#35. 遠く、あるいは鮮明に。
身を刺すような寒さの中で、グレンは夢を見ていた。
夢の中のグレンは、青雄族に奇襲されて深い傷を負った状態だった。容赦なく襲いかかる青雄族からどうにか逃げ延びることはできたが、傷口から流れる血の勢いは尋常ではなかった。
獣の姿では魔法を使うことも、言葉を交わすこともできない。だから、傷自体は致命傷でなくとも、グレンは冷たい雪原の中でゆっくりと死にかけていた。
死にかけている最中にも足を動かしたのは、ほとんど無意識の行動に近かった。どうせ死ぬのなら、少しでも憧れていた人の近くに行きたかったからだ。
白銀の世界に現れた黒髪の女性を見た時、彼は自分が死んで幻を見ているのだと思った。
幻の中の女性は、優しく彼に手を差し伸べた。いくら夢だとしても、あまりにも都合が良すぎる展開ではないか。
これは死の直前に見る幻に違いない。だから、決してその手を取ってはならない。
夢の中のグレンは必死になってその手を拒絶した。一度でも安らぎを感じてしまえば、そのまま死んでしまうのが分かっていたからだ。
しかし、女性は執拗に彼を助けようとし、グレンはその手から逃れようともがいた。
グレンの鋭い爪が彼女の首筋をかすめたのは、まさにその時だった。誰かに抱きしめられるのがあまりにも久しぶりで、力加減の調整ができなくなっていたのだ。
敵意があってしたわけではないため、グレンは反射的に動きを止めた。
引き裂かれた襟元から、見覚えのあるペンダントが見えたのはその瞬間だった。グレンの瞳が大きく見開かれた。
最初は見間違いだと思った。人族の女性が、あの人のペンダントを持っているはずがないからだ。しかし、見間違いではなかった。
彼女が持っているのは間違いなく、世界に一つしかないザハード将軍のペンダントだった。
(ザハード様が無事でいらっしゃるんだ)
父親のような存在であるザハードがいまだに無事だという事実が、涙が出るほど嬉しかった。
しかし、その喜びは長くは続かなかった。夢の中の女性は、グレンにとってあまりにも残酷な現実を伝えてきた。ザハードの訃報だった。
簡単に信じられるはずもない知らせ、しかし必死に涙をこらえながら訃報を伝える女性は、嘘をついているようには見えなかった。
(本当に……亡くなられたのか)
グレンにとってザハードは親であり、兄弟であり、この世でたった一人の心から信頼できる人物だった。
そんなザハードが旅先で命を落としたという知らせに、足元から世界が崩れ去っていくような気がした。
グレンがかろうじて正気を保てていたのは、自分よりも痛切に泣いてくれるエルナが目の前にいたからだった。
人族にとって獣人族は蔑みの対象でしかないというのに、エルナは痛々しいほどに咽び泣いていた。
愛おしい人だと思った。そんな人だからこそ、ザハードも彼女のことを特別に思っていたのだろう。
ザハードとの約束を守るために見知らぬ土地までやって来たというエルナは、グレンにとって誰よりも信頼できる存在だった。
同時に、どうしようもなく危なっかしく感じられた。
ザハードのペンダントを持っている以上、グレンがエルナを信用するのは不自然なことではない。だが、エルナはあまりにも簡単に他人の言葉を信じすぎる傾向があった。
もちろん、彼女が秘める強大な力があれば、誰かを信じること自体は危険でも何でもないのかもしれない。
しかし、グレンにとってエルナはザハードが残した遺産だった。家族が残してくれた世界にたった一つの宝物が危うくなるのを、黙ってみているわけにはいかなかった。
(彼女と共にいたい。ザハード様が残してくれた宝物と、ずっと一緒にいたい)
グレンにとってエルナは、ただの平穏な女性ではなかった。
そのために自分は何ができるだろうか。何もかもを失ったグレンが、彼女と一緒に歩むための方法は何だろうか。
どうにかして彼女と一緒に旅立ちたいと考えていた矢先、彼女のほうから一緒に来てほしいと提案されたときは、まだ夢が続いているのだとばかり思った。
