#34. 気にする価値さえない。
エルナはラカンタが初めてで、ここに知人もいない。
ザハードのペンダントに気づいて声をかけてくるのならともかく、彼女の名前を呼ぶ人間がいるはずがなかった。
嫌な予感がした。エルナはグレンにしか聞こえないほどの小さな声でささやき、尋ねた。
「もしかして、私を探している男の顔が見える?」
「いいえ、顔までは……ですが、声の様子からして若い男のようです」
エルナの名前を知る若い男……だって?
「グレン、身を隠せる場所はある?」
「歩幅を合わせてついて来られますか?」
「うん」
エルナが言い終えるやいなや、グレンは彼女を連れて建物の間の死角へと向かった。
一見すると行き止まりだが、細い路地が続いているその場所は、大昼間であっても薄暗く、何より路地の外にいる人々を確認しやすい。
身を隠すには打ってつけの場所だった。壁にぴったりと体を寄せたエルナがグレンに言った。
「グレン。その男が近づいてきたり、その男を避けて村の外に出られる距離になったら、私の肩を叩いて」
「かしこまりました」
エルナは息を潜めたまま、通りを行き交う人々を一人ひとり見つめた。人族と獣人族が入り交じる通りは見知らぬ人間ばかりだった。
麦色、赤色、黒青色、茶色、白色……見慣れた髪色や毛色が素早く彼らの脇を通り過ぎていった。その時だった。
「……!」
暗く濁った色合いの中に、ひときわ眩しい金色の髪がちらりと見えた。黄金を溶かして作ったかのような滑らかな光沢は、遠くからでもひときわ目を引いた。
人族大陸で、あんなにも眩しい金髪の持ち主は一族しかいない。
眩しい金髪と真っ青な瞳。死角から見えるはずがないにもかかわらず、目が合いそうな気がして、エルナは思わず壁に体を押しつけて息を止めた。
(どうしてカメル様がここにいるの? ハメルーンは? セレンは? 私を探している理由は?)
理解不能な状況に、頭の中には疑問ばかりが大きく膨らんでいった。
実際、エルナがカメルを避ける理由は一つもなかった。しかし、予想外の光景に動揺したあまり、反射的に身を隠してしまったのだ。
当然のことながら、カメルはエルナに気づかないまま彼女の脇を通り過ぎていった。鼻先に懐かしい香りがかすめたような気がした。
「あの男は去りました」
どれほどの時間が経ったのだろう。ぼんやりとその場に立ち尽くしていると、耳元でグレンのささやき声が聞こえてきた。
ハッとしてグレンを見上げると、彼は心配そうな表情でエルナを見つめながら言葉を続けた。
「エルナ、大丈夫ですか?」
「えっ? あ、うん。大丈夫。ごめんね」
「……あの男と知り合いなのですか?」
「知り合いというか……元夫、かな」
エルナの意味深な答えに、ほんの一瞬、グレンの表情が冷たくこわばった。しかし、カメルを見た衝撃からまだ抜け出せていなかったエルナは、グレンの表情に気づかないまま彼が去っていった通りを見つめるばかりだった。
「詳しい話はあとでしよう。あの男とは顔を合わせたくないの」
「わかりました。買い出しも済みましたし、あの男も当分は戻ってこないでしょうから、今のうちにラディオンを離れましょう。私について来てください」
グレンに従ってラディオンを抜け出したエルナは、何度も後ろを振り返り、カメルが後をつけてきていないか確認した。
彼女の背中を追う影はなかったものの、妙な不安感がこみ上げてきた。
エルナがようやく安心できたのは、ラディオンからかなりの距離が離れてからのことだった。
ふとした拍子に見つけた商業地区の裏口から抜け出たところ、見慣れた雪景色が広がっていて、少しだけ心が落ち着いた。
エルナの顔から不安の色が消えたのを確かめたグレンは、彼女と歩幅を合わせながら恐る恐る尋ねた。
「エルナ。あの男とどのような関係なのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「あ、うん。説明が遅くなってごめんね。あの人は私の元夫なの」
「夫、ですか?」
「うん。タルーとの会話でちょっと触れたけど、私は少し前までハメルーンという国の王妃だったの」
まさか誰かにこんな経緯を明かす日が来るとは思っていなかった。苦笑いを浮かべながら、エルナは自分の身に起きた出来事を手短に説明した。形だけの夫、深まることのない関係。そして、眩いばかりに美しい聖女……。
「……カメル様が愛しているのは私じゃなくてセレンだったんだから、セレンと幸せになればそれでよかったはずなのに。どうして彼がここにいるのかな」
わからない。エルナが首をかしげると、グレンが尋ねた。
「エルナ。あなたが彼から逃げるように身を隠したのは、彼があなたに危害を加えるかもしれないからですか? 強引に連れ戻されるとか……」
「えっ? ううん、そんなんじゃないよ」
カメルを見た瞬間はあまりにも動揺して考える余裕もなかったが、よく考えてみたらこんな風に逃げ出す必要なんて全くなかった。
エルナとカメルはすでに赤の他人であり、彼がエルナを探していようがラカンタにいようが知ったことではないからだ。ただ……。
「二度と会いたくない人だったから、無意識に身を隠しちゃったみたい」
見知らぬ旅先でこんな風に出くわすとは思っていなかったことも一因だった。
エルナの答えに、グレンはかすかな笑みを浮かべて言った。
「そうですか。危険ではないならよかったです」
「うん。まあ、ラディオンでは運悪くバッタリ会っちゃったけど、これからは顔を合わせることもないんじゃないかな?」
エルナがここにいることをどうやって知ったのかは分からないが、これからの移動経路まで知る術はないはずだ。
エルナの答えに、グレンはうなずいて肯定した。
「エルナが望むなら、二度と顔を合わせることがないようにいたします」
「グレンが?」
「ええ、そのくらいの能力はありますので」
グレンの返事に、エルナは彼をチラリと見やった。大したことのない話であっても、誰かと一緒だと心強かった。
そうだ。すでに過去となった出来事を気にする必要なんて全くない。
「いいね。じゃあグレン、私たち二度とあの人には顔を合わせないようにしよう」
「仰せのままに」
グレンの答えに、エルナはにっこりと微笑んだ。
「さあ、出発したんだし、気分良くコル地方へ向かおうか!」
エルナが機嫌よく方向を定めて歩き出そうとすると、グレンがすかさず彼女の腕を掴んで引き止めた。
「エルナ、そちらの方向ではありません」




