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【第7話】書記官

遠江とおとうみの浅羽庄から上がった検地の帳簿、三郷分。数字の検算は終わりました。石高の合計は合っていますが、水害を理由にした年貢の免除申請が、過去三年の記録と比べて不自然に多いです」

「横に置け。後で現地の代官を呼びつけて直接詰問する。次」


雪斎は手元の筆を休めることなく、僕の報告に即座に裁断を下す。


「はい。次は駿府の商人衆からの運上金の目録です」

「先月のものと付け合わせて差異を書き出しておけ。一文でも誤魔化しがあれば許さん」


「承知しました」


あの恐ろしい宣告から数日。僕は臨済寺の奥の院で、果てしない紙の山と格闘していた。

薪割りや水汲みからは解放された。その代わり、夜明けから日暮れまで、太原雪斎の傍らでひたすら帳簿の計算と分類、そして内容の要約を命じられている。毛筆での代筆は早々に諦められた。現代人の僕が書く字など、この時代の人間からすれば幼児の落書きに等しかったからだ。


最初に触らされたのは寺領の出納帳だけだった。「余計な書状には触れるな」と念を押されて。だが、数字の検算と帳簿の整理を淡々とこなすうちに、数日で検地帳や商人衆の目録にまで範囲が広がった。雪斎は何も言わない。ただ、僕の手元に置く紙の束が日ごとに増えていくだけだ。


もっとも、すべてを任されたわけではない。部屋の隅には封をした別の木箱がある。他国への書状、境目の備えに関する報告、そして間者からの密書。それらは雪斎が自ら開き、自ら読み、自ら処理する。僕がその箱に手を伸ばすことは許されていない。

それでも——同じ部屋にいれば、断片は耳に入る。雪斎が口述する返書の文言。小声で読み上げる地名。それだけで、今川家がどれほど広い範囲に目を光らせているかが伝わってきた。


すべてが読めるわけでもなかった。くずし字は、見慣れた定型句や数字ならすぐに拾えるが、書き手の癖が強い文書にはしばしば詰まった。地名も知らないものが多い。修論で何度も読んだ今川家の古文書とは、紙質も筆致もまるで違う。当たり前だ。あれは何百年も経った「遺物」で、これは昨日書かれたばかりの「生きた文書」なのだから。


その「生きた文書」が、僕にひとつの事実を突きつけた。

検地帳の奥書に、日付があった。「天文十九年三月」。

指先が、紙の上で止まった。天文十九年。頭の中で、西暦に変換する。……一五五〇年。

森で行商人と会った時は、「雪斎が生きている」という一点から、せいぜい一五五〇年代の前半、としか絞れなかった。それが今、はっきりと確定した。天文十九年、一五五〇年。三月。

そして——その数字は、別の数字を呼び起こす。

太原雪斎の没年は、弘治元年。一五五五年。

あと五年。

この人が生きているのは、あと五年だ。目の前で筆を走らせている、この禅僧が。僕はその年を、この人自身より正確に知っている。背筋を、冷たいものが伝った。


それでも僕は、この仕事に没頭していた。


ここ数日で、僕は思い知らされていた。


目の前に積み上がった帳簿の山を見る。一番上は、さっき僕が検算した遠江の検地帳。その下には、領内の村同士の水争いの訴え。全部が、この部屋に届く。全部を、奥の上座に座るあの一人の禅僧が裁く。


