【第8話】後知恵
あの問いが、頭から離れなかった。
「岡部の言葉、どう聞いた」
あれから三日。雪斎はあの問いを繰り返さなかった。いつも通り、淡々と帳簿を僕の前に積み、淡々と裁断を下し、淡々と筆を走らせている。まるで何も聞かなかったかのように。
だが、僕にはわかる。あの問いは、まだ宙に浮いたまま消えていない。
雪斎は待っている。僕が自分から口を開くのを。
答えてはいけない。
答えれば、それはこの男に——この時代の人間に——五百年後の知識を渡すことになる。
歴史は、観察するものだ。触れるものじゃない。
僕はゼミでそう言い続けてきた。歴史学徒にとって、それは鉄則だ。いや、鉄則であるべきだ。
……だが。
目の前の帳簿に並ぶ数字を、僕は機械的に検算しながら、頭の別の場所で考え続けていた。
岡部の愚痴は正しい。
雪斎が有能すぎるのだ。彼の処理速度に、家臣団が追いつけていない。命令は的確だが、実行に必要な時間と人手を考慮していない。いや、考慮する必要がないほど、雪斎自身が速いのだ。
だから、彼がいなくなった時——。
僕はそこで思考を止めた。止めなければならなかった。
だが、止めても、すぐに同じ思考が復活する。帳簿の数字を追う指先が止まり、気がつけばまた考えている。三日間、その繰り返しだった。胃が重く、飯がのどを通らない。
その日の夕刻。
帳簿の検算が一段落し、僕が筆を置こうとした時、雪斎が不意に口を開いた。
「圭。お前はこの駿遠を、どう見ている」
唐突な問いだった。
だが、唐突ではない。三日前の問いの続きだ。雪斎は三日かけて、問いの形を変えてきたのだ。
雪斎は「駿遠」と言った。三河とは言わなかった。あの国はまだ、今川のものになりきっていない——雪斎の言葉選びは、いつも正確だ。
「どう……とは」
「遠江の検地帳も、商人衆の運上金も、お前の手を通っている。この国は富んでおるか。弱いか。……どこに、病がある」
僕は言葉を選んだ。慎重に。この時代の人間が持ちうる観察力の範囲で答えなければならない。
「……富んでいると思います。駿河の湊、遠江の田畑、街道の往来。数字だけ見れば、周囲のどの国にも劣りません」
「だが?」
雪斎の目が、僕を射る。
この男は「だが」の先を聞きたいのだ。
言うな。言ってはいけない。
だが、口が動いた。修論を何百回と書き直した体が、問いに対して反射的に答えを返してしまった。
「……すべてが、一人を通りすぎています」
言ってしまった。
雪斎の筆が、止まった。
「検地の裁定も。商人への課税も。訴えの処理も。全部が、この部屋に届いて、この部屋から出ていく。今はそれで回っています。でも、もし……」
止まれ。止まれ。頭の中で警報が鳴っている。
「もし、何だ」
「もし、この部屋が……なくなったら」
声が震えていた。
自分が何を言っているのか、わかっている。雪斎の死後に今川家が崩壊する——その核心を、本人の前で語ってしまっている。
長い沈黙が降りた。
外では蝉が鳴いていた。やかましいほどの声が、かえってこの沈黙の重さを際立たせていた。
「続けよ」
雪斎の声には、怒りがなかった。脅しも、驚きもなかった。ただ、静かな——どこか渇いた関心だけがあった。
「……今のまま、すべてが一人の判断に集まる仕組みでは、その一人が欠けた瞬間、命令を出す者がいなくなります。帳簿の検算一つとっても、今は雪斎様が裁いているから速い。でも、その速さに慣れた現場は、自分で判断する力を——」
「育てておらぬ、と」
雪斎が、僕の言葉を引き取った。
僕は黙った。もう取り返しがつかない。
雪斎は長いあいだ、何も言わなかった。
やがて、静かに筆を取り直した。
「……わしも、薄々そう思うておった」
その声は、どこか疲れていた。
東海一の知恵者が、自分の限界を——自分が作り上げた仕組みの歪みを、認めた瞬間だった。
「だが、代わりがおらぬ。任せられる者がおらぬから、わしが裁くしかない。それが、どういうことか……お前には、見えているのだな」
僕は何も答えられなかった。答える資格がなかった。
僕は知っているのだ。この男が、あと五年で死ぬことを。そして、その死後に何が起きるかを。
初めて、雪斎の背中が小さく見えた。
いつもは底知れない威圧感を纏っているこの禅僧が、今はただ、途方もない重荷を一人で背負い続ける老人に見えた。二ヶ国の、すべてを。たった一人で。
それを本人も自覚している。自覚した上で、代わりがいないから背負い続けている。
雪斎は再び筆を走らせ始めた。
だが、その筆音は、いつもより少しだけ遅かった。
「今日はもうよい。下がれ」
僕は震える膝で立ち上がり、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、壁に手をついた。呼吸が荒い。
夕暮れの光が板壁の隙間から差し込み、僕の足元に細い線を引いていた。
言ってしまった。歴史に、触れてしまった。
五百年後の「後知恵」を、僕はたった今、当事者に手渡してしまったのだ。




