#32. 小さなお願い。
「はい。証明書のためというわけではないのですが……」
エルナは収納バッグからあらかじめ用意しておいた蜂蜜酒を取り出し、タルーに差し出した。
「私の家門であるオルタンス領で造られている蜂蜜酒です。青雄族の皆さんは蜂蜜酒が好きだと聞いていましたので、族長様にお渡ししようと持ってまいりました」
「青雄族には、親愛なる友の家を訪ねる時、必ず蜂蜜酒を持っていくという文化があってな。将軍が本当によく教育したものだ」
「他の誰でもない、ザハードですからね」
エルナが肯定の意味を込めてうなずくと、タルーが声を上げて笑った。
「はっはっは! なるほど、いいとも。お前さんならラカンタを旅するのも難しくなかろうよ。まさかザハードの故郷だけに立ち寄るつもりではあるまい?」
「いいえ。故郷に向かう前に、ザハードが愛し、守り抜いたこの大陸をゆっくりと見て回るつもりです」
「どこから回る予定なのかな?」
「バルカンです」
エルナの答えに、ほんの一瞬、タルの表情がかすかにこわばった。
普通の人なら気づかないほどの微細な変化だったが、エルナにははっきりと察知できた。
エルナが怪訝な顔でタルーを見つめると、タルーは何事もなかったかのように微笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「将軍がペンダントを託すほどの人物であれば、証明書の発行など難しくもあるまい。ただ、一つだけ。発行手数料のつもりで、この老人の頼みを一つ聞いてくれないか?」
「お願い、ですか?」
「そうだ。難しいことではない。コル地方へ補給品を届けてもらうだけの仕事だからな」
「新種のダンジョンが発生したという地方ですね。補給品というのは……魔獣の被害が続いているということでしょうか?」
「さすがは女王……いや、エアルテの契約者らしい慧眼だな。お前さんの言う通りだ。ダンジョンの余波のせいで、これまで観測されたことのない新しい魔獣が現れているのだ」
続くタルーの話は、なかなか興味をそそる内容だった。
生成されてから10年近く経つダンジョンだが、このダンジョンは獣人たちが通り抜けるには少し厄介な位置にあるという。
小柄な体躯でなければ入れないダンジョンは内部も非常に狭小なため、体格の大きな獣人たちにとっては攻略どころか通り抜けることすら困難だというのだ。
「通路がどれほど狭いせいで攻略が難しいのですか?」
「お前さんくらいの体躯であれば、ちょうど入れるくらいだろうな」
「えっ、それほど狭いんですか?」
エルナはダンジョンに入ったことがないため、内部がどのような様子なのか知らない。
それに、ダンジョンごとに内部の様相は全く異なるため、冒険者たちの手記もあまり参考にならないと聞いていた。
(終わりの見えない狭小な空間か……確かに獣人たちにとっては荷が重いわね)
人族の女性の平均よりも少し小柄な体躯を持つエルナにぴったりなサイズだとしたら、獣人はもちろん、男性の冒険者にとっても窮屈なはずだ。
ただでさえ動きが制限される場所で戦闘まで繰り広げる? 自殺行為だと言っているようなものだ。
だからといって、発生したダンジョンをそのまま放置するわけにもいかず、何度か討伐隊を送り込んだものの、成果は芳しくなかった。
「成果が芳しくない理由は何なのですか?」
「敵の姿が見えないと聞いている」
「隠身能力を持った魔獣ということですか?」
「そこまでは分からん。ただ、討伐隊が周辺をいくらパトロールしても魔獣の姿はないのに、村の方ばかり被害を受けるのだそうだ」
「ふむ……」
面倒くささに厄介さが上乗せされるというわけか。これほどの条件なら、コルのダンジョンに立ち入るべきか考慮しなくてはならないかもしれない。
エルナが目を細めてスケジュールを修正していると、タルーの言葉が続いた。
「最近では原因不明の病まで蔓延しているらしいぞ」
「ちょっと、伝染病が流行っているんですか? そんな場所に補給品を届けに行けとおっしゃるんですか?」
難しいことではないと言っていなかったか? エルナが眉を吊り上げて問い返すと、タルーは首を横に振って答えた。
「伝染病なのは確かだが、お前さんたちには該当しないから安心していい」
「該当しない? 感染する条件が別にあるということですか?」
「その通りだ。第一の条件は成人であること、第二の条件は獣人に近い容姿であること」
なるほど……エルナもグレンも、タルーが列挙した条件には当てはまらない。
エルナは人族ゆえに、獣人の基準で成人と言える年齢ですらなく、グレンは人族に近い容姿をしているため対象外となる。
ただ、話だけで聞かされてうのみにするには、どこか引っかかるものがあった。エルナの疑わしい視線に気づき、タルーが言葉を継いだ。
「ここ十数年、人族の冒険者たちに同じ頼みをしてきたがな、病に倒れた冒険者は一人もいなかったぞ」
「ふむ。それなら、人族には大きな害を及ぼさないものなのかもしれませんね」
もちろん、病というものはあらゆる変数が存在するものであるため、油断はできない。
しかし、拒否権が与えられているわけでもない状況だ。
(姿の見えない魔獣についても……少し興味がそそられるし)
エルナはスタンピードの際、隠身能力を持つ魔獣たちに遭遇したことがある。
特殊な障壁を纏って視界を遮断する魔獣たちは非常に厄介だった。当時のような魔物であれば、攻略は難しくないだろう。
どうせやらなければならない仕事なら、さっさと片付けてしまうに限る。
「わかりました。補給品は準備できていますか?」
「もちろんだ。老人の頼みを聞き入れてくれて感謝する」
「いいえ。その代わり、今日すぐに出発する予定ですので、身分証明書をすぐに発行していただけますか?」
「すでに用意してある。キンタ」
言い終えたタルーが杖で床を二度叩くと、閉じられていた応接室の扉が開き、キンタがペンダントを手に持って部屋に入ってきた。
「エルナ様の身分証明書でございます。あらゆる関所を自由に往来できる最上級の証明書をご用意いたしましたので、ご旅行に不便はないかと存じます」
「準備がものすごく早いんですね」
木の枝を削って作られたペンダントには非常に精巧な彫刻が施されており、ひと目で格の高さが伺える代物だった。
エルナがペンダントを眺めながらつぶやくと、タルーが含み笑い混じりの声で言った。
「ふふ。パカンから話を聞いた時から用意させておいたのでな。お前さんなら昨日あたり来ると思って、慌てて準備しておいたのだよ」
勘が鋭く、行動も早いというわけか。なかなかに気に入る性格だ。口角を持ち上げたエルナはペンダントを首にかけ、席から立ち上がった。
「補給品と地図を用意してください。できるだけ早く補給品を届けますから」
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