#26. 夜明け。隷属の契約。
朝が来るにはまだ早い時間。エルナはベッドに横たわるグレンを見つめながら、考えにふけっていた。
アルビノ特有の透き通るほど真っ白な肌と白い髪。
閉じられたまぶたさえ真っ白な男は、人間というよりよく出来たロウ人形のように見えた。息づかいさえ非常に微かで、かすかに上下する胸元でなければ、誰も彼が生きている生命体だと気づかないだろう。
「さて、これからどうしたものか」
ザハードと家族同然だった人。彼が失ったものを取り戻してあげると決めた。しかし、そのすべてを取り戻すには何から始めればいいのだろうか。
「まずは、獣の姿に戻る権利……かしら」
腕を組んだエルナが目を細めた。
一度獣刑に処された罪人は、二度と普通の人間には戻れない。
少なくとも、エルナが読んだ獣人大陸の歴史書にはそんな例はなかった。
しかし、グレンを人間に戻さないことには、彼が失ったすべてのものを取り戻すことなどできない。だから、まずは彼を人間に戻さなければならない。
エルナは収納バッグを開け、ラカンタ大陸の律法書を取り出した。長い航海期間中にラカンタについて勉強しようと、ハメルーンから持ち込んでいたものだった
。
「たしかこの辺りに……あった」
エルナは獣刑に関する記述があるページを探し、素早く読み進めていった。
獣刑に処された獣人が人間の姿に戻れるケースは、たったの三つ。
一つは無罪が証明され、獣刑そのものがなかったことになるケース。
もう一つは、[契約]を通じた刑の塗り替え。
最後の一つは、死による刑の終了。
「契約か……」
契約を通じて獣刑から逃れられた事例は一つだけ。
[魔女]との契約により、使い魔になった場合のみだった。
「魔女との契約なら……隷属魔法かしら?」
魔女とは人間とは異なる特殊な存在で、この世に存在するすべての魔法を使える不老長寿の存在だという。
魔女が使う古代魔法の中に、隷属の魔法というものがあると聞いたことがある。
隷属対象に魔女の魔力を注入し、魔女の眷属にするこの魔法には、世のいかなる魔法よりも強く、いかなる律法さえも無視してしまう強力な制約がかけられる。
規律を無視するほどの強制力を持つ分、隷属対象に持続的な魔力を注入し続けなければならないため、普通の人間には決して使えない魔法だとか。
王宮で読んだかつての魔女の日誌を思い出しながら、エルナは目を細めた。
「持続的に魔力を注入する契約か……」
エルナは魔女ではないが、魔力量はかなり多い方だ。
長い戦争をくぐり抜けてさらに高まった魔力量は、並み大抵のことでは底をつくことがない。
エルナはバッグの中から魔法書を取り出して広げた。隷属の魔法は持続させるのが非常に難しいだけで、魔法自体はそれほど難しくない。
エルナは魔法書のページをめくりながら、隷属の魔法が記された部分をじっくりと読み込んでいった。
長い夜が明け、青みがかった光がスイートールームに差し込んできた。
寝室の一角に置かれた椅子に座って本を読んでいたエルナは、頭上に差す青白い光を見て疲れた目をしばたたいた。
「あっ。もう、朝になっちゃったじゃない」
久しぶりに読む魔法書だったからか、夢中になって読みふけってしまった。
しょぼしょぼする目を向け、青みがかった窓を眺めていたエルナは、引き寄せられるようにカーテンの閉まった窓辺へ歩み寄り、窓を開け放った。
前日まで降り続いていた雪はいつの間にか止み、晴れ渡った空が彼女を迎えてくれていた。
清らかな夜明けの空気が胸の奥深くまで染み入る。
「ふう……」
澄んだ空気を吸い込むと、疲労が少し和らぐようだった。
まだ完全に朝が訪れるには早い時間であるにもかかわらず、ほの暗い通りをせわしなく行き交う人々の姿がそこそこ見られた。
大部分が青雄族の商人に混じって、ちらほらと他の種族の姿も垣間見える。活気ある街の風景を見ていると、胸の片隅が温かくなるような気がした。
「道を普通に歩くことも、人間が持つべき基本的な権利の一つよね」
エルナは一晩中頭の中に叩き込んでおいた魔法を思い浮かべながら、行き交う人々を眺めた。魔法はすでに暗記してあるので、いつでも発動
できる。ただ……。
「いつ切り出すのがいいかしら」
できるだけ早く本人の意思を聞いておきたい。グレンが起きるにはまだ時間がかかるだろうし、
私も一眠りしてこようか。
夜明けの甘い空気を腹いっぱい吸い込みながらエルナが考えにふけっていると、背後からかすかな声が聞こえてきた。
「……エルナ様?」
「あ、グレン。ごめんなさい。私が起こしちゃった?」
寝室には暖炉が焚かれていたが、病人にとって夜明けの空気はかなり冷たかったはずだ。
エルナがすまなそうな顔をすると、グレンはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。とても深く……眠れました」
「それならよかったわ。でも、まだ起きるには早いのよ。もっと寝ていていいのに」
エルナの言葉に、グレンの赤い瞳が彼女へと向けられた。黙ってエルナを見つめていたグレンが、ゆっくりと身を起こした。
病人のグレンを支えようとエルナが近づくと、グレンの冷たい手がエルナの目元に触れた。
「エルナ様。お休みになられなかったのですか?」
「あら? 分かる?」
もちろん、昨日さんざん泣いた上に一睡もしなかったのだから、目はそれなりに充血していることだろう。
しかしエルナはこれでも王妃であり、魔獣討伐軍の将校出身だ。ほんのこの程度で疲れているアピールが出るはずがないのだが?
エルナが戸惑った顔で目元に手をやると、グレンは彼女の手を取り、ゆっくりとおろした。
「目立つほどではありません。ですが……少し疲れていらっしゃるように見えます」
「まあ……」
グレン勘が鋭いのかしら? それとも、ここ二ヶ月間ののんびりした航海のせいで体力が落ちてしまったのかしら?
エルナが気恥ずかしそうに笑うと、グレンが心配そうに尋ねた。
「もしかして、私メのせいで眠れなかったのですか? そういうことでしたら……私メは部屋の外に出ておりますので」
「あなたのせいじゃないわよ」
厳密に言えばグレンのせいで間違いないけれど。
彼が考えている理由とは違うため、エルナは笑って首を横に振った。
「では、少しでもお休みになってください。私メはもう大丈夫ですので、ベッドで……いえ、私メが使っていた場所では不服でしょうから、別の場所がよろしいでしょうか?」
赤い瞳に心配をいっぱいに湛えてエルナが見つめてくる。
こんな風に気遣われたのがいつぶりなのか分からない。
グレンの視線を受け、エルナは思わず口角を持ち上げて微笑んだ。ちょうどよかった。物事は手際よく進めるのが一番だ。
「心配してくれてありがとう。すぐ寝るから。その前にね……グレン。あなたに提案が一つあるの」
「提案……ですか?」
「うん」
エルナの答えに、グレンがきょとんとした表情でまぶたをパチパチさせた。
それにエルナの目尻が柔らかく緩んだ。
エルナはにっこりと微笑みながら言葉を続けた。
「ねえ、グレン。私と契約しない?」




