#02. 幼い頃の夢。
実に久しぶりに公爵家に馬車を走らせたエルナは、馬車の奥深くへと身を預けながら今後のことに思いを馳せた。当然のことながら、王国の行く末や家に関する事柄などではなかった。
すでにこの王国は彼女にとって「排除すべき対象」にすぎなかったからだ。
「今の状態で氷の海を渡るのは難しいわよね。となると、やっぱりダンジョンかしら? ふふ、考えてみれば子供の頃は冒険者になりたかったんだっけ」
オルテンス家は長男アレンドと次男アルミン、そして長女エリシャとエルナまで。かなりの数の子供がいる家系だったため、次女のエルナは比較的自由奔放に育つことができた。
また、オルテンス家は領地に巨大な貿易港を持つ特殊な貴族でもあった。だからこそ他の貴族よりも権威意識が低く、他国民に対する拒絶感がなかった。
他国民である家庭教師は、エルナが勉強したくないと駄々をこねる時決まって自国の話をしてくれた。擦ると願いを叶えてくれるランプ、千の夜に一度だけ咲く花、長い砂漠を越えてこそ現れる理想郷――。
他国の話はどんなものでも楽しく、胸を躍らせた。
特に数々の冒険を経て公爵家に定住した使用人が多かったため、幼い頃のエルナは必ず冒険者になると心に誓っていたのだった。
どれほど自由奔放に育ったとしても、公爵令嬢が冒険者になれるわけがないというのに。
「子供の頃の私は可愛かったな。もし私が冒険者になっていたらどうなっていただろう」
幼い頃にはすぐに思い浮かんだ未来の自分が、大人になった今は描き出せない。長年の王妃教育によって想像力が退化したせいだろうか。
「そういえばザハードと一緒に大陸に赴くという約束もしたんだっけ。ふふ。今、一緒に行こうと言ったら、行ってくれるかな?」
エルナは懐かしそうな顔で封印していた昔の記憶を引っ張り出した。
ザハードはハーメルンでは非常に珍しい、氷の海を渡ってきた獣人だった。どうして獣人がハーメルンまでやって来るに至ったのかは分からなかった。
しかし彼はエルナが生まれる前からオルテンス家の庭師であり、エルナが一番好きな人でもあった。
彼は本当に話上手な人で、ザハードの話を聞いているとエルナは自分が獣人の大陸にいるような錯覚さえ覚えるほどだった。
「獣人の大陸って本当に素敵なところみたいね。ザハード。ザハードは故郷に帰りたいと思わないの?」
「そりゃあ帰りたいさ。だがお嬢様、獣人の大陸は本当に遠いんだ。砕氷船に乗って息すら凍りつく海を二か月以上渡って、ようやく到着するからな」
「でもザハードはもう一度海を渡ってハーメルンまで来たじゃない。お父様は『はじめが肝心』って言ってたよ。ザハードはもう始めたんだから、二回目は簡単なんじゃない?」
「はは。そうだな。故郷で眠りにつくことほど幸せなことはないからな」
ザハードは豪快な笑みを浮かべながらエルナの頭を撫でてくれた。ふっくらとした肉球のある彼の手は荒れていたけれど温かくて、エルナは髪がぐしゃぐしゃになってもその温もりを好んでいた。
「だがお嬢様。俺は行けない。行かないのではなく、行けないんだ」
「どうして? 足のせいなの? ザハードの足は遠くまで走れないから?」
「それも理由の一つだな」
そう答えたザハードの顔があまりにも普段と違って悲しそうで、エルナは彼の手を握りしめて叫んだのだった。
「それならザハード。私が連れていってあげる」
「お嬢様が?」
「そう! 私がもっと勉強して、大人になって。ザハードと一緒に冒険をするの! 氷の海の奥深く眠る深海神殿にも行くし、千年の間誰も攻略できなかったという大迷宮にも行くんだ! そしてザハードの故郷に行って、そうやって一緒に昼寝をするの」
目を輝かせて叫ぶエルナの姿をぽかんと見つめていたザハードの顔が今でも鮮明だ。何がそんなに面白かったのか、ザハードは涙まで流して大笑いすると、エルナを強く抱きしめた。
「あははは! そうだな、それはいい。お嬢様、俺を連れていってくれ。お嬢様ならきっと連れていってくれるはずだからな。約束だぞ?」
「もちろん! 私は約束を守る良い子だもん!」
当時は彼がなぜ笑っているのか、どうして獣人の大陸に行けないのか分からなかった。ただ、ザハードの柔らかな毛並みが心地よくて、彼がもう悲しそうに見えなかったのが嬉しかった。
「……約束したのに、守れなかったね」
エルナが王太子妃に内定したのはその年の冬。すでに約束を忘れていたエルナは真っ先にザハードのところへ行き、カメルと婚約することになったと自慢した。
ザハードは自分のことのように誇らしげに喜び、祝福してくれたっけ。
あの時ザハードはどんな思いでエルナの婚約を祝福してくれたのだろうか。幼い子供の虚しすぎる約束を信じなかったからこそ祝福できたのだろうか。
それとも――。
「遅すぎる約束だけど、今からでも君と一緒にいけるかな? ザハード」
約束してから十三年が過ぎてしまったが、獣人は人間よりも長生きだから今からでも旅立てるはずだ。そうだ、今度こそ一緒に旅に出るんだ。
ザハードと一緒なら両親も安心してエルナを送り出してくれるだろう。
そう信じていた。
「エルナ。もうこの国に対する未練はないのか?」
タウンハウスに足を踏み入れた瞬間、あらかじめ出迎えていたオルテンス公爵テオドールが、簡素な身なりの娘を見つめながら尋ねた。
父親の単刀直入な質問にエルナはにっこりと微笑んだ。
「はい。この時間をもって私はこの国を去ります」
「立つ時は立つにしても、お茶一杯くらいは飲んでいけ」
「ええっ? そんな時間ありませんよ。行くべき道が遠いんですから」
「どれほど遠くに行くつもりだ? お前ならすでに目的地を決めているのだろう? どこに行くつもりなんだ」
「獣人の大陸に行こうと思って」
エルナの答えに、彼女を応接室へと連れていっていたテオドールが歩みを止めた。エルナとそっくりな黄金色の瞳が娘の姿を捉えた。
「……なぜよりによって獣人の大陸なのだ?」
「昔、ザハードと約束したんです。大人になったら獣人の大陸に連れていってあげるって。そういう意味でお父様。私、ザハードと一緒に獣人の大陸に……お父様?」
エルナの言葉が続くにつれて、テオドールの顔が微かに歪んだ。悲しみ、あるいは切なさをこらえているかのようなその姿に言葉を詰まらせたエルナがテオドールを呼んだ。
「エルナ。ザハードは死んだ」
エルナの手を固く握り締めながら、テオドールが答えた。