検地も。訴訟も。商人への課税も。寺社の人事も。

二ヶ国——間もなく三河を含めた三ヶ国——を治める今川家の、ありとあらゆる決定が、この一室を通っていくのだ。


僕の修士論文のテーマは『今川家臣団の意思決定構造——太原雪斎の権限集中と、その後の組織的空白』だった。

何百年も後の研究室で、残された古文書の断片からしか想像できなかった「権限集中」の現場が、今、むせ返るような墨の匂いと和紙の手触りを伴って、僕の目の前にある。


「圭殿。……圭殿!」


小声で呼ばれ、我に返った。

縁側に、一人の若い武士が立っていた。年齢は僕と同じか、少し下くらいだろう。日に焼けた精悍な顔つきに、人の良さそうな困惑を浮かべている。


「ああ、岡部殿。申し訳ありません、少し考え事をしていて」


岡部次郎右衛門おかべ・じろうえもん。駿河の有力国衆、岡部家の若武者だ。雪斎への報告のために頻繁に寺を訪れるため、ここ数日で顔見知りになった。


「いや、無理もない。雪斎様の仕事の速さは尋常ではないからな。付き従うだけで寿命が縮む思いだろう」

岡部は同情するように笑い、抱えていた木箱を縁側に置いた。

「興津の湊からの報告書と、検地帳だ。……しかし、圭殿は本当に見事に紙束を捌くのだな」


岡部は、僕の背後に並べられた書状の束を見て目を丸くした。

「以前の右筆ゆうひつの者は、部屋中を紙の海にして、必要なものを探し出すだけで半日かかっていたというのに。圭殿は、どうやって整理しているのだ?」


「ああ、これは……内容ごとに場所を分けているだけです」

僕は控えめに答えた。

「戦の備えと、領内の年貢と、他国への書状と、訴え事。それぞれ場所を分けて、届いた順に並べているだけです。あとは雪斎様がお読みになったものと、まだのものを分けて置いているだけですよ」


現代のオフィスワークでは基本中の基本。単なる「フォルダ分け」と「時系列ソート」、そして「タスク管理(未完了・完了)」の概念だ。だが、この時代の人間にとっては、情報を体系的に整理するという概念自体が画期的らしい。


「見事なものだ。武士でもなく、僧でもないのに、雪斎様があれほど傍に置きたがるのも頷ける」

岡部は感心したように頷いた。


ちょうどその時、廊下を小走りに近づく足音がして、若い僧が顔を覗かせた。

「住持様、甲斐よりお客様がお見えです」

雪斎は筆を置き、無言で立ち上がった。僕にも岡部にも目をくれず、音もなく部屋を出ていく。


僕と岡部が縁側に残される。張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。


岡部は大きく息を吐くと、懐から竹の皮で包んだ小さな包みを取り出した。

「ほら、一休みだ。安倍川の餅だよ。頭を使うと腹が減るだろう」


「ありがとうございます。助かります」


僕は包みを受け取った。きな粉の香ばしい匂いが漂ってくる。現代の洗練された和菓子には遠く及ばないが、素朴な甘さは今の僕には何よりの御馳走に思えた。


「それにしても」

岡部は縁側に腰を下ろし、声がわずかに小さくなった。

「雪斎様は、我ら凡人を過大評価しすぎるところがある。昨日『湊の税率を改めよ』と命じたかと思えば、今日には『その分の銭はどうした』と問われる。現場の者たちがどれほど走り回っているか……すべてをあの方と同じ速さで出来る者など、この世にはいないというのにな」


その愚痴に、僕は心臓が冷たくなるのを感じた。

岡部は無意識のうちに、僕の修論の核心を突いていた。雪斎の天才は、今川家という巨大な船を力強く引っ張っているが、同時に家臣たちとの間に決定的な「速度と能力のズレ」を生み出している。


岡部次郎右衛門元信。僕は、この男の名前を知っている。

後に主君の首を取り返すため最後まで戦い抜く、今川家屈指の忠臣だ。

その男が今、目の前で餅を分けてくれながら、屈託なく愚痴をこぼしている。


歴史は、観察するものだ。決して触れるものじゃない。

大学のゼミで、僕はいつもそう主張していた。僕はただの観測者だ。この時代を変える権利も、力もない。


だが、目の前には温かい餅があり、岡部の人の良い笑顔がある。


やがて廊下の奥から、静かな足音が近づいてきた。雪斎が戻ったのだ。何も言わず上座に座り、再び筆を走らせ始める。その絶え間ない筆音が、部屋の空気を一瞬で引き締めた。


岡部が慌てて居住まいを正し、頭を下げて去っていく。

僕も帳簿の山に向き直り、次の検算に取りかかろうとした。


その時、背後から声がした。


「圭」


筆の音が止まっている。


「岡部の言葉、どう聞いた」


心臓が凍りついた。

聞いていたのだ。全部。


僕は何も答えられなかった。答えれば、それは修論の核心を語ることになる。この男の——この組織の致命的な弱点を、本人に突きつけることになる。


沈黙が、長く伸びた。

やがて背後で筆の音が再開した。雪斎はそれ以上、何も言わなかった。

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