【第6話】異質な男
あの夕暮れから数日。僕は相変わらず臨済寺で下働きを続けていた。
朝から晩まで、慣れない肉体労働が続く。井戸からの水汲みでは桶の重さに息を切らして何度も水を零し、薪割りでは斧の重さに振り回されて手のひらの豆を潰した。雑巾がけすら、広い本堂を半分も進まないうちに腰が悲鳴を上げる。現代日本でペンとパソコンしか触ってこなかった温室育ちの体には、戦国時代の「日常」はあまりにも過酷だった。
周囲の小坊主たちは、大の男が子供以下の仕事しかできないことに呆れ果てていたが、僕の頭の中は別のことで飽和していた。
なぜ、僕はこんな時代に来てしまったのか。
これはもう、質の悪い夢などではない。手首に走る薪のささくれの痛みも、粟が混じった粗末な飯の味も、容赦なく照りつける太陽の熱も、すべてが五感を焼くような圧倒的な現実だ。
どうやったら現代に帰れる? そもそも帰れるのか? 帰る方法が見つかるまで、何の取り柄もない僕はここで生き延びられるのか? もし正体(未来人であること)がバレたらどうなる? 細作として凄惨な拷問を受けるか、得体の知れない妖として容赦なく斬り捨てられるか——。
出ない答えを探しては絶望し、それでも今日を生き延びるために、痛む体を鞭打って動かすしかない。
そんな極限状態の僕の心を、さらに削り続ける恐怖があった。
太原雪斎の『観察』だ。
彼は僕を呼び出して問い詰めたりはしない。ただ、時折遠くから、あるいは回廊のすれ違いざまに、底知れない目でこちらを見るだけだ。それが真綿で首を絞められるようで、ひどく恐ろしかった。
そんなある日のこと。
寺の僧たちが、空を見上げながら何やら深刻な顔で話し込んでいた。
「弱ったな。明後日の法要、暦では『大雨』じゃぞ」
「うむ。占いのほうでも水気が強いと出たそうじゃ」
「今のうちに外の席を片付けて、雨除けの段取りをせねば……」
通りかかった僕は、つい空を見上げた。
真っ青な晴天。だが、西の空の遠くには、薄く引き伸ばしたような白いすじ雲(巻雲)がかかっている。
前線が近づくサインだ。あれが出るとだいたい半日か一日で雨が降るが、長くは続かない。
「……あの雲なら、明日のうちに降って、明後日は晴れますよ」
つい、声に出して呟いてしまった。
しまったと思い慌てて口を塞いだが、離れた場所で立ち働く僧たちには聞こえていなかったようだ。彼らは相変わらず深刻な顔で空を見上げ続けている。
誰にも聞かれなくてよかった。そう安堵して回廊の角を曲がろうとした時、不意に足が止まった。
すぐ横の死角になる影の中に、雪斎が立っていた。
いつからそこにいたのか。彼は僕を咎めるでもなく、ただ静かに、僕と同じように西の空のすじ雲を見上げていた。
翌日の夕方。僕の言葉通り、激しい雨が降り出した。
そして法要の当日——空はすっきりと晴れ上がった。
雨上がりの境内を掃いていると、背後から足音が近づいてきた。
「圭殿。住持様がお呼びです」
小坊主の無機質な声に、心臓がドクンと跳ね上がった。
ついに、来た。ついに僕の処遇が決まるのだ。
通されたのは、初日に案内されたあの奥の部屋だった。
部屋には墨の香りが漂い、張り詰めた静寂が支配している。太原雪斎は上座に静かに座っていた。机の上には幾つもの書簡や帳簿が山のように積まれている。
指示に従い、冷たい板の間に正座する。
膝が震えるのを必死に抑えながら、僕は平伏するように頭を下げた。
雪斎は書簡から目を上げなかった。
「箒は、まだ下手か」
「……はい」
「だが、蔵の絵図は読めた。空の色で雨も読んだ。それと——行商よりも銭勘定が早いそうだな」
三つ。三つだけ、淡々と挙げて、雪斎は口を閉じた。
それ以上は言わなかった。言う必要がない、という顔だった。
息ができない。心臓を直接掴まれたかのような錯覚を覚えた。
言い訳をしなければ。何か、この時代の人間に通じるもっともらしい嘘を——。
だが、東海一の知恵者を前にして、僕の口は恐怖で完全に縫い止められていた。今川家の政治と軍事を一人で回す傑物に、付け焼き刃の嘘など最初から通用するはずがない。
正体を明かせば狂人扱い。下手な嘘をつけば一刀両断。完全に詰みだ。
だが、雪斎はそれ以上何も問わなかった。
ただ、絶望して固まる僕の前に、手元の文を一枚、ふらりと放り投げた。
「掃除はもうよい。明日から、わしの傍で帳簿の整理を手伝え。まずは寺領の出納からだ。余計な書状には触れるな」
僕は呆然と、差し出された文を見た。
臨済寺の寺領に関する年貢の記録が並んでいる。
「なぜ……」
震える声が、口を突いて出た。
「なぜ、僕の素性をお訊きにならないのですか」
雪斎は答えなかった。ただ、僕の目を、ずいぶん長いあいだ見ていた。
やがて、また書簡に目を落として言った。
「——遠くを見る目じゃ」
それだけだった。
太原雪斎。この男は、僕が途方もない秘密を抱えていることを、すでに本能で察知している。
東海一の知恵者の懐深くへ、僕は自ら足を踏み入れてしまった。
震える手で、僕はその文を受け取った。




