#23. 選択と責任。
静かな寝室の中にエルナの声が低く響いた。
他人に自分の思い出を語るのは少し恥ずかしいことだった。
だが、その話をきっかけに過去を振り返ることは、意外にも嬉しいことだった。
ザハードを初めて出会った日。彼が肩車をしてくれたこと。
一緒に獣人大陸に行こうという約束。厳しい王妃教育の中でもエルナを支えてくれた微笑み。結婚式の前、最後に見た姿……。
ザハードとの思い出を思い出していると、再び涙がこみ上げてきそうだった。それでも今回は流さずにこらえることができた。
静かにエルナの話を聞いていたグレンは、ザハードの最期を聞いてそっと目を閉じた。
依然として信じられないというように、手が小さく震えていた。
感情を静めるようにかすかな息を吐き出したグレンは、やがてゆっくりと目を開けてエルナを見つめた。
透明な赤い瞳の中に、自分の金色が混ざり合っていった。
「聞かせていただきありがとうございます。エルナ様。そして、果たせなかった約束を守るためにこの遠い大陸まで来てくださって、本当に……本当にありがとうございます」
「ううん。私にとっても来たかった場所だから。それで、グレン。今度はあなたの話を聞かせてくれる? あなたの名前はザハードがつけてくれたって言ってたけれど、二人はどういう関係なの?」
「ザハード様は私メの恩人です。色彩を持たない外見のせいで両親に捨てられ、死にかけていた私メをザハード様が引き取って育ててくださいました」
「あっ……」
過去を回想するように、グレンのまぶたが穏やかに閉じた。静かな寝室の中にグレンの声が続いた。
黒狐族に生まれたにもかかわらず、白皮症のせいで白い毛と赤い目を持つようになったグレンは、一族の中でもひどく疎外されたという。
異質な外見と先天的に弱い体。両親に捨てられて死にかけていたグレンを救ってくれたのが他ならぬザハードだった。
「ザハード様は私メに生きる方法と、生きる意味を与えてくださいました。だからこそ私メはザハード様に従って連合軍に入ったのです」
「連合軍?」
「はい。私メとザハード様は五十余年前、自由連合軍所属の軍人でした」
「えっ? 五十余年前だって?!」
「はい」
ちょっと、待って。それじゃあグレンはいくつなの? ザハードは?
獣人たちは長く生きるということは知っている。
しかし目の前の男は、どう見てもエルナとそう歳が変わらないように見えるのに……。
(それに加えて五十年前といえば……盟主暗殺事件があった年ではないか?)
当時、ラカンタ連邦を血で統治していた残虐な盟主のせいで、ラカンタには血の絶える日がなかったという。
盟主の暴政は凄まじいもので、海の向こうの人族大陸にまで血の匂いが立ち込めるほどだったとのことだ。
(あまりにも残虐な首長だったため、人族大陸の歴史書にまで当時の事件が記録されていたわ)
永遠に続くかと思われた暴政は、盟主が暗殺されたことで突然終わりを迎えた。
その後、ラカンタの新しい首長となったのは炎鷹族の族長であり、今なおラカンタ連邦を率いる盟主ガレン。
(獣刑に処された軍人、暗殺、新しい盟主……)
頭の中に数々の思考が絡み合う。まさか。
「グレン。あなたとザハードの階級は? 名誉ある連合軍のあなたがたが……どうして獣刑に処されたの?」
エルナの問いにグレンの視線がエルナをとらえた。グレンがゆっくりと口角を持ち上げた。笑ってはいたが、その表情はひどく切なく見えた。
「エルナ様は聡明でいらっしゃいますね。ご推察のとおり、ザハード様……ザハード将軍と我が一族は、当時の盟主であったタピオンを殺害した罪で獣刑に処されました」
「……」
エルナの目は大きく見開かれた。もちろん予想はしていた。しかし真実だとするには納得がいかなかった。
「納得がいかないわ。タピオンは人族大陸にまで悪名が鳴り響くほど酷い盟主だったじゃない。彼を追い出してくれたあなたたちがどうして……」
「それが法であり、規律だからです。力を持つ誰かがしなければならないことでしたので、将軍はご自身の手を汚されたのです」
「……」
分かっている。エルナも王妃として国家を統治した経験があるからだ。
どれほど正義だとしても、国家の首長を暗殺することは一族を滅ぼす大逆罪だ。
誰もが望む選択をしたとしても、その責任から逃れることはできない法だからだ。
そして、誰も選ばない道を歩むのがザハードという人間だったからこそ。
