第六十九話 月が綺麗、ですわ
しとしとと雨が傘を叩く音だけを聞きながら、私と枇々木先生は歩を進める。
事情があるとは言え、それでも相合い傘が恥ずかしくて繁華街を避けたルートを選んで歩いているから、この時間だとすれ違う人はほとんどいないわ。
だから、ただただ周りが静かで。なにか話題を探してはみるのだけれど、うまく思いつかなくて。
うう。正直気まずいわ。
なんとなく枇々木先生の方が見られなくて、ずっと下を向いていたのだけれど、それすら耐えられなくなって、私は空を見た。
「あ」
思わず声が漏れたわ。
狐の嫁入り現象自体、前世を含めたって片手で足りるくらいしか経験してないのだけれど、思えばそれも全部昼間のことで、雨が降ってる中、満月を眺めるなんて初めての経験。
だから、なんだかとても特別なものに見えたの。
「ねえ、枇々木先生」
「どうした?」
「月が綺麗ね」
「ぶっ!? ごほごほごほっ」
枇々木先生は突然吹き出して大げさに咳き込む。
「どうしまして!?」
なんだか顔も赤いし、夏風邪かしら。もしかして、私のほうばっかり傘に入っていて、枇々木先生が濡れてしまっていた? それなら悪いことしちゃったわね。
「伊妻……『こゝろ』の作者は?」
「えっ、急に何ですの!?」
文学史の問題? どうして急に?
「いいから」
「えっと、太宰治?」
「そうか、いや、いいんだ。それならなんでもない」
うーん、全く意味がわからないわ。
「大丈夫でして?」
私は半歩前に出て、枇々木先生の顔を覗き見る。枇々木先生は、私からふっと目をそらしてぼそりと言った。
「いや……その。伊妻。月が綺麗だな」
「それ私がさっき言ったわよ!?」
話を聞いていなかったのかと、私はむっとしたけれど。
「いや、そうじゃなくて、だな。――ああ、もう。伊妻はもう少し文学史の勉強をしろ」
「なっ!」
そんなの、わかっていてよ! 馬淵君に負けたのはさすがにまずいと思ったし、今日だって帰ったら勉強するつもりだったんだから――!
言い返そうとしたけれど、ふと頬を幾筋もの水が濡らして、びっくりして言葉が引っ込んじゃう。
ぱた、と、傘が地面に落ちる音が聞こえて、それと同時にがっしりとした感触が私を包む。
「……枇々木、先生?」
自分が抱きしめられていると気づくまで、三秒ぐらいかかった気がする。
え? なんで? どうして? どうして枇々木先生が――。
「伊妻、一つ覚えておけ」
私がうろたえているのもかまわず、枇々木先生は私の耳元で囁く。吐息がかかる耳が熱い。何故かしら、胸がどきどきする。
「『月が綺麗ですね』の意味はな――」
「I love you」




