【第11話】合わない帳面
その日、臨済寺の空気は、朝から張り詰めていた。
初夏の陽が強くなり始め、庭の青葉が日ごとに色を深めている頃だった。
蔵の米が、合わない。
僕がそれを知ったのは、いつものように奥の院で帳簿と向き合っていた昼過ぎのことだった。廊下の向こうから、押し殺した怒声と、すすり泣きのような声が漏れ聞こえてきた。
覗いてみると、蔵の前で、数人の僧と下働きが一人の若い坊主を取り囲んでいた。宗円という、まだ十五、六の小坊主だ。痩せていて、いつも俯きがちで、口を開けば言葉に詰まる。寺の中でも、あまり目立たない子だった。
「正直に申せ。米を持ち出したのは、お前だろう」
「ち、違います。私は、ただ蔵の出し入れを、任されていただけで……」
「ならばなぜ、帳面と数が合わぬ。この半月で、五斗も足りぬのだぞ」
宗円は、真っ青な顔で首を振るばかりだった。うまく弁明できない。言葉が出てこない。ただ「違います」と繰り返すその姿は、見ていて痛々しかった。
僕は、その光景から目を離せなかった。
余所者。
その言葉が、頭の奥で疼いた。素性も知れず、経の一つも読めず、ただ雪斎様に拾われただけの僕。この寺で、僕もまた、宗円と同じ「うまく居場所を持てない者」だった。周りの僧たちは、僕を「雪斎様のお気に入り」として、どこかよそよそしく扱う。親しく口をきく者は、いない。
俯いて言葉に詰まる宗円の姿が、他人事とは思えなかった。
「……あの」
気づけば、僕は声を出していた。全員の視線が、一斉にこちらを向く。
「右筆殿が、何用か」という、どこか刺のある目だった。
「その帳面、見せていただけませんか」
蔵を仕切る古参の僧――良庵という、宗円の世話役でもある老僧が、訝しげに眉を寄せた。だが、しばらく僕を見つめたあと、黙って帳面を差し出した。
僕は、それを受け取った。
蔵の出納帳。米、味噌、油。日付ごとに、几帳面な字で記されている。宗円がつけたものだろう。数字そのものに、ごまかした跡はない。真面目な、正直な帳面だった。
だが――僕は、すぐに違和感を覚えた。
この帳面は、蔵の出し入れ「だけ」しか記していない。
僕は雪斎様の下で、寺領や台所まわりの帳面をいくつも整理している。蔵の帳面だけではない。台所の煮炊きの記録。法要の供物の覚書。来客をもてなした饗応の控え。それらは全部、別々の場所で、別々の者が、別々につけている。誰も、それを横に並べて突き合わせてなどいない。
「……少し、他の帳面も、確かめさせてください」
僕は奥の院に戻り、この半月分の記録をかき集めた。台所方の覚書。先日の法要の供物帳。そして、東国から客僧を迎えた際の饗応の控え。
畳の上に、それらを一枚ずつ並べていく。
そして、指で追いながら、日付を合わせていった。
――あった。
蔵から出された米。その行き先が、ちゃんと、別の帳面に記されていた。
半月前の大きな法要で、供物と斎の膳に使われた米。それが三斗。東国からの客僧を三日にわたってもてなした際の、饗応の米。それが、二斗。
どちらも、正当に、寺のために使われた米だった。盗まれてなど、いなかった。
ただ――蔵の帳面には「出した」と書かれ、台所や供物の帳面には「使った」と書かれ、その二つを結びつける者が、どこにもいなかった。だから、蔵の側から見れば、米はただ「消えた」ように見えた。それだけのことだった。
僕は、三枚の帳面を手に、蔵の前へ戻った。
「宗円さんは、何も盗んでいません」
僕は、静かに言った。
「この五斗は、半月前の法要と、東国の客僧のもてなしに使われています。ほら、ここ。蔵の帳面の『三月十八日、米三斗搬出』。これが、供物帳の『十八日、斎の膳、米三斗』と、日付も数も合っています。残りの二斗は、饗応の控えのこの行です」
僕は、三枚の帳面の、対応する箇所を順に指し示した。
「蔵の帳面だけを見れば、米は消えたように見える。でも、寺じゅうの帳面を並べれば、米はちゃんと、行くべきところへ行っています。宗円さんの付け方は、何も間違っていません。ただ、帳面が、別々だっただけです」
沈黙が流れた。
良庵老師が、僕の手元の帳面を、食い入るように見つめた。それから、ゆっくりと、三枚を見比べ――やがて、深く、長い息を吐いた。
「……まことだ。日付が、合うておる」
老師は、宗円を振り返った。宗円は、まだ事態が飲み込めていないような、呆けた顔をしていた。
「宗円。すまなんだ。わしが、蔵の帳面しか見ておらなんだ。お前を、疑うてしまった」
宗円の目に、みるみる涙が盛り上がった。それを袖で乱暴に拭って、彼は何度も、何度も頭を下げた。
「右筆、殿……」
宗円が、僕の方を向いた。何か言おうとして、また言葉に詰まる。口下手なのは、こういう時も同じらしい。ただ、ぐしゃぐしゃの顔で、彼は言った。
「あ、ありがとう、ございます……!」
僕は、少し笑った。
その日の夕餉、僕の膳には、いつもより一切れ多く香の物がついていた。台所方の、ささやかな詫びと礼のつもりらしかった。
そして、蔵の前で僕を刺すように見ていた僧たちの目が、少しだけ、変わっていた。
「右筆殿」と、良庵老師が、帰り際に僕を呼び止めた。
「あの帳面の見方……あれは、どこで習うた」
僕は、答えに詰まった。まさか、四百年後の世で、と言えるはずもない。
「……なんとなく、です。ばらばらのものを、一つに並べてみると、見えてくるものがある。それだけのことです」
「ふむ」
老師は、それ以上は問わなかった。ただ、皺だらけの顔を、ふっと緩めた。
「よそから来た、得体の知れぬお人だと思うておったが。……お前さんは、良う人を見ておる。宗円のような、口下手な子の側に、立ってやれる人だ」
その一言が、じんわりと、胸の奥に染みた。
この寺に来て以来、初めて。僕は、「雪斎様のお気に入り」ではなく、僕自身として、誰かに認められた気がした。
余所者の僕にも、居場所が、ほんの少しだけできた。そんな夜だった。
だが――床に就いて、天井を見上げていると、じわりと、別の思いが滲んでくる。
米五斗の在処なら、帳面を並べれば分かる。
けれど、僕が本当に知っている「合わないもの」は、そんな小さな話ではない。
あと五年で、雪斎様は死ぬ。それから五年で、今川は桶狭間へ向かう。僕はその全部を知っていて――そのどれ一つ、帳面を並べるように、たやすく解いてやることはできない。
宗円の涙は拭えたのに。
それでも、いつの間にか眠っていた。宗円の涙と、雪斎様の咳が、夢の中で同じ帳面の上に並んでいた。




