【第1話】勝って、しまった
雨が止んだ。
つい先ほどまで、天が裂けたかのような豪雨だった。泥水が脛まで這い上がり、甲冑の隙間から入り込んだ雨が肌を刺す。視界は白く潰れ、三歩先にいる味方の背中すら見えなかった。
それが嘘のように晴れた。雲が割れ、五月の陽光が桶狭間の谷底に降り注ぐ。
歓声が上がった。
最初はどこか遠い場所で。次に左の尾根から。続いて右から。そして足元から、地鳴りのように、谷間を埋め尽くした。
「織田勢、退いたぞ!」
「御屋形様のお命、ご無事にござる!」
「勝った——勝ったぞおおお!」
兵たちが槍を空に突き上げ、絶叫している。駆け寄り、抱き合い、泥だらけの顔を歪めて嗚咽する者。膝から崩れ落ち、両手で泥を握りしめたまま天を仰いで泣いている若い足軽。隣では、白髪交じりの古参が念仏を唱えながら額を地面に擦りつけていた。
死線を越えた人間たちの、理屈では制御できない感情の奔流だった。
僕の耳が、遠くなっていた。
歓声が、水の底から聞こえるように遠い。目が、勝手に一点を追っている。撤退していく織田勢の旗印。木瓜の紋。あの旗の下に、あの男がいる。
生きている。あの男が、負けて逃げていく。
いや、違う。問題はそこじゃない。
勝って、しまった。
膝が震えていた。泥のせいじゃない。寒さのせいでもない。手を見た。指先が白い。握っていた槍の柄に、爪の跡がついていた。
僕がやったんじゃない。僕は何もしていない。直接は、何一つ。ただ、問われたから答えた。困っている人がいたから、助けた。それだけだ。
それだけのことが、十年。十年積み重なって、今日、この結果を生んだ。
今川義元は、桶狭間で死ななかった。
織田信長は、どうなる。楽市楽座は。兵農分離は。天下布武は。
この先の歴史は——僕にはもう、何一つ分からない。
吐き気がこみ上げた。口を手で押さえ、歯を食いしばる。周囲は歓喜の渦で、誰も僕を見ていない。勝利に酔い痴れた人々の間で、僕だけが壊れかけていた。
「おい」
肩を叩かれた。顔を上げると、泥と返り血で汚れた武者が、目を細めて笑っていた。
「勝ったのだぞ。なぜそのような顔をしておる」
笑えるわけがなかった。この歓声の意味を、この勝利が何を壊したのかを、この場で理解しているのは僕だけだ。
声が出なかった。唇が動いたが、音にならなかった。
武者は首を傾げ、やがて「戦の興奮で腑が据わらぬか」と勝手に納得して、笑いながら去っていった。
僕はその場にしゃがみ込んだ。泥の中に手をついて、額を腕に押し当てた。
歓声が、まだ鳴り止まない。
* * *
話は、十年前に遡る。
「——では、藤原くんの発表に移ります」
東京都内の、ありふれた大学のゼミ室。窓から午後の光が差し込み、レジュメの束に白い四角を作っている。
僕は立ち上がって、スクリーンの前に移った。修士二年。日本中世史専攻。今日の発表者だ。
「今回、反実仮想のテーマとして桶狭間を取り上げました。永禄三年五月十九日、織田信長の奇襲によって今川義元は討死します。しかし、もしこの奇襲が失敗していたら——今川義元は上洛を果たし、足利将軍家の後ろ盾として幕政に深く関与した可能性が高い」
反実仮想。「もしあの時こうだったら」。英語では counterfactual。歴史学では昔から賛否が分かれるテーマだ。ナイアル・ファーガソンのように「歴史の偶然性を検証する有効な手段だ」と主張する学者もいれば、E・H・カーのように「敗者の夢想にすぎない」と切り捨てる学者もいる。
「義元が生き延びた場合、織田信長による天下布武は発生せず、楽市楽座も、兵農分離も、延暦寺焼き討ちも——近世日本を形成した一連の改革は、根本から別の形を取っていたと考えられます」
教授が腕を組んだまま頷いている。
「で、藤原くん自身はどう思うの。反実仮想に意味はあると思う?」
僕は少し間を置いた。
「正直に言えば、懐疑的です」
ペンを置いて、言葉を選んだ。
「一つの分岐を変えれば、その先にある因果が全部崩れます。桶狭間で今川が勝ったとして、その先を予測するには、義元の健康状態、氏真の資質、三国同盟の行方、武田の動き——無限の変数を同時に処理しなきゃいけない。人間にそれは無理です。だから反実仮想には面白さはあっても、学問的な確かさはない。少なくとも、僕にはそう思えます」
