#36. コルへ向かう道、起きた出来事。
「ハクション……!」
ぐっと我慢しようとしたものの、意志を裏切った身体が大きくくしゃみをしてしまった。
エルナが鼻をすすりながら身体を震わせると、彼女の身体を抱きしめていたグレンが、より強くエルナを抱きしめた。
「エルナ、大丈夫ですか?」
心配そうな声でグレンが尋ねると、エルナの視線がグレンに向かい、慌てて自分へと戻った。
触れ合う肌からは雨水の匂いがした。
グレンに抱かれている自分の状況が、エルナ自身が招いた現実という事実以上に、耐えがたい羞恥心をもたらした。
エルナは心の中で悲鳴を上げながらも、できる限り気丈な声で答えた。
「ごめんなさい。大丈夫……とは言えないけど、非常事態だから。ヴェインは大丈夫? 本当にごめんなさい。身体を温めるためとはいえ、こんな姿勢にさせちゃって」
「いいえ。エルナの言う通り非常事態ですから。それにエルナのせいでもありませんから、そんなに自分を責めないでください」
「……ありがとう」
優しい声が、ひときわ冷え切った身体に染み渡った。
エルナの感謝の言葉に、グレンはかすかな笑みを浮かべ、優しく彼女の身体を包み込んだ。
「エルナ、もう少し密着していたほうがよさそうです」
「えっ? あ、うん」
流れ落ちた白い髪が自分の肩に触れると、顔が燃え上がるような気がした。
エルナはできるだけ意識を逸らすため、穴の開いた岩の隙間から見える空をじっと見上げた。
暗く垂れ込めた空から落ちる水滴が、彼らのいる岩の隙間にも水を引き入れていた。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう?)
やるべきことが山積みなのに、凍りついた身体と頭は思考することを拒んでいた。
それも無理はない。今のエルナは収納バッグも武器もすべて失った挙句、裸の状態でマント一枚だけに頼り、グレンに抱かれている状態なのだから。
(本当に、どうしてこんなことに……)
思考を放棄しようとする頭を必死に働かせるため、エルナは身体に巻きつけたマントをぎゅっと引き寄せた。
そして、なぜ自分がこんな状況になってしまったのかを振り返ることにした。
起きた出来事を復習したところで解決策が生まれるわけではないが、必死に何かを考えていなければならないような強迫観念に駆られていたからだ。
(つまり、確か……)
***
ラディオンを離れて下層の港に戻るまで、エルナの旅は平穏そのものだった。
途中でジェニュードや船員仲間たちに出会って言葉を交わした時点までは、何の問題もなかった。
いや、強いて言うならジェニュードがカメルに会い、エルナに手紙を送ったが受け取れなかったという些細な問題はあった。
だが、エルナはすでにカメルに遭遇した後だったため、大きな問題にはならなかったのだ。
「お嬢さん。陛下が一体どうしてここにいるんだ? 国王陛下って聖女様が好きなんじゃなかったのか? 後ろにいる獣人はまた何なんだ?」
「あ、紹介が遅れましたね。彼はグレン。ザハードの家族です。私の旅を手伝ってくれることになりました」
「はじめまして。グレンと申します」
「ほう……? お嬢さん。獣人大陸に来てまだ十日も経っていないのに、もうザハードの仲間に出会ったのか? すごいな」
「ふふ、偶然なんです」
ジェニュードは長年獣人大陸を行き来しているから、もしかしたらグレンのことを知っているかもしれないと思ったが、幸いにも彼は特に気にする様子もなく笑ってグレンを受け入れてくれた。
グレンに船員たちと挨拶を交わすよう提案した後、エルナはジェニュードにしか聞こえないほどの小さな声で尋ねた。
「私も、カメル様がどうしてここにいらっしゃるのか分からないんです。どうやってここに来たのかも検討がつかないし……ジェニュード。もしかしてハメルーンで何かあったご存知ありませんか?」
カメルがやって来たということは、凍てつく海を越えて獣人大陸までやって来た船が何隻かあるということだ。
カメルと一緒に来た船員なら事情を知っているだろうと思ってエルナが質問したが、ジェニュードはため息をつきながら首を横に振るばかりだった。
「それが、おかしいんだよ。確かに陛下には会ったけど、ハメルーンから来た船が一隻もないんだ。船員も同じでね」
「船がないんですって?」
「ああ。国王陛下は光魔法による空間移動が使えるお方ではあるが、いくら何でも凍てつく海を越えてこられるはずがないからな」
ジェニュードの言う通り、カメルは空間移動魔法を使うことができる。
しかし、カメルは魔力総量が多くないため、人族大陸の中でもハメルーン国内を自由に行き来できる程度だった。そんな彼が、たった一人で凍てつく海を越えられるはずがない。
それならば、一体なぜカメルが乗ってきたはずの船が見当たらないのだろうか。
『……なんだか気味が悪いな』
カメルとは関わりたくないというのに、妙に彼の行方が目に留まって気分が良くなかった。
とにかく、二度と顔を合わせることはないはずだ。
「ジェニュード。もしまたカメル様に会ったとしても、私のことについては知らないふりをしていてください。私はもう、あの人と関わりたくないんです」
「そりゃ当然だ。お嬢さんに頼まれなくても、あんな陛下とは関わりたくねぇよ」
おかしいな?
ジェニュードの言葉が引っかかったのも束の間、久しぶりに会った知人とこんな面白くない話ばかりしているわけにはいかなかったため、エルナは話題を変えて今後の日程についてジェニュードに伝えた。
また、万が一の事態に備え、ハメルーンの状況を確認するため、エルケーレの分霊をジェニュードに分け与えた。
分霊さえあれば、手紙よりも素早く確実にエルナへ情報を届けることができるからだ。
「それじゃあジェニュード。ハメルーンまで気をつけて、また今度お会いしましょう」
「気をつけなきゃいけないのはお嬢さんの方だ。俺が会った陛下はどこか……本当に変だったからな。ザハードの仲間なら、あの狐も軍人だったんだろ? 十分戦力にはなるだろうが、それでも本当に気をつけろよ。わかったか?」
「……ジェニュード。グレンが誰だか知っていたんですか?」
「詳しくは知らないさ。ただ、港のあたりをうろつく白い狐が、追放された将軍の副官だって噂をちらっと聞いたことがあってね。白い狐なんてそうそういるもんじゃないからな」




