#37. 記憶。
「なるほど、グレンはこの辺りまで来たことがあるんだな」
たしかに、グレンの目標は凍てつく海の向こうの人族大陸だったはずだから、この近辺をうろついていてもおかしくはない。
噂に敏感な船員らしい情報力に、エルナは微笑みながらうなずいた。
「わかりました。もし私の方でも何か分かったら連絡しますから、エルケーレをよろしくお願いしますね」
「心配するな。あ、そうそうお嬢さん。コルと言えば思い出したんだが、最近コル地方に盗賊がはびこっているらしいからな」
「盗賊ですか?」
「ああ。盗賊と言っても、日々の暮らしに困った生計型だとか何だとか色々と言われてるんだ。だから、もし遭遇したとしてもあまり厳しく処罰しすぎないようにしなよ」
聞けば、ダンジョンの余波によって生活を維持できなくなった獣人たちが、冒険者を相手に盗賊行為を働いているようだった。
(そんなに生活が苦しいのかな?)
タルーの補給品の件といい、思っていた以上にコル地方の治安はあまり良くないらしい。
いっそ安全な場所へ向かったほうがいいのではないかという考えが頭をよぎった。
だが、すでに頼みを受けてしまった以上、今さらそんなことを考えても意味がないではないか。頭の中に浮かんだ雑念を振り払ったエルナは、さっぱりとした声で答えた。
「善処します」
理由があったとしても盗賊行為は犯罪なのだから、ただ笑って見過ごすわけにはいかない。
エルナの答えに、ジェニュードは肩をすくめた。
ジェニュードと別れた後、コルへ向かう旅の序盤。
エルナとグレンは下層の港を離れて三日ほど経つと、コル地方の境界までたどり着くことができた。
「わあ……」
ダンジョンの影響のせいか、コルに足を踏み入れた途端、気温が信じられないほど上がり始めたのだが、ほんの一歩越えただけなのにまるで結界のように周囲の空気が違っていた。
魔法のように急変する空気が実に不思議だった。
感嘆の声を漏らしながらエルケへ向かう分にはよかったが、暑くても暑すぎた。
それだけでなく、熱帯雨林特有の湿った空気が肌にまとわりついてなかなか離れない。
コル地方に入ってすぐに服を着替えたというのに、あっという間に服が湿ってしまい、不快感が半端ではなかった。
(こうなる分かっていたなら、いっそ寒い方に行けばよかったかな……)
暑い、湿る。笑って済ませられるレベルではない。それだけでなく、高く生い茂った雑草が道を塞いでおり、歩くことすらままならないほどだった。
ハメルーンにはこのような高温多湿な地域は存在しないため、エルナにとってコルの気候は非常に馴染みのないものだった。
長い髪を高く結い上げたエルナが風魔法を使って汗を引かせていると、グレンが彼女に近づいて尋ねた。
「エルナ、とても暑いですか?」
「暑いと言うべきか、湿っていると言うべきか。グレンは平気……なみたいだね」
暑さに耐えかねているエルナとは対照的に、グレンは汗一滴流していない状態で立っていた。
エルナのように長い髪を結い上げているわけでも、袖をまくっているわけでもないのに、とりわけさっぱりとした様子に見える彼を、エルナは信じられないという表情で見つめて尋ねた。
「グレン、一体どうして汗一滴も流さないの?」
「この程度の温度差は、獣人にとって大きな問題ではありません。ダンジョンの影響で気温は上がりましたが、もともとコル地方は高温多湿な場所でもありますし」
「へえ……獣人ってすごいね」
気候の変化に敏感ではないというのは、なんとも羨ましい体質にほかならない。
特に、このような高温多湿な環境であってもあんなに爽やかなままでいられるなんて。
エルナの感嘆に、グレンは少し悩んでから言葉を続けた。
「エルナ、もし不快感が強いようでしたら、もう少し迂回して向かいましょうか? ダンジョンから少し離れれば、今よりは涼しいはずです」
「うーん……ううん。熱帯雨林は嫌というほど見てきたから、わざわざ迂回する必要はないと思うな」
「大丈夫ですか? もっと暑くなりますよ」
「そんな脅し方されると怖いな……」
グレンの心配そうな問いかけに、エルナは冗談めかして答えた。その瞬間だった。
-♬♩~♪♬♩~♪♬♪♩……。
風に乗って、誰かの歌声が聞こえてきた。細く柔らかな女性の声。
一聴したところ、その声には何の変哲もないように思えた。
美しい歌声であり、聴いているだけで自然と心が和むような音色だったからだ。
しかし、エルナは即座に魔法で結界を作り出すと、叫んだ。
「エアルテ! 私とグレンを捕まえて!」
女性の声には、微かに魔力が混ざり込んでいた。声に染み込んでいる魔力は微弱だったが、そこに溶け込んでいる魔法は非常に強力なものだった。
長時間聴き続けたら、確実に幻惑されてしまうだろう。
エルナの命令に従い、影から飛び出したエアルテの黒い腕がエルナとグレンを包み込んだ。エルナはすぐにエルケーレを召喚すると、言葉を続けた。
「エルケーレ、声の主を捕まえて気絶させて!」
空へと飛び立ったエルケーレが魔物を捕らえに向かった。
エルナの対応を目の当たりにしていたグレンが、戸惑いながら尋ねた。
「エルナ? いったいどうしたのですか?」
「歌声に幻惑魔法が混じっているの。グレン、結界で防いではみたけど、防御魔法は私の専門分野じゃないからさ。ずっと聴いていたら引っ張られちゃうよ」
「歌……ですか? 何をおっしゃっているのですか?」
「グレンこそ、何を言っているの? 女の歌声が聞こえないの?」
「私にはまったく聞こえません」
「え?」
グレンの答えに、エルナの表情に戸惑いの色が浮かんだ。
どういうことだ?
エルナには今でもはっきりと歌声が聞こえていた。今もこんなにくっきりと、そしてますます近づいてきているのに……。
エルナが呆然とした顔でグレンを見つめていた瞬間、グレンの顔が歪んだ。
グレンがエルナに手を伸ばしたところまでは覚えている。
だが、エルナの記憶はそこで途切れた。
エルナが再び意識を取り戻したのは、冷たく流れる水の中だった。




