【第3話】小さな知恵
行商人の背中が、道の向こうに小さくなっていく。
立ち上がらなければ。あの人を追わなければ。
頭では分かっている。今の僕には、あの行商人以外に頼れる人間がいない。知り合いが一人もいない世界で、たった一人だけ言葉を交わした相手だ。あの人が行ってしまったら、僕はこの山の中で、本当に一人になる。
だけど、足が動かない。膝が震えて、立てない。
戦国。その二文字が、頭蓋骨の内側に張りついて剥がれない。
行商人の姿が、木々の間に消えかける。
腹が、鳴った。
情けないほど大きな音だった。朝からコーヒーしか口にしていない。水をもらっただけで、食べ物は何も。
その音が、僕を現実に引き戻した。いつの時代だろうが、腹は減る。今夜の寝場所がなければ凍える。三月の山の夜は、冷える。
走った。
リュックが背中で跳ねる。スニーカーが土を蹴る。この時代にない靴底のグリップが、皮肉なほどよく地面を捉えた。
「すみません——待ってください」
声が裏返った。行商人が振り返る。
「おう、さっきの傾いた兄ちゃんか。どうした」
息が切れていた。走ったのは百メートルもない距離なのに、膝に手をついて荒い呼吸をしている。体力が落ちている。研究室とコンビニを往復するだけの生活のツケが、こんなところで出る。
「あの——僕を、どこかに泊めてもらえませんか。銭も持ち合わせがなくて」
行商人は困った顔をした。当然だ。見ず知らずの、しかも得体の知れない身なりの男を泊める義理はない。
「わしは行商じゃでな。寝泊まりは道端か、知り合いの家じゃ。お前さんを連れていくわけにはいかんよ」
「何でもします。荷物を持ちます。何か——何か、お手伝いできることがあれば」
必死だった。プライドも何もなかった。大学院生の矜持など、空腹の前では紙くずだ。
行商人はしばらく僕を見ていた。それから、ふっと息をついて荷を下ろした。
「まあ、座れ。少し休むつもりだったところじゃ」
天秤棒の片方に腰を下ろした行商人が、荷の中から竹の皮に包まれた握り飯を取り出した。二つ。一つを僕に差し出す。
「食え。腹が減っては話にならん」
受け取った握り飯は、塩と味噌の匂いがした。一口齧る。硬くて、ぼそぼそしている。コンビニのおにぎりとは別物だ。だけど、温かくはないのに、腹の底にじんわりと沁みた。食べ物をもらえたことより、この人が分けてくれたことが、ありがたかった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより、お前さん、何ができる」
行商人が僕の顔を見ている。品定めするような目だった。
「……字が読めます。算盤は使えませんが、計算はできます」
嘘ではない。筆算と暗算はできる。ただし算盤は触ったこともない。
「計算か」
行商人は荷の中から、布に包んだ銭を取り出した。大小さまざまな銅銭が、じゃらじゃらと音を立てる。
「ちょうど困っておったんじゃ。尾張で仕入れた品を駿河で売ると、銭の種がごちゃまぜでな。永楽銭と鐚銭が混じっておって、どれが何文の値打ちか、勘定がつかんのじゃ」
永楽銭と鐚銭。中世日本の貨幣問題だ。
永楽通宝は明からの渡来銭で、品質が高い。鐚銭は私鋳銭や摩耗銭で、価値が低い。この時代、永楽銭一枚に対して鐚銭は三枚から四枚の交換比率で流通している。撰銭令が何度も出されるほど、通貨の混乱は深刻だった。
修論の参考文献で何度も読んだ話だ。
「永楽銭と鐚銭の比率は、この辺りでは一対三ですか、一対四ですか」
行商人の目が丸くなった。
「……三半じゃな。お前さん、銭のことが分かるのか」
一対三・五。つまり永楽銭一枚は鐚銭三枚半の価値。
「では、永楽銭の枚数と鐚銭の枚数を数えてください。合計の文数を出します」
行商人が銭を分け始めた。永楽銭が四十六枚。鐚銭が百十九枚。
