【第4話】臨済寺
眠れなかった。
客間に通されて、粥を食べた。薄い粥だった。具は菜っぱが少しだけ。それでも温かいものが腹に入ると、体の強張りが少しだけ解けた。
借り物の薄い布団に横になる。天井の木目を見つめた。暗い。蝋燭はとっくに消えていて、月明かりだけが障子を透かして届く。
太原雪斎。
さっき、回廊で目が合った。あの人は僕を見た。ほんの一瞬だけ。それから、何事もなかったように視線を文に戻した。
だけど僕には分かった。あれは「見ていない」のではなく、「見て、記憶した」のだ。あの一瞬で、僕の格好を、顔を、全部頭に入れた。それくらいの人物だと、修論を書いていればいやでも分かる。
太原雪斎。僧名は崇孚。臨済の僧にして、今川義元の師であり、軍師。この時代の東海道で、最も聡明な人間の一人。
その人が、この壁の向こうにいる。
僕の修論のタイトルが、頭の中で点滅する。
『今川家臣団の意思決定構造——太原雪斎の権限集中と、その後の組織的空白』
雪斎の死後に今川家がどう崩壊していったかを分析した論文だ。この人がいなくなった後の空白が、桶狭間の敗因の一つだと僕は書いた。
その「この人」が、生きている。
眠れるわけがなかった。
だが、体は限界だったのだろう。修論の文章が頭の中で渦を巻いているうちに、いつの間にか意識が落ちていた。
鳥の声で目を開けた。朝になっていた。障子の向こうが白い。寺の鐘が鳴った。低く長い残響が、腹の底を震わせる。
体が重い。たった一日で起きたことが、全身に残っている。
廊下へ出ると、若い僧がこちらに歩いてきた。昨夜案内してくれた僧とは別の、もっと若い男だ。
「客人。住持様がお呼びです」
心臓が跳ねた。
住持。この寺の住持は、太原雪斎だ。
「……今、ですか」
「はい。こちらへ」
断る理由がない。断ったら不審がられる。ついていくしかない。
僧の後について回廊を歩いた。昨夜見た庭が、朝の光の中では全く違って見える。苔が朝露に濡れて光っていた。松の枝の影が白砂に落ちている。美しい寺だ。だが、僕の目にはその美しさが入ってこない。
廊下の奥の部屋に通された。
畳の上に、一人の老僧が座っていた。
昨夜、回廊で見た人。墨染めの衣。まっすぐな背筋。手元に文と筆が置かれている。
太原雪斎が、僕を見上げた。
「座りなさい」
声は穏やかだった。想像していたよりずっと柔らかい声だ。軍師という肩書きから、もっと厳しい声を想像していた。だが考えてみれば当然だ。この人は僧だ。禅僧だ。寺の住持として、日常的に人と穏やかに話す人間だ。
正座した。膝が少し震えている。
雪斎は何も聞かなかった。
名前も。出身も。なぜここにいるのかも。
代わりに、壁の掛け軸に目を向けた。墨で書かれた漢詩が一幅。
「読めるか」
それだけだった。
僕は掛け軸を見た。達筆な楷書で書かれた禅語。
——看脚下。
「かんきゃっか」
声に出していた。意味は知っている。禅の基本的な教えだ。足元を見よ。遠くを見るな、今ここに集中せよ。大学の東洋思想の授業で習った。
読めてしまった。考える前に、口が動いた。
雪斎の表情は変わらなかった。だが、僕は自分が何をしたか理解した。
漢文を、読んだ。
この時代、漢文を読める人間は限られている。僧侶、公家、一部の上級武士。そのどれにも見えない身なりの男が、迷いなく禅語を音読した。
しかも「看脚下」は禅の言葉だ。それを知っているということは、仏教の教養がある。だが僕は剃髪していない。僧ではない。
雪斎は僕を見ていた。じっと、動かずに。あの鋭い目で。
長い沈黙だった。庭から鳥の声が聞こえる。どこかで僧が経を読む声がかすかに響く。
雪斎は何も問い詰めなかった。名前も聞かなかった。どこから来たのかも。
ただ、ふっと息をついた。
「行く当てがなかろう。好きなだけこの寺に居るがよい。……まずは粥を出してやれ」
僕と、傍に控えていた僧に向けてそう告げた。
僕は頭を下げた。深く。畳に額がつくほど深く。理由は分からなかった。ただ、この人の前では頭を下げるしかないと思った。
顔を上げた時、雪斎はもう文に目を落としていた。
去り際に、小さな声が聞こえた。
「足元を見よ、か。お前にこそ要る言葉じゃな」
その言葉の意味を、僕はしばらく考え続けた。
しばらく12時と19時の1日2話を更新します。