あまりにも都合の良すぎる展開。
それでも、これは夢ではなく現実だった。
グレンはエルナと共に生きることを決意し、彼女との契約を受け入れた。
しかし、グレンは重罪人だった。どれほど契約を交わし、彼女に自分の所有権が移ったところで、周囲の視線はどうしようもない。
(降り注ぐ数多の視線を、彼女はどう処理するつもりだろう)
もしその視線に耐えかねて、自分を捨てたりでもしたらどうすればいいのか。
たとえ彼女が拒絶し、グレンを突き放したとしても、グレンは彼女のそばにいなければならなかった。
ザハードが残したエルナという存在の最も近くにいるべきなのは、ほかならぬグレン自身でなければならなかった。
執着に等しい感情だと分かっている。出会って一日しか経っていない相手に抱いてはならない感情だと分かっている。
しかし、ザハードが死んでしまった今、グレンにとって生きる理由となるのはエルナしか残っていなかった。エルナに出会えたのは奇跡のようなものだった。
だからこそ、絶対に彼女を手放すわけにはいかなかった。
ラディオンの街を歩きながら、グレンにあえて居心地の悪そうな素振りをみせてみた。エルナの出方によって、自分が取るべき態度が変わるからだ。
獣人族は人族よりも感覚が優れているため、グレンがエルナの所有物になったことは匂いで分かる。
だから、彼に直接襲いかかってくる者はいなかった。
だが、突き刺さる視線や非難の言葉が消えることはなかった。暴力ではない、しかし暴力にも等しいこの反応を、彼女はどう受け止めるだろうか。
(怯えるだろうか、気まずがるだろうか、それとも無視するだろうか)
恐怖に満ちて身を縮こまらせるグレンの姿に対し、エルナが取った対応は、グレンの予想を遥かに超える正面突破だった。
彼を非難する言葉には、言葉以上の暴力を。彼を非難する視線には、すべてを無視する堂々とした態度を。
想像もしなかった対応だったが、エルナの行動はすべて、グレンに深い信頼を植え付けるのに十分だった。
青雄族の族長であるタルーの面前でも、エルナは終始堂々としていた。一かけらの恐れすら抱いていない彼女は、眩しくさえ感じられた。
何十年も待ち焦がれていた人。自分にとってただ一人の人。
彼女と一緒なら何でもできる気がした。長い人生の中に光が差し込むように思えた。
だからこそ、商業地区で彼女を探す見知らぬ者の声を聞いた時、グレンは警戒せざるを得なかった。
若い男は必死にエルナを探していた。彼女を呼ぶ声は焦燥と切実さに満ちていた。
その声を聞いた瞬間、焦りから心臓が不規則に脈打った。男はどうしてエルナを探しているのか。
なぜエルナを求めているのか。エルナがその男を元夫だと紹介したとき、不安感はピークに達した。
もし彼についていくことになったらどうすればいいのか。
これ以上、大切な人を失うわけにはいかないのに。
幸いにも、エルナには彼のもとに戻るつもりはないと答えてくれた。
その男を音沙汰なく始末してやろうと考えていた矢先、実にありがたい言葉だった。
エルナが二度と元夫に会いたくないと言ったのだから、グレンは二度と彼女がその男と顔を合わせることのないようにするつもりだった。
あの男の匂いは記憶しておいたから、何の問題もない。
(そうです、エルナ。あなたは二度とあの男に会うことはありません。心配しないでください。僕が必ずあなたを守り抜きますから)
悪いことではない。彼女が望んでいることなのだから。
グレンには、彼女が望むなら何でもやり遂げる覚悟があった。彼女を守るためなら何だってできる。
ザハードが残した宝物。この世で最も大切にすべき人。
ねえ、エルナ。
あなたは僕のすべてです。
だから僕は、どんな手を使ってでもあなたを守ってみせます。
それが、あなたを僕に託したザハードの遺志なのだから。
エルナ。
あなたは僕のものだ。
永遠に、決して手放したりしない。