四十六に三・五を掛けると百六十一。それに百十九を足す。二百八十。
「鐚銭に揃えると、二百八十文です」
行商人の手が止まった。
「……今のは、算盤なしでやったのか」
「はい」
「嘘じゃろう。四十六に三半を掛けたのか。頭の中で」
信じられないという顔をしている。この時代、暗算でこの規模の計算を即座にできる人間は珍しい。算盤があれば別だが、算盤なしでは商人でも苦労する。
僕にとっては、中学生レベルの掛け算と足し算だ。
「少し算術が得意なだけです」
行商人はしばらく黙っていた。それから、残りの握り飯を僕に押しやった。
「これも食え。お前さん、面白い男じゃな」
その目から、警戒の色が消えていた。代わりに、商人特有の——使えるものを見つけた時の、実利的な光が宿っている。
「なあ、兄ちゃん。名は何と言う」
「藤原——」
口をついて出かけた姓を、慌てて飲み込んだ。
藤原。この時代に藤原と名乗れば、公家の一族か、その末裔を自称することになる。駿河の山中をTシャツで歩いている人間が名乗る姓ではない。
「——圭、です。圭と申します」
「圭か。わしは安吉じゃ」
行商人——安吉は、気にした様子もなく頷いた。姓を持たない人間はこの時代珍しくない。名だけで十分だ。
「なあ圭。お前さん、今夜の宿がないと言うたな」
「はい」
「この先に、臨済寺という大きな寺がある。今川様の御寺じゃ。旅の者に一夜の宿を貸してくれることがある。わしが口を利いてやろう」
臨済寺。
その名前を聞いた瞬間、背筋が凍った。
臨済寺。駿河国。今川家の菩提寺。そして——太原雪斎が住持を務める寺だ。
「い、いえ、そんな大きな寺でなくても」
「何を言う。大きな寺だからこそ、行き倒れの一人や二人、面倒を見てくれるんじゃ。小さな寺じゃ断られるわ」
安吉はもう立ち上がっている。天秤棒を担ぎ直し、当然のように歩き出した。
ついていくしかなかった。
日が沈みかけていた。山道を下ると、平地に出た。水田が広がっている。遠くに城下町らしき家並みが見える。駿府だ。
臨済寺は、駿府の北東にあった。山を背にした大きな伽藍。瓦屋根が夕陽を受けて鈍く光っている。門前に着くと、安吉が門番の僧に声をかけた。
「すまんな。旅の者が行き倒れかけておってな。一晩だけ泊めてやってくれんか」
僧は僕の格好をじろじろと見た。また、あの視線だ。だが安吉が「傾いた者じゃが、悪い男ではない」と付け加えると、僧は渋々頷いた。
「お世話になりました。本当に、ありがとうございます」
安吉に深く頭を下げた。この人がいなければ、僕は今夜、山の中で震えていた。
「なに、銭の勘定を助けてもらったからな。貸し借りなしじゃ」
安吉は手を振って去っていった。出会ってからほんの数刻。それでも、この時代で初めて、人の温かさに触れた気がした。
僧に案内されて、寺の中に入った。広い。本堂、庫裏、僧坊。回廊が建物を繋いでいる。掃き清められた庭。松の木。苔。夕暮れの光の中で、すべてが静かだった。
「今夜はあちらの客間をお使いください。粥を持ってまいります」
僧が去っていく廊下の奥から、読経の声が聞こえた。低く、太く、腹の底に響く声だ。
ふと、回廊の曲がり角に人影が見えた。
墨染めの衣。剃髪。背筋のまっすぐな老僧が、庭に面した廊下に立っていた。手に文を持ち、何かを考え込んでいる。
僕と目が合った。
老僧の目は、鋭かった。見透かすような、深い知性を湛えた目だ。一瞬こちらを見て、それから何事もなかったように視線を文に戻した。
僕の心臓が、嫌な速さで打ち始めた。
臨済寺の住持。この寺で、あれほどの存在感を放つ老僧。
修論で何百回も名前を書いた人物が、今、目の前にいる。
太原雪斎。
今川家の軍師。東海一の知恵者と呼ばれた男。
本物の、太原雪斎が、そこにいた。




