#38. 水が憎らしい一日。
肌に触れる水の温度がひどく冷たかった。
確かにグレンと会話をしていたはずなのに。どうして私は水の中にいるのだろう。
気管をつたう水に息が詰まった。
酸素を求め必死にもがいたが、真っ黒な水の中ではどこが上でどこが下なのか見分けがつかなかった。
(……あり得ない。まさか私、こんなふうに死ぬの?)
身動きすら取れないほどの速い流速の中で、エルナにできるのはどこか分からない場所へとひたすら流されていくことだけだった。
エルナは数百体の魔獣に包囲されたときも生き残ったし、凍てつく海で氷の台風に遭ったときも生き残ったエルナ・オルテンシアが、水死するだなんて?
(こんな死に方は嫌だ!)
絶対に生き残らなければならない。
息ができずに意識が薄れていく中でも、生き残らなければならないという思いだけが強くこみ上げてきた。
エルナはなんとかして上に這い上がろうともがき続けた。
しかし、この世界はエルナを殺すことに決めたのか、エルナの目の前に巨大な水中魔獣が現れた。
エルナ程度ならひと口で食い殺しかねないその魔獣は、口を開けたままエルナに近づいてきていた。
(いや、一体なんだっての!)
状況がまったく把握できていない最中に絶体絶命の危機までまた訪れるなんて、ひどすぎない!?
緊急事態が立て続けに起きるものだから、だんだん腹が立ってきた。
それに伴い、エルナは自分の目の前に近づいてきた魔獣を睨みつけながら手を掲げた。
(詠唱ができなくたって、お前みたいなやつを消すのは朝飯前よ)
エルナの周囲に金色の魔力が集まった。
魔力をかき集めたエルナが魔獣を切り裂くように腕を振るうと、魔獣とともに周囲の水がすべて断ち切られた。
一瞬にして水が消え、新鮮な空気が肺に流れ込んだ。
(くっ……)
空気を吸い込めば身体が少しは回復すると思ったのに、空気が肺に入り込むやいなや強い吐き気とともに頭が痛んできた。
痛くても耐えなければならない。
エルナは風魔法を使おうと手を伸ばしたが、彼女の手からはどんな魔法も発現しなかった。
(はっ?!)
魔法が発動しなかったことに動揺したのも束の間、切り裂かれた水は再び重力によってエルナの頭上に降り注いだ。
再びなす術もなく水に流されそうになったその瞬間、真っ白な影がエルナの腕を強く引き寄せた。
今この手を離したら確実に死ぬという思いから、エルナ自分をつかんだ腕をきつく掴みしめた。
誰かの腕はエルナを頑丈な胸の中に引き込み、瞬く間に彼女を地上へと連れ戻してくれた。
「エルナ! 大丈夫ですか?!」
「げほっ、げほっ! くっ……。だいじょうぶ、」
ぼんやりとした視界のなか、全身が濡れた状態で心配そうに見つめてくるグレンの姿が映った。
エルナは心配しないでと笑ってみせたが、長時間水の中にいたせいか身体が震えてまともに声が出なかった。
グレンがエルナの肩に手を置くと、一瞬にして濡れた服が乾いた。服が乾くと、ようやく生き返った心地がした。
「あの、グレン。いったい何が、あったの?」
「話はあとでいたします。とても寒かったでしょう? すぐに火を焚きますから、少しだけお待ちくだ……っと」
水と何か因縁でもある一日なのか、グレンの言葉が言い終わらないうちに雨が降り出した。
劇的に降り注ぐ雨粒のおかげで、やっと乾いたばかりの服は再び水に落ちたかのようにぐっしょりと濡れていった。
魔法さえ使えればこの程度の雨はどうってことないのに、水から這い出てもなかなか魔法を使うことができなかった。
水に落ちたときに失ってしまったのか、収納バッグすらない状態だった。
(これってどういうバカげた話なの?)
ここまであり得ない出来事が続くと、もう何も考えられなくなった。
エルナがぼんやりと何もできずに立ち尽くしていると、状況を把握したグレンがエルナをひょいと抱き上げ、どこかへと歩き出した。
「ねえ、グレン。どこに行くの?」
「エルナはまだ魔法の行使が難しいでしょう? 雨をしのげる場所へ行ったほうがよさそうですから」
「えっ? どうして分かったの?」
「エルナが聴いた魔獣、幻惑鳥に幻惑されると、奴の魔力が抜けるまで魔法を使うのが難しくなります」
「あ……」
「ですが、エルナはすでに一度魔法を使われましたよね? その反動で身体がもっと辛いのです」
グレンはエルナを腕の中に抱いたまま、手際よく雨宿りができそうな洞窟を探し当てて入っていった。
洞窟の内側は広くはなかったが、雨を避けるには十分な大きさだった。
ただ、激しく降り注ぐ雨のせいで火を焚くことができなくなってしまった。
濡れた服を着たままでいては体温を奪われる一方だ。
グレンは服を作り出すことができるが、彼の服はあくまで魔法で生成されたものであるため、エルナに自分の服を着せることは不可能だとか。
仕方がなく服を脱いで、お互いの体温を分け合うことになったのが今。
(あ、私今恥ずかしすぎて死にそう)
いっそ考えないでおけばよかった。
改めて思い返すと顔を上げられないほど恥ずかしくて気がおかしくなりそうだ。




