【第5話】答えられない男
「好きなだけこの寺に居るがよい」
雪斎にそう言われたとはいえ、ただ飯を食らって居座るわけにはいかない。「何か手伝わせてください」と自ら申し出て始まった臨済寺での下働きは、悲惨の一言に尽きた。
「圭。箒の持ち方が違う。それでは腰を痛めるぞ」
「はい、すみません」
竹箒で庭を掃く。ただそれだけのことが、こんなにも難しいとは思わなかった。現代のプラスチック製の箒とは重心も重さも違う。すぐに腕が張り、背中が痛くなった。
「水はまだか」
「今、持っていきます!」
井戸から水を汲み、手桶に入れて運ぶ。重い。木の桶自体がずっしりと重い上に、水を入れると腕がちぎれそうになる。少しでも気を抜くと、歩くたびに水が跳ねてこぼれる。厨房(庫裡)に着く頃には半分ほどに減ってしまい、怒声とともにまた井戸へ逆戻りだ。
薪割りも悲惨だった。斧を振り下ろしても、丸太の中心を外して刃が弾かれる。何度か繰り返すうちに手の皮が剥け、血が滲んだ。焦って力を込めた瞬間、斧がすっぽ抜けてあらぬ方向へ飛んでいき、あわや大惨事になりかけた。見かねた小坊主がため息をつきながら斧を取り上げ、見事な手つきでパカンと割って見せた時の情けなさといったらなかった。
寺の若い衆や小坊主たちは、僕を見るたびに不思議そうな顔をした。
無理もない。年齢は二十代半ば。それなりに体格はいいはずなのに、少し動いただけで息を切らし、使い物にならないのだ。農民の出でもないし、武士のようにも見えない。そもそも、着ている服(汚れるからと寺の作務衣を借りたが、下にはTシャツを着ている)からして奇妙だ。
「圭殿、その下に着ている白い肌着はなんだ? 妙に目が詰まっておるが、絹とも違うようだな」
「あ、ええっと……堺の商人から買った、唐の織物でして。肌触りはいいんですが、少し風通しが良すぎるみたいで……」
「唐物か。ほう、向こうの人間はずいぶんと薄っぺらい布を着るのだな。だが、そのような真っ白な生地は、よほど身分の高い者しか着られぬはずだが……」
小坊主の素朴な指摘に冷や汗が出た。現代の安い綿のTシャツだが、大量生産の技術がないこの時代においては、驚くほど均一に編み込まれた高級品に見えるらしい。
苦し紛れの愛想笑いで誤魔化すと、彼らはそれ以上深く追及してこなかった。
彼らが僕を追い出そうとしない理由は一つ。住持である太原雪斎が「置く」と決めた人間だからだ。
寺の生活が三日目を迎えた午後。
僕は書物蔵の掃除を命じられた。箒も水汲みも散々だったが、蔵の中に入った途端、手が自然に動いた。棚札を見れば、どの箱に何が入り、どの記録と対応しているかが分かる。半日も見ていれば、分類の癖が掴めた。帳簿類は年号順に、書状は差出人別に。誰かに教わったわけではない。文献整理は、大学院生の基本動作だった。
担当の老僧が、床に広げた一枚の紙を前に首を捻っている。
「どうしたんですか?」
「いや、寺領の村落で境界争いが起きてな。代官所へ説明に行くため、古い絵図を引っ張り出してきたのだが……山と川の形がざっくりと描かれすぎていて、どこが争論の地なのかさっぱりわからんのだ」
覗き込んでみると、確かにそれは現代の「地図」とは似ても似つかないものだった。
戦国時代の村絵図は、測量に基づくものではない。道は直線で描かれ、山は丸っこい記号、家屋がその隙間に配置されている。おまけに方位すらも定まっておらず、距離も方角も、描いた者の主観でしかない。実際の地形とは、まるで違う。
「……ちょっと見せてもらっていいですか」
歴史学専攻の僕にとって、古絵図の読解は基礎中の基礎だった。
とりわけ修士論文の執筆過程で、駿府周辺の寺領や街道は何度も現代の地形図に重ね合わせて分析してきた。安倍川と有度山の位置関係だけは、嫌というほど頭に入っている。
周囲の地名と川のうねりを確認し、頭の中で正確な等高線マップ(地形図)を立ち上げる。
「この丸いのが有度山ですね。なら、この曲がりくねった線が川だから……」
僕は絵図をくるりと百八十度回転させた。
「北はこちらです。争いになっている『狐谷』はこの山の裏側ですよね。絵図では川が太く描かれていますが、実際の地形ならここはもっと川幅が狭く、険しい谷筋のはずです。つまり、この絵図の縮尺はここから極端に歪んでいて——」
僕は絵図の一点を指差した。
「ここの尾根が、本来の村の境界線です。絵図の見た目に騙されず、川の分岐点から歩幅を逆算すれば、どちらの村の言い分が正しいかすぐにわかりますよ」
一息にそこまで言ってから、老僧が目を丸くして固まっていることに気づいた。
「……お主、この絵図を見たのは初めてであろう? なぜ、実際にそこを歩いて上空から見下ろしたかのように語れるのだ?」
「あ、えっと……」
「山歩きの修験者なら谷筋は読めよう。だが、古い絵図の歪みまで見抜く者は少ない」
老僧は絵図と僕の顔を交互に見比べ、ほうと感嘆の息を漏らした。
「お主、見た目は頼りないが、とんでもなく頭は回るのだな」
純粋に感心しきったような老僧の目に、僕は愛想笑いを浮かべて誤魔化した。
——やってしまった。
目立たないようにやり過ごすつもりだったのに。歴史学専攻の性というか、古い資料を見るとつい現代の視点で分析したくなってしまう。
その日の夕方。庭の掃き掃除に戻った僕は、背中に視線を感じて振り返った。
回廊の奥。夕暮れの影の中に、雪斎が立っていた。初日のような、すれ違いざまではない。立ち止まって、こちらを見ている。
目が合った。雪斎は視線を外さなかった。
僕の足元には、不格好に掃かれた落ち葉の山。手のひらには、潰れた豆から滲んだ血。箒も持てない男が、古絵図から土地の理を空から見下ろすように読み解く。その矛盾を、雪斎はただ見ていた。
どれくらいそうしていただろう。雪斎は何も言わず、やがて踵を返して奥へ消えた。
何も問われなかった。それが、どんな尋問よりも怖かった。




