく。
振り返ってみれば、エルナの記憶の中にはいつもザハードがいた。嬉しい時も悲しい時も、彼は傍にいてくれた。
ただの使用人などではなかった。彼女にとっては父親であり、兄であり、友人であり、かけがえのない大切な人だった。
「お嬢様。大切なものほど、指の隙間から簡単にすり抜けていっちまうもんだ。だからお嬢様は、大切なものが傍にいる時は、惜しみなく愛を与えてやるんだぞ」
漠然と、そこにいるものだと思っていた。いつものようにエルナを迎えてくれるものだと思っていた。
「失敗した」と戻ってきたって、ザハードなら笑いながら大丈夫だと言ってくれると信じていた。
「ザハード。ザハード……」
雨水に混じって涙が流れ落ちた。どれほど辛くても泣かないように教育されたのに。
愛が壊れ去るその瞬間ですら涙は出なかったのに。我慢しに我慢した涙は、ダムが決壊したようにあふれ出た。
たとえ遅くなっても、約束を果たせると思っていた。
大切なものは、あまりにもたやすく指の隙間からすり抜けていってしまうものなのに。




