【第2話】年号
目が覚めた。
いや、覚めた、というのは正確ではない。眩暈がして、膝をつき、目を閉じた。それだけだ。意識が途切れた感覚はなかった。
なのに、世界が変わっている。
「……夢か」
呟いた。声が、木々に吸い込まれた。
夢にしてはやけにはっきりしている。土の感触。苔の匂い。指先に触れる落ち葉の湿り気。頬を撫でる風の冷たさ。
冷たさ。
さっきまで七月の東京にいた。蝉が鳴いていた。石段が焼けるように熱かった。なのに、ここは涼しい。肌寒いとすら言える。蝉の声がしない。
立ち上がった。リュックはある。スマートフォンを取り出した。圏外。GPSも拾えない。電池は六十二パーセント。
圏外ということは——山の中か。かなり奥まった場所だ。
熱中症で倒れたのか。誰かに運ばれたのか。それにしても、神社の石段から森の中まで、どうやって。
僕を運ぶ理由のある人間なんていない。
考えろ。落ち着いて、考えろ。
遠くに煙が見える。人がいる。とにかく、人のいる場所に出て、ここがどこなのか確かめればいい。携帯が圏外でも、人に聞けば分かる。交番を探せばいい。
足元の缶コーヒーの空き缶を拾い、リュックに押し込んだ。山でゴミを捨てるわけにはいかない。
獣道のような踏み跡を辿って、斜面を下った。
歩きながら、おかしなことに気づいた。
道がない。アスファルトの道路がない。ガードレールもない。電柱がない。電線が、一本もない。
携帯が圏外なのは分かる。だが、電線すらないというのは、日本のどの山間部でもあり得ない。
やがて、木々の間から集落が見えた。
茅葺きの家が六、七軒。畑。その向こうに細い川。洗い物をしている女が二人。薪を割っている老人。土の上で遊んでいる子供たち。
時代劇のセットだ、と思った。
どこかの撮影所か。NHKの大河ドラマのロケ地か。あるいは、体験型のテーマパークか。
だが、セットにしては生活感がありすぎた。畑の野菜は本物だ。洗い物の水音が聞こえる。薪を割る老人の手つきに迷いがない。子供たちの遊び声は、演技には見えなかった。
足が止まった。
人々の服を見た。麻の着物。染色はほとんどなく、生成りか藍染め。履物は草鞋。男は髷を結っている。女は黒い垂髪。
これはセットじゃない。ここで暮らしている人たちだ。
背筋に、冷たいものが走った。
道の向こうから、荷を背負った男が歩いてきた。天秤棒に振り分け荷物をかけ、菅笠を被っている。行商人だ。集落に入る手前で、畑の女に声をかけている。
「——かわらけはいらんかね」
声が聞こえた。言葉は日本語だが、抑揚が違う。東海の方言。古い言い回し。
行商人が集落を通り過ぎ、僕の方に近づいてきた。
ふと顔を上げた行商人と、目が合った。その足が、ぴたりと止まった。目が、僕の全身を上から下まで舐めるように見ている。
その視線で、はじめて自分の格好を意識した。Tシャツ、チノパン、スニーカー、背中のナイロンのリュック。周りの人間は、麻の着物に草鞋だ。見比べて、ようやく分かった。おかしいのは、僕の方だ。
行商人は数歩の距離を保ったまま、荷を下ろそうとしない。まるで、得体の知れない獣にでも出くわしたような目をしている。
「……お前さん、何者じゃ」
警戒しきった声だった。何者、と聞かれて、言葉に詰まる。何者も何も、僕はただの大学院生だ。神社の石段に座っていただけの。それが、どうしてこんなところにいるのか、自分でも分からない。
「あ——いえ、その」
言葉が出なかった。何と説明すればいい。Tシャツとは何か。チノパンとは何か。この靴は何で、このリュックは何で出来ているのか。何一つ、この人に通じる言葉で説明できない。
行商人は僕の顔をじっと見つめている。顔つきは日本人だ。言葉も通じる。だが身なりが異様すぎる。判断がつかないのだろう。
しばらく沈黙が続いた。やがて、僕が刀も持たず、腰も引けていることに気づいたのか、行商人の方から口を開いた。
