【第10話】駿府
部屋に入ると、雪斎は帳簿ではなく衣を広げていた。
「今日は御館に参る。お前も来い」
声は平静を装ったが、胸の奥が騒いだ。
御館。今川義元の居館だ。修論で何百回と名前を書いた人物に、会う。
「余計なことは喋るな。聞かれたことだけ答えろ」
雪斎はそれだけ告げて、先に立った。
臨済寺から今川館までは近い。ゆるやかな坂を下り、武家屋敷の通りを抜ければ、もう館の門が見える。
だがその短い道のりで、空気が変わった。寺の静けさとは違う、人と馬と商いの喧騒。街道沿いの商家からは味噌の匂い、魚を干す匂い、材木の匂いが重なり合って押し寄せてくる。荷を積んだ牛が道をふさぎ、それを避けた馬が嘶いて、馬上の侍が怒鳴っている。
駿府は、生きている街だった。
帳簿の上の数字ではない、生身の経済がここにある。遠江から運ばれた材木が道端に積まれ、清水の湊から揚がった干魚が荷解きされ、職人たちが声を張り上げている。橋のたもとでは女たちが洗い物をしながら笑い声を立てていた。この活気を支えている仕組みの一端を、僕は帳簿の側から知っている。だが実物を見るのは初めてだった。
館の門を潜ると、雪斎の姿を見た家臣たちが一斉に姿勢を正した。この男がどれほどの存在か、周囲の反応だけでわかる。僕は三歩後ろを歩きながら、できるだけ小さくなっていた。
城というより、政庁だった。矢狭間や石垣の威圧ではなく、整えられた庭と磨かれた廊下、控える家臣の数で人を圧する場所だった。どこからか香の匂いが漂ってくる。武家の館でありながら、京の公家屋敷を思わせる空気がある。
広間に通された。
奥の一段高い席に、男が座っていた。
今川義元。
桶狭間で討ち死にする公家かぶれの凡将——という教科書的なイメージが、一瞬で崩れた。
痩せてはいない。だが肥満でもない。公家風の装いの下に、武家の骨格がしっかりと透けている。何より目が鋭い。部屋に入った瞬間、僕の存在を捉え、一瞬だけ値踏みし、すぐに雪斎へ視線を戻した。
あの目は統治者の目だ。二ヶ国を束ねる男の目。
義元の傍らに、少年が一人座っていた。十二、三歳だろうか。顔立ちは義元に似ているが、まだ幼さが残っている。背筋だけはぴんと伸ばしていた。
氏真。今川家の嫡男。のちに家を失う青年——だが今はまだ、父の隣で懸命に大人の顔をしている少年だった。
「雪斎。遅いぞ」
「御屋形様にお伝えすることが多うございまして」
雪斎の返答には、僧侶らしい柔らかさと、どこか対等な親しさがあった。主従であり、師弟でもある。義元を幼少から教育したのが雪斎だという史実が、この空気の中で腑に落ちた。
二人のやりとりを、僕は末席で聞いていた。
遠江の検地結果、商人衆への課税方針、三河との境目の問題。僕が帳簿で見てきた数字が、ここで政治的な判断に変わっていく。雪斎が淡々と報告し、義元が簡潔に裁く。
「浅羽庄の件は代官を替えよ。言を左右にする者に二度目はない」
一言で終わる。迷いがない。二人の呼吸は驚くほど合っていた。
氏真は黙って聞いている。時折、知らない言葉が出てくるのか、小さく首を傾げていた。だがそれを問い返す勇気はまだないようで、すぐに表情を引き締め直す。誰もそれに気づかない。気づいても、構わない。
この少年がのちに蹴鞠と和歌に耽る暗君として語られることを、僕は知っている。だが今、この子は父の横で必死に背筋を伸ばしている。それだけが、今のこの子の真実だった。
この二人がいる限り、今川は盤石だ。
——だが。
僕は思考を打ち切った。また同じところに戻りかけている。
報告が一段落し、雪斎と義元が密談に入った。僕は廊下で待つよう言われ、広間を出た。
庭に面した廊下に腰を下ろし、中庭を眺めていた。池があり、石が配され、松の枝が低く這うように伸びている。初夏の日差しが水面に跳ね返り、白い光が天井板にちらちらと揺れていた。寺に運び込まれたあの日からすでに二ヶ月あまりが過ぎ、季節は初夏へと塗り替わっていた。
その池の端で、子供が一人、地面にしゃがみ込んでいた。
七つか八つか。痩せぎすで、着ている物は上等だが、袖が余って手首が隠れている。仕立て直しではなく、誰かの古着だろう。他家の子供なら走り回っている歳だ。だがこの子は地面の一点を、微動だにせず見つめている。蟻だ。蟻の行列を、じっと観察していた。傍に遊び相手はいない。
子供が顔を上げた。僕と目が合う。
人懐こい笑顔ではなかった。探るような、妙に落ち着いた視線。大人に慣れている目だった。それも、自分に好意を持たない大人に。
「お前、雪斎さまの?」
声は高いが、はっきりしていた。
「はい。お傍で帳簿の整理を」
「ふうん」
興味を失ったように、子供はまた蟻に視線を戻した。
僕の中で、何かが軋んだ。
この子は人質だ。三河から今川に預けられた、松平家の嫡男。
竹千代。
のちの徳川家康。
背筋が凍った。
知識としては知っていた。この時期、竹千代が駿府に人質として置かれていることは。だが文献上の事実と、目の前の痩せた子供が結びついた瞬間、足元が揺れた。
この子が、天下を取る。
義元が死に、雪斎が死に、今川が滅んだあと——この子が立ち上がり、三百年の太平を築く。
今、僕の目の前で蟻を数えている、この痩せた子供が。
「蟻って、先頭がいなくなっても止まらないんだ」
竹千代が、地面を見つめたまま呟いた。
「二番目のやつが、すぐ先頭になる。面白いだろ」
僕は何も答えられなかった。




