#31. 族長、タル。
振り返った場所に立っていたのは、杖をついた小柄な老人だった。本来は青色だったはずの毛並みは所々白く色褪せ、顔が毛に覆われた獣人でありながら、老いぼれているのが分かるほどだった。
しかし、サファイアをめいっぱいに埋め込んだかのような真っ青な瞳だけは、相変わらず青い炎のように光り輝いていた。
妙な威圧感を放つ老人の姿を見つめていたエルナは、毛並みに隠れてよく見えないペンダントに気づき、彼の名を呼んだ。
「タル族長ですね」
「ほう。目端が利くことだな。その通り、私が青雄族の族長、タルだ。だから女王よ、私の顔を立てて、ここはいったん引いてくれまいか」
気乗りしない提案ではあったが、タルから受け取るべきものがあるエルナには選択肢がなかった。
(それにしても……女王だって? どうしてそんなふうに呼ぶわけ?)
疑問に思いつつも、言葉を返さずにエルケルを下がらせると、タルは口角を持ち上げて笑みを浮かべた。
「ありがたい。女王がお越しになったのだから、もてなさねば失礼というものだ。キンタ、ペオル。女王をご案内しなさい」
「はい、族長様」
「お言付け通りに」
タルの言葉に、死角に立ってエルナとグレンを警戒していた二人の青雄族が前に進み出た。
「女王様、ご案内いたします。こちらへどうぞ」
「白い狐殿も、どうぞお越しください」
「私は女王ではありませんので、そう呼ばないでいただけますか」
しきりに女王と呼ばれるせいで、人族の冒険者たちが怪訝な視線をエルナに向けているのが感じられた。居心地が悪くなったエルナが首を横に振って否定すると、タルが笑みを湛えた声で答えた。
「エアルテとエルケルを従える黒髪の人族といえば、人族大陸で起きたスタンピードをしずめた英雄にして、ハメルーンの女王しかおらんだろう」
「……!」
「それだけではない。今や白い狐まで従えているのだから、いいっそう女王にふさわしい気品が備わった」
百歩譲って、エルナの名前や幻獣使いであることは分かるかもしれない。すでにパカンの連中から聞き及んでいるはずだからだ。
だが、彼女がハメルーンから来た人間だということ、そしてスタンピード当時に関与していたことなどは、人族でなければ知り得ない情報だった。
エルナが驚いた表情でタルを見つめると、タルは目を三日月のように細めて話を続けた。
「女王様は何がそんなに驚きなのかな? 我々がそちらの歴史を知っているように、そちらもまた我々の歴史を知っているだけの話なのだから」
なるほど。どれほど互いを軽蔑し合っていようとも、歴史書に載るほどの大きな事件くらいは把握しているということか。
ましてやここはラディオン。人族が最も多く留まる地域なのだから、大陸間の情勢程度は把握しておくのが族長としての務めだろう。
「族長様は物知りですね。ですが、私はハメルーンの王妃だっただけで、女王ではありません。今や王妃ですらないですし」
「ほう。ハメルーンの王は見る目がよほど節穴らしいな。女王を手放すとは愚かなことだ」
「まあ……」
エルナが肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をすると、タルの含み笑い混じりの声が続いた。
「それなら、女王がここにいる理由はハメルーンの愚王のせいということか? いったいどうして、こんな遠いラカンタまでやって来たのだ?」
応接室に到着するやいなや、待ち構えていたかのようにタルが尋ねた。特に隠すような内容でもなかった。しかし、大勢がいる場所で明かすような話でもない。
エルナとグレンを案内してきた二人の青雄族をじっと見つめると、タルが手を上げて彼らを外へ下がらせた。
エルナ、グレン、そしてタル。
三人だけが残された応接室で、エルナは自分がこの地を訪れた理由を手短に説明した。
「重ねて申し上げますが、私は女王ではありません。ですからエルナと呼んでください。私がここにきたのは、家族を故郷に連れて帰るためです。ハメルーンとは……あまり関係ありませんね」
カメルとの離婚によって周囲を見渡す余裕ができたのだから、厳密に言えばハメルーンとも無関係ではないけれど、エルナの基準ではカメルとの離婚など言及する価値もない非常に些細な出来事にすぎなかった。
エルナの答えに、タルの瞳がわずかに見開かれた。真っ青な瞳が物言わげにエルナを映し出していたが、やがてタルの落ち着いた声が響いた。
「そうか……ザハード将軍が亡くなったのか」
「?! どうしてそれを……」
「女王が首に下げているペンダントは、将軍のものではないか」
「あ……」
そうか。グレンがペンダントに気づいたように、タルもエルナのペンダントを見抜いたらしい。それにしても……。
「この老人、なかなかに目ざといわね」
ザハードのペンダントはエルナの首にきちんと下げられていたが、マフラーを巻いていたため、よほど首元をまじまじと見つめない限りは簡単に見えるものではない。
それにもかかわらず、ペンダントを身につけていることに気づき、それがザハードのものだとまで推測するとは。
「伊達に歳を重ねてきたわけじゃないってことね」
生き残っているということは、それだけ強いということだ。
特に獣人の大陸で、タルほどの人物が年を取るには、ただ平穏に暮らしているだけでは到底不可能だった。
エルナが目の前の老人を見据えながら頭の中で情報を整理していると、タルの青い瞳が懐かしさに染まった。
「女王……いや、エルナよ。ザハードは安らかに眠ったか?」
「……臨終は見守れませんでした。ですが、私にこのペンダントと手紙を残してくれました。だから私はザハードとの約束を守るためにここにいます」
「ザハードがこれまで生き延びていたこと自体が、安らかであった証拠だろうさ。老いぼれが余計なことを言ったな。将軍とはあれこれ浅からぬ因縁があってね、思わず感傷的になってしまったらしい」
タルが乾いた笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「故郷に送り届けるためだと言うのなら、お前さんには身分証明書がどうしても必要だな」




