#22. 紅蓮。
エルナが落ち着きを取り戻したのは、それからさらにずいぶんと長い時間が流れた頃だった。いつの間にか暗くなった空からは、白い雪が音もなく降りしきっていた。
永遠に流れ続けるかと思われた涙が止まり始めた頃、ある程度会話ができるほどに回復したため、エルナはゆっくりと男の腕の中から抜け出した。
彼の白いシャツが涙で濡れてシミになっているのを見ていると、少し恥ずかしくなった。
「ごめんね。胸まで借りてしまって」
どれほど大声で泣いたのか、声がひどくかすれていた。
自分自身でも子供みたいだったと思いながら、真っ赤になった目をこするエルナの姿に、男は彼女の手をそっと包み込みながら言った。
「お嬢様。今の状態で目をこすると傷がつく恐れがあります」
「あっ、そうだったわね。ありがとう。分かっているのに無意識に……」
「とんでもないです。ザハード様のために泣いてくださり、ありがとうございます。ザハード様にお嬢様のような大切な方がいらっしゃったというだけで、ほんの少し心が軽くなります」
男の答えに、エルナの視線が彼へと向かった。ザハードとはまったく違う姿なのに妙に似ていると感じるのは、彼がザハードと同じ狐の獣人だからだろうか。
(香りもそうだし……)
その口からザハードの名前が呼ばれるのが、不慣れでありながらもどこか馴染み深く感じられる。
ぼんやりと男を見つめていたエルナは、自分が未だに彼の名前も、ザハードとどのような関係なのかも知らないということに気づき、はっとした表情を浮かべた。
「挨拶が遅れてごめんなさい。私の名前はエルナ・オルルテンスよ。あなたの名前も教えてもらえるかしら?」
「あっ……」
エルナの問いかけに、男が困惑した表情を浮かべた。名前を聞いただけなのに、なぜあんな表情をするのだろうか。エルナが首を傾げると、彼がためらいがちに答えた。
「あの、お嬢様。獣刑を……受けた獣人には名前がありません」
「あ……」
思いもよらない答えに、エルナの目が大きく見開かれた。獣刑とは、人間としての権利を奪うだけでなく、名前で呼ばれる資格すら失う刑罰だったのだろうか。
(一体……)
彼とザハードが犯した罪とは何なのだろうか。少し前、彼はザハードが軍人だと言っていた。
どの国でも同じだが、軍人は名誉ある職種だ。国民に代わって国家の名の下に最前線に立って戦う者たち。当然、彼らは国家の宝である。
ましてやここは獣人大陸ではないか? 大逆罪でも犯さない限り、彼らが重刑を宣告されることなどないはずなのに。
彼とザハードがどんな罪を犯したのかは分からない。
しかし、エルナは獣人大陸の人間でもないし、彼らに罪を問う資格を持つ人間でもないではないか。
「先ほども言ったわよね。私は絶対にあなたを獣人たちには引き渡さない。それから……獣刑のせいで名前がなくなったのなら、本来は名前を持っていたはずでしょう。その名前を教えてもらえないかしら?」
エルナの言葉に男の目が大きくなった。揺れる視線が、信じられないというようにエルナを映した。
ためらいの込められた彼の視線に対し、エルナは少し前に彼がしてくれたのと同じように、男の手を優しく包み込むように握った。
「もちろん、嫌なら断っても構わないわ。でも、私はあなたの名前が知りたいの」
「しかし……私メは罪人です。汚れた私メの名前を、お嬢様に口にさせてしまうことになれば……」
「私は獣人大陸の人間ではなく、一介の冒険者にすぎないわ。私がこの大陸の法度に従う必要はないでしょう?」
もちろん、それがとんでもない詭弁であることはエルナ自身も分かっていた。
しかし、彼は現時点でザハードとの思い出を共有できる唯一の人間だ。エルナは彼のことをもっと知りたかった。名前を、年齢を、ザハードとの関係を。
「何より……」
男について知るためなら、エルナはそれなりに多くのことができる。エルナが口角を上げて微笑んだ。泣いた後なので格好のつかない笑顔。だからこそ、飾ることなくありのままに表れた笑顔だった。
「ザハードが呼んでくれたあなたの名前を、私も呼びたいの。そして、ザハードが呼んでくれた私の名前を、あなたにも呼んでほしい。ダメかしら?」
エルナの願いに、男の目尻が細く和らいだ。笑った顔がとても美しいと思っていると、彼の声が柔らかく続いた。
「お嬢様が……エルナ様が望まれるのでしたら喜んで。エルナ様。私メはグレンと申します。どうか、ザハード様が名付けてくださった私メの名前を呼んでください」
「グレン。教えてくれてありがとう。私の名前を呼んでくれて本当に嬉しいわ」
「私メの方こそ、二度と呼ばれることのなかった名前を呼んでくださりありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
感情を静めるかのようにエルナの手を取り、祈るように額に当てた男――グレンは、やがて彼女の手を離して頭を下げた。
「淑女の手をむやみに握ってしまい、申し訳ありません」
「ううん、私の方から先に握ったのだもの。でも……手がとても冷たいわ。グレン、大丈夫?」
彼はまだ患者なのだから、長く話すことはできないかもしれない。エルナの心配そうな言葉に、グレンがゆっくりとうなずいた。
「エルナ様がとても丁寧に治療してくださったので大丈夫です。私メは何ともありませんので、よろしければもう少しだけお話をさせていただけないでしょうか? ハメルーンでのザハード様について伺いたいのです」
「もちろんよ。私もグレンの話を聞きたかったから。その代わり……」
エルナはグレンの肩を優しく押し、ベッドに横にならせた。そんなエルナの行動に、グレンの瞳が少し大きくなった。
「エルナ様?」
「顔色が良くないわ。お話は横になっていても十分にできるから、グレンには横になって休んでいてほしいの」
「とんでもありません。エルナ様が座っておられるのに、どうして私メが……」
「私は何ともないわ。これはお願いよ。まだ私たちは話さなければならないことが本当にたくさんあるから、グレンには早く体力を回復してほしいの」
反論は許さないと言わんばかりのエルナの言葉に、グレンは困惑した表情を浮かべながらも素直にベッドに横たわった。彼の肩に布団を掛けてあげながら、エルナが口を開いた。
「たぶん、私よりもグレンがしてくれなければならない話の方が多いでしょうね。だから、私から先に話を始めるわ。そうね……ええ。最初の出会いから話すのがいいわね。私がザハードに初めて出会ったのは……」




