#20. 宿にて(2)。
出会った青熊族の中にまともな人間が一人しかいなかったせいで、エルナは青熊族を人間が好きではない礼儀知らずの種族だと思い込んでいた。
ザハードはいつも、一つの面だけを見て全体を見ようとするなと言っていた。小さな一点に囚われていては、大きなものを見落とすことになると。
自分自身が偏った視野を持って世界を見ていることに気づいたエルナは、苦笑いを浮かべた。
(王城を出て冒険を始めることになったとはいえ、まだまだ私は井の中の蛙にすぎないみたいね)
広い心を持って、広く見渡すようにしよう。大丈夫、これ以上間違えたりはしない。
(だから、見守っていてね。ザハード)
首にかけたペンダントを固く握り締めながら、従業員に案内された部屋に入ったエルナは、難しい質問に誠実に答えてくれた代価として従業員にチップを渡した。
「お客様、こんなにたくさんのお金は受け取れません」
「あなたは私が気づけなかったことを教えてくれたわ。これは正当な代価よ。だから受け取ってちょうだい」
「いくら何でも銀貨一枚は過分すぎます。お客様。ラカンタの通貨単位がどうなっているかはご存じですよね?」
「もちろんよ」
ラカンタ連邦は人族大陸とは異なり、紙幣ではなく硬貨を貨幣として使う。
金貨、銀貨、銅貨で構成されたシンプルな貨幣は、戦時に溶かして武器や防具として活用できる金属の材質だ。効率を優先する獣人らしい選択と言える。
船員たちから聞いた物価の基準は、銅貨一枚がパン一個。銅貨百枚が集まると銀貨一枚。
銀貨十枚なら四人家族を基準とした一ヶ月分の食費になるため、チップとしては少々過分な部類に入るかもしれない。ただし――。
「心配いらないわ。あなたも気づいているでしょうけれど、私は貴族よ。たとえ冒険者として動いているとしても、貴族には施し、使うことが義務なのだから」
片目をウインクするように細めながらエルナが冗談めかして言うと、従業員は二度と断らなかった。
必要なものがあればいつでも呼んでほしいと呼び出しベルを差し出した従業員を見送り、エルナはやがて案内された部屋を見回した。
富裕層向けに主に貸し出している部屋らしく、内部には主人が使う大きな客室が一つ、そして使用人たちが使う客室が二つあった。
広々としたリビングにはソファとテーブル、そして小さなキッチンが備わっており、茶器が用意されていることからお茶を淹れられるように作られた空間のようだった。
柔らかな茶色のカーテンと、それより少し赤い色をしたラグ。暖炉から立ち上る炎。
建物の外観も故郷の様式だったこの宿は、内部もオルルテンス風にデザインされており、どこか懐かしさを呼び起こした。
氷の海を渡り、ラディオンに到着するまでは故郷が恋しいなどとは微塵も思わなかったのに。
このような場所で郷愁を感じると、笑みがこぼれると同時に会いたいという思いが湧いてきた。
(家族たちは元気かしら? 父様がいらっしゃるから大丈夫だろうけれど……)
父親であるオルルテンス公爵は、家族を何よりも大切にする手腕家だ。父様なら、国が多少混乱していようとも問題なく乗り切るだろう。
(まあ、兄上や姉上たちもいるし、何の問題もないはずよね。むしろ、人族大陸に戻ったときには国の名前がオルルテンスに変わっているんじゃないかと心配だわ)
他愛のない考えだとエルナ自身も分かっていた。しかし、まったく実現不可能な話でもないだけに、本当にそうなったらどうしようかと思ってしまう。
そんな悩みを続けるのはこれくらいにして、今エルナが悩まなければならないのはこんなことではない。
エルナは身を翻し、一番大きな客室へと歩みを進めた。そして、防音魔法と保護魔法を何重にも張り巡らせた。
それから、成人男性五、六人は楽に横になれるほどの大きなベッドに近づき、狐を下ろすためにコートをめくった。
「あら? 起きていらしたのね」
いつから起きていたのか、狐が透明な赤い瞳でこちらを見上げていた。エルナと目が合うと、狐が小さくうなずき、懐から出たいのか小さくもぞもぞと動き始めた。
(もしかして……本当に獣人ってすごいのかしら? これ、油断すると流されてしまいそうね)
人間の姿のときも息が詰まるほど端正だと思ったが、こうして見るとこの獣人は狐の姿のときですら心臓が痛むほど愛らしい外形をしていた。
保護欲を自然と引き起こすその姿に、気持ちをしっかりと引き締めなければと考えながら、エルナは傷に負担がかからないよう慎重に狐をベッドに下ろした。
「ここでは人間の姿に戻ってくださって大丈夫よ。狐の姿では会話が難しいでしょう?」
エルナの問いかけに、狐がもう一度うなずいた。そしてエルナをじっと見つめた。
む?
「あの、何かお願いごとでもおありですか?」
すると狐は少し考えるような表情を浮かべた後、体を後ろに向けた。
(むっ。あっ!)
彼の行動から言いたいことを察したエルナは、すかさず体を後ろに向けた。
テントの中では状況が状況だっただけに深く考えずにやり過ごしたが、この狐、あのときも服を着ていなかったっけ。
(まあ、狐の状態なら服を着る必要なんてないからね)
ベッドシーツで体は隠していたものの、綺麗に隠しきれていたわけではなかった。
包帯が破れなかったのは不幸中の幸いと言えるのだろうか。そういえば、包帯はどうやって無事だったんだろうか。
そんなあれこれを考えていると、背後から彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。
「お手間をとらせて申し訳ありません。もうご覧いただいても大丈夫です」
「ううん、とんでもないわ。私の方こそ気が回らなくて……あら?」
体を翻して前を向くと、季節外れの服を奇妙にまとっている男の姿があった。驚いたエルナがまばたきをすると、彼は疲れた声を絞り出すように言葉を続けた。
「魔法で作ったものです。今の私の魔力では複雑な服を作り出すことができなくて……このような姿でお見合いすることになり、申し訳ありません」
「まあ、そんなことは気にしないけれど……すごいわね。服を作り出すことができるなんて」
「獣人なら誰でも使える基本魔法です。外見を変更する機会がそうそうあるわけではありませんが、全くないわけでもありませんからね。その都度全裸で歩き回るわけにもいきませんし」
「なるほど……そうね。体格が大きいからといってそれがすべてというわけではないものね」