「駿府のほうに、妙な格好をして町を歩く傾いた者がおると聞いたことがあるが……お前さん、その類かね」
傾いた者。かぶきもの。
意味は分かった。常識外れの身なりや振る舞いをする者。この時代にも、そういう変わり者はいるのだ。
僕は黙って頷いた。否定するよりずっと楽だった。
「やれやれ。若い者は何を考えておるやら」
行商人の警戒が、呆れに変わった。日に焼けた顔。歯が何本か欠けている。四十がらみ。
「すみません——ここは、どこですか」
声が掠れていた。
「どこ、とは。駿河の安倍じゃが。お前さん、道に迷うたか」
駿河の安倍。安倍川のあたり。静岡だ。
静岡なら東京から近い。電車で帰れる。帰れるはずだ。ただし——電線のない静岡というものが、存在するなら。
ふと、周りの畑に目がいった。田はまだ乾いていて、苗の準備すら始まっていない。肌を撫でる風は涼しい。さっきまで、七月の東京にいた。蝉が鳴いて、石段が焼けるようだった。それが、この涼しさだ。季節が、まるごとずれている。
茅葺きの家。髷を結った男たち。目の前の行商人の天秤棒と菅笠。電線のない空。季節のずれ。
ばらばらだった違和感が、一つの、信じたくない仮説に収束し始めていた。
馬鹿げている。だが、確かめずにはいられなかった。
「この辺りは……どなたの領地ですか」
「今川様の御領じゃ。駿府の今川治部大輔様。お前さん、よっぽど遠くから来たのじゃな」
今川治部大輔。治部大輔は義元の官位だ。義元が治部大輔に任じられたのは天文五年。没年は永禄三年。
行商人が荷を担ぎ直しながら、独り言のように続けた。
「今川様のところは太原の御坊様がおるでな、このあたりは治まっておる。商いもしやすいわ」
太原の御坊。太原雪斎。まだ、生きている。
雪斎が死んだのは弘治元年、1555年。ということは——今は、それより前だ。
1550年代の前半。駿河。三月。
膝が震えた。
太原雪斎が、まだ生きている。今川義元が、東海最大の戦国大名として君臨している。松平竹千代——のちの徳川家康が、人質として駿府にいる。
桶狭間は、まだ起きていない。
「おい、大丈夫かね。顔が真っ白じゃ」
行商人の声が遠い。
「水を……もらえませんか」
それだけ言うのが精一杯だった。行商人は腰の竹筒を差し出してくれた。冷たい山の水が喉を通った。手が震えている。竹筒を返す時、何度か掴み損ねた。
「ありがとうございます」
頭を下げた。行商人は「無理をするなよ」と言い残して去っていった。
僕はその場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆った。
1550年代の前半。駿河。三月。
夢じゃない。気を失って運ばれたのでもない。これは現実だ。
さっきまでいた七月の東京は、四百七十年以上も先の未来だ。
頭の中で、修論の参考文献が渦を巻いている。雪斎は、遠からず死ぬ。あと数年のうちに。義元も、いずれ桶狭間へ向かう。織田信長は、今はまだ尾張の若き大うつけだ。
この国は、百年に及ぶ戦乱のちょうど折り返し地点にいる。
そして僕は、その全部を知っている。
歴史は、観察するものだ。触れるものじゃない。
あのゼミで自分に言い聞かせた言葉が、急に重くなった。論文の中の「もし」が、目の前の現実になっている。
知っているだけだ。知っているだけで、何もしない。何もできない。
それでいいのか。それでいいはずがない。
でも、他にどうすればいいのか、僕には分からなかった。
日が傾き始めていた。
今夜、どこで眠ればいい。明日、何を食べればいい。
知識だけは山ほどある。この時代のことなら、おそらく同時代の人間よりも詳しい。
だけど、火の起こし方を知らない。米の炊き方も知らない。草鞋の編み方も知らない。
僕が知っているのは、この国がこの先どうなるか、だけだ。
それは、今この瞬間を生き延びるためには、何の役にも立たない知識だった。