教授は少し笑った。
「真面目な答えね。でも藤原くん、あなたの修論のテーマ——雪斎の死が今川の意思決定を空洞化させた、でしょう。それ、暗に言ってるわよね。雪斎が生きていれば桶狭間は防げた、って。それ自体が反実仮想じゃない?」
返せなかった。
確かにそうだ。雪斎が生きていれば組織は回った、だから死んだことが敗因だ——それは「もし雪斎が生きていたら」という反実仮想そのものだ。否定したはずの方法論に、自分の修論が乗っかっている。
笑いが起きた。僕も苦笑するしかなかった。
反実仮想は所詮、紙の上の遊びだ。僕がそこに立つことは、永遠にない。
* * *
ゼミが終わり、廊下に出たところで同期の田中に声をかけられた。
「圭、このあと飯いかない?」
「ごめん、ちょっと考えたいことがあって」
田中は「また一人で石段か」と笑って去っていった。
僕は大学の裏手にある小さな神社の石段に腰を下ろした。ここで缶コーヒーを飲みながら論文の構想を練るのが日課だった。
教授の言葉が、まだ頭に刺さっていた。
修論のテーマは「今川家臣団の意思決定構造——太原雪斎の権限集中と、その後の組織的空白」。雪斎が一人で回していた今川家の政務と軍略が、彼の死後いかに空洞化し、桶狭間の敗因の一つとなったか。
地味だが、組織論として面白い題材だと思っていた。思っていた——のだが。
雪斎が生きていれば今川は負けなかった。それが僕の修論の前提だ。反実仮想を否定しておきながら、自分の研究の根幹に反実仮想を据えている。完全に盲点だった。
缶コーヒーのプルタブを引きながら、苦い気分になった。中身よりも先に、自分の矛盾が苦い。
歴史は観察するものだ、と自分では思っている。なのに、その「もし」で論文を書こうとしている。
……我ながら、いい加減なものだ。
七月の陽射しが、まだ残っていた。石段が熱を溜め込んでいて、座っているだけで汗が首筋を伝う。缶コーヒーの最後の一口を飲み干した。ぬるかった。
立ち上がろうとした瞬間、視界が揺れた。
石段と木々の緑がぐにゃりと歪む。こめかみの奥で何かが脈打っている。熱中症か、と思った。水を飲んでいない。朝からコーヒーしか口にしていない。
手すりを探したが、ここには手すりがない。膝に手をついて、目を閉じた。
額に、冷たいものが触れた。
風だ。さっきまでなかった、湿った涼しい風。そして土の匂い。腐葉土と苔と、木の樹液の匂い。
目を開けた。
石段がなかった。
足元にあるのは、湿った土と落ち葉だった。背中に当たっているのは熱を帯びた石段ではなく、苔むした木の根だった。
空気が違う。
排気ガスの匂いがしない。遠くにサイレンの音もない。代わりに、鳥の声と、かすかな水の音。木々の匂いが、肺を満たした。
僕は、見知らぬ森の中にいた。
立ち上がった。リュックはある。スマートフォンを取り出した。圏外。時刻は表示されているが、GPSが拾えない。
心臓が、嫌な速さで打ち始めた。
「——落ち着け」
自分に言い聞かせる。声が木々に吸い込まれて消えた。
遠くに煙が見えた。人がいる。とにかく、人のいる方に行くしかない。
リュックを背負い直し、僕は森の中を歩き始めた。
修論のテーマが頭をよぎった。
太原雪斎。今川家。桶狭間。
さっきゼミで語った反実仮想。「もし桶狭間で今川が勝っていたら」。
まさか、と思う自分と、拭いきれない予感とが、同時に胸の中でせめぎ合っていた。
手に持っていた缶コーヒーの空き缶が、滑り落ちた。アルミの缶が地面に落ちて、からん、と乾いた音を立てた。
それが、この世界で僕が最後に聞いた現代の音だった。
初めまして。この物語は毎日/隔日で更新予定です。楽しんでいただけたら幸いです
前作『肉屋のおっさん、肉食禁忌の異世界で魔獣を焼く』も完結済みです。異世界グルメ×内政もの、よろしければ。
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