【第9話】罪悪感
眠れなかった。
薄い布団の中で、何度も寝返りを打つ。夏の夜は蒸し暑く、蚊の羽音がしつこく耳元をかすめる。だが眠れないのは暑さのせいではない。
頭の中で、自分の声が何度も再生されていた。
「すべてが、一人を通りすぎています」
「もし、この部屋がなくなったら」
言ってしまった言葉は取り消せない。
雪斎の顔を思い出す。あの「わしも、薄々そう思うておった」という声。疲れた、どこか諦めたような響き。
あの瞬間、東海一の知恵者は、ただの老人に見えた。
僕は闇の天井を見つめたまま、修論の草稿を思い出していた。
大学の研究室で、何十回と書き直した文章。指導教官に赤ペンで直され、「もっと客観的に」と突き返された、あの論文の冒頭。
『太原雪斎の死後、今川家は急速に意思決定能力を喪失した。これは雪斎個人の能力に依存した統治構造の必然的帰結であり——』
客観的に。
僕はあの文章を、冷静な分析のつもりで書いていた。
だが今、僕はその「分析対象」の只中にいる。帳簿を整理し、餅をもらい、愚痴を聞き、老人の疲れた声を聞いている。
(僕は何をしようとしている?)
布団の中で、拳を握った。
研究対象を、救おうとしているのか。
それとも——歴史をどう変えられるか、試そうとしているのか。
区別がつかなかった。
権限集中の問題を指摘した。それは正しい分析だ。だが、なぜ僕がそれをこの時代の当事者に伝える必要があった? 学術的な正しさと、歴史に介入する正当性は、まったく別の問題だ。
もし僕の言葉で雪斎が何かを変えたら。
それは「救済」なのか、「実験」なのか。
知っている者には、伝える義務があるのか? それとも、知っているからこそ黙る義務があるのか?
答えは出ない。出るはずがない。こんな状況は、どんな倫理学の教科書にも載っていない。
歴史は、観察するものだ。触れるものじゃない。
あのゼミで、僕は声高にそう主張していた。
「あなたの修論自体が、反実仮想じゃない?」
教授の声が、脳裏に蘇る。
あの時は理解できなかった言葉が、今、腹に落ちる。
歴史を語る時、僕はいつも死者に意味を与えていた。勝手に分類し、名前をつけ、因果の線を引いていた。歴史を語ること自体が、すでに歴史に触れることだったのだ。ましてや、生きた当事者の前で。
先生。僕は今、その反実仮想の中にいます。しかも、自分の手でそれを作り始めてしまったかもしれない。
寝返りを打った。板敷きの床が、骨に響く。天井の板目を数える。七つ、八つ、九つ。数えても眺めても、思考は止まらない。
本堂の方から、微かに香の匂いが流れてくる。誰かが夜の勤行をしているのだろう。この寺は僕が悶々と悩んでいる間も、静かに動いている。
修論の別の節が浮かぶ。
『雪斎の死後、今川家には、彼の機能を引き継ぐための制度的基盤が一切残されていなかった。これは組織的空白の典型例であり——』
組織的空白。
僕はその言葉を、学術用語として使っていた。だが今はわかる。「空白」の向こう側に、生身の人間がいるのだ。その人間が、毎日死ぬ気で働いて、それでも足りなくて、「空白」が生まれる。
だが——。
そこで、別の記憶が割り込んでくる。
岡部の笑顔だ。
「ほら、一休みだ。安倍川の餅だよ」
人の良い、屈託のない笑い方。
あの男は、後に主君の首を取り返すために死地に飛び込む。
その忠義を、僕は論文の注釈で「岡部元信の行動は今川家臣団の結束力の残滓を示す」と書いた。
「残滓」。
あの温かい笑顔を、僕はその一語で片づけたのだ。安倍川の餅を分けてくれた手を、「崩壊する組織の残滓」と呼んだのだ。研究室でそれを書いた時、僕は何も感じなかった。今は、胸が疼く。
そして、雪斎の声。
「代わりがおらぬ。任せられる者がおらぬから、わしが裁くしかない」
あの声の中にあった、わずかな疲労。
東海一の知恵者は、自分の限界を知っていた。知っていて、なお背負い続けていた。
論文の中の「分析対象」は、もう分析対象ではなかった。
岡部は気さくに餅を分けてくれる若者で、雪斎は途方もない重荷を一人で背負う老人だ。
歴史を変えるな、と頭は言う。
だが、目の前で人が苦しんでいるのを見て、知っていることを黙っていられるのか。
「正しい歴史」を守るために、この人たちを見殺しにするのが、学問の誠実さなのか。
答えは出なかった。
窓の外が、白み始めていた。遠くで鶯が鳴き始めた。
……結局、僕を動かすのは倫理ではないのだろう。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。ただ、あの笑顔と、あの声を、放っておけないだけだ。
本堂から朝の勤行の音が聞こえる。廊下を若い僧たちが掃き清めていく気配。世界はいつもどおりに動いている。
僕は布団から起き上がり、着替えた。手が少し震えていた。睡眠不足のせいだと思うことにした。目を擦ると、視界がぼやけた。この調子では、今日の帳簿の数字が二重に見えるだろう。
何も決まっていない。何も覚悟できていない。
ただ、今日もあの部屋に行く。帳簿を整理し、雪斎の隣に座る。それだけは、確かだった。
奥の部屋の前に立つと、すでに墨の匂いがしていた。
「入れ」
まだ戸も叩いていないのに、雪斎の声がした。