唇を噛みしめるエルナを見つめながら、グレンが彼女の衣の裾をそっと引っ張った。
「そのような顔をなさらないでください。将軍に従う黒狐族の誰一人として、将軍の選択をとがめませんでした。ザハード様の業であるならば、喜んで皆が受けようとしたのです」
「獣刑に処されたのに……ザハードはどうやって人族大陸に来ることになったの? 彼の家族は……黒狐族はどうなったの」
「獣刑に処されると、その一族自体が消滅します。大部分の黒狐族には、慈悲深い他の部族が安息を与えてくれました」
慈悲……そういえば青雄族の三人柄も、本来はグレンに安息を与えるという名目で彼を殺そうとしていたっけ。
「ザハード様には、獣刑に追放刑まで加えられ、一生この地を踏むことができなくなりました」
「追放なんて……」
一族は皆、獣刑に処され、本人は獣刑に処された挙句、永遠に大地を踏むことのできない烙印を押されて追放される。
家族が、一族がどう暮らしているかも知れぬまま、ひとり故郷を離れなければならなかったザハードはどんな心情だっただろうか。
――だがお嬢様。俺は行けない。行かないのじゃない、行けないんだ。
あの時、エルナにそう言った時、ザハードは……。
あまりにも残酷な刑罰に胸が痛んだ。
「……人族大陸は獣人差別が激しい大陸です。暗殺事件当時、ザハード様は足に大きな負傷を負われた状態でした」
「あっ……」
氷の海を渡る最中、傷が悪化してしまったのだろうか。エルナが出会った当時、ザハードはすでに片足がない状態だった。
「私メはザハード様をお支えするため、氷の海を渡ろうとこの一帯に留まっておりました。ザハード様ならば何とか生き延びておられたと信じておりましたので。再びお目にかかれることを……望んでおりました」
グレンの声がかすれた。新しく知った事実たちがエルナの心を重く締め付けた。
(ザハード……あなたはどんな気持ちで私にこのペンダントを託したの?)
エルナがペンダントをぎゅっと握りしめた。その様子を見て、グレンが言葉を続けた。
「ザハード様がエルナ様に託されたペンダントは、連合軍の名誉勲章です。そのペンダントさえあれば、勲功者として様々な優遇を受けることができます」
「このペンダントが?」
「はい。ペンダントがあればラディオンで通行証を発行してもらうのもスムーズになるでしょう。エルナ様が人族であっても、ペンダントさえあれば迫害は減るはずです」
「……! ザハードは本当に……」
あなたは一体、どれだけのものを私に残していこうというの? ペンダントを握る手に力が入った。
(ザハード。あなたは私にこれほど多くのものをくれたのに。私はあなたに何を与えられるの?)
不名誉を背負ってまでも守ろうとした、あなたが愛したこの大陸で私にできることがあるだろうか。
あなたが誰よりも案じた家族のために、あなたとの再会を待ち続けて数十年間を耐え抜いてきたこの人のために、私にしてあげられることは何だろう。
下ろした視線の中に白い髪が映った。
連座制という名の下に無理やり罪を背負わされたにもかかわらず、誰も恨まない人。人間としての権利すら剥奪されたまま一生を生きていかなければならない人。
ザハードの大切な家族。
(……そうだ、私があげればいいんだわ)
ペンダントを握った手を下ろしたエルナが、グレンの頬を優しくなで下ろした。
「グレン。話してくれてありがとう。疲れたでしょう? 残りの話は明日にして、もう休んで」
「とんでもありません。私メは大丈夫です」
「お話しする日は今日だけじゃないもの。大丈夫よ」
グレンの頬に触れていたエルナの手が、彼のまぶたに触れた。温かい彼女の手が目元に触れると、急速に意識が閉ざされていくのが感じられた。
「グレン。私は絶対にあなたを捨てたりしないから。だから安心してよく眠って」
本当に疲れていたのだろうか。エルナが目を覆ってからそう時間が経たないうちに、グレンは気絶するように眠りに落ちた。そっとまぶたを覆っていた手を上げると、蒼白にやつれた顔が見えた。
エルナは額に乱れた彼の髪を優しく撫で上げてやった。
ザハード。私、決めたよ。
あなたが奪われたすべてのものを私が取り戻してあげる。
あなたが幸せにしてくれなかった分だけ。
私があなたの家族を幸せにしてあげる。
「安心して。私が必ず、あなたを守ってあげるから」
だから見守っていて。愛しているわ、ザハード。




