【第88話】もぬけの殻
六月七日の朝、大高の本陣に、東の陣から使番が駆け込んできた。
「織田が、おりませぬ」
夜のうちに消えたという。柵はそのまま、篝の灰もまだ温かい。人だけがいない。
使番は汗だくで、膝から下が泥だった。走り通してきたのだろう。息が整うまで待ってやった。
儂は床几に腰を下ろしたまま、もう一度言わせた。使番は同じことを言った。言葉が変わらぬということは、見たままを言っているということだ。
「追え」
物見を三方へ出した。
戻ったのは昼過ぎだった。道に馬の跡はある。西へ向かっている。だが熱田の手前で散っていた。三つにも四つにも分かれ、そこから先は辿れぬという。
捨てられた陣を見てきた者は、妙なことを言った。飯を炊いた跡が、退く前の晩も普段どおりだったという。退く者は炊く量を減らす。減らさずに炊いて、そのまま出ている。
前から決めていたのではない。急に決まったのだ。
押していたのは織田のほうだった。
三日前から東の備えは崩れかけていた。戸田の手勢は二度潰され、繕う手が足りず、柵を半町下げた。あと二日も同じことが続けば、こちらは鳴海まで退くしかなかった。
その二日を、織田は使わなかった。
「なぜ引いた」
答える者はいない。
鵜殿長照が膝を進めた。
「織田は、岡崎の勢が来ると見たのではございませぬか」
「まだ動いてもおらぬ」
四日の夜に早馬を出して、返事はまだ来ていない。動いたかどうかも分からぬ者を、織田がどうして数に入れる。
「では、西美濃が」
「動いておらぬ」
墨俣の渡しは、朔日から動いていない。桑名からの船で二日遅れの報せが来る。昨日届いたものにも、渡ったとは書かれていなかった。
斎藤は来ぬ。
同じ日に出ると書いて、書いたとおりに出て、そこで止まったまま七日になる。
「太守様。西美濃へ、もう一度使いを」
「要らぬ」
「なれど、あれだけの数が渡ってまいれば」
「待てば、尾張を割ることになる」
長照が口を閉じた。
斎藤が渡ってこぬのは、織田がおるからだ。その織田が退いたと知れれば、渡る。危うくない道なら、誰でも通る。
先に入られれば、あの城は今川と斎藤で獲ったことになる。獲ったものは分ける。分ければ美濃は尾張の西に足を掛ける。掛けた足は、抜かぬ。
頼んできたのは向こうだ——四月、儂は家中にそう言い切った。
あのとき言い切れたことが、いまは言い切れぬ。
「藤太郎」
「は」
「明朝、出る」
長照の眉が動いた。すぐには返事をしない。この男は、答える前に一度、駿府のほうを考える癖がある。
「……御屋形様には、いかように」
「入ってから書く」
「入ってから、でございますか」
「入る前に書けば、入る前に評定が開かれる」
判が集まるまで、こちらは動けぬ。待っているあいだに、城は誰かのものになる。
長照はそれ以上言わなかった。
六月八日、大高を出た。
道は静かだった。静かすぎた。
鳴海から北へ上がる道に、砦が三つある。三つとも空だった。柵も矢倉もそのまま残してある。人だけがいない。
熱田の町も、焼けていなかった。
焼いて退くのが当たり前だ。渡すものを残していく者はおらぬ。それが、そのまま残っている。
「太守様、これは」
「進め」
焼かれておらぬゆえ、民も逃げておらぬ。逃げずに済んだ者は、誰に礼を言うのだろうかと思った。
日が高くなった。六月の陽に兜が焼け、首筋を汗が流れる。土埃が口の中でざらついた。蹄と草鞋の音ばかりが続いた。
途中の村で、田に人が出ていた。二千からの軍が通っても、逃げも隠れもせず、腰を伸ばしてこちらを見ている。見て、また屈んだ。
誰が通るかは、もう決まったことだとでも言いたげだった。
翌九日、昼を過ぎて、清洲が見えた。
門が、開いていた。
城に入った。
矢は一本も飛んでこなかった。
蔵を開けさせた。米はない。塩もない。玉薬の蔵も空だった。馬屋には藁だけが残っていて、馬はいない。厩の柱に、鞍を掛けていた跡が黒く残っている。掛けていたものを、持って出たのだ。
書院に上がった。文机があり、硯が置いてある。墨は乾いていた。
床に、紙を焼いた灰が残っていた。掃いてはある。掃いてあるが、畳の目に入った分までは取り切れていない。
書付の類は、一枚もない。持てるものは持ち、持てぬものは焼いたのだ。
畳の上に立って、しばらく動かなかった。
二千。
あの数を決めたのは、儂だ。
四千と決めていたものを、二千にした。
削った理由を、あのとき家中には、値を叩くためだとだけ言った。それも嘘ではない。だが、腹はもう一つあった。
織田に刃を向けるのは美濃でよい。向こうは三千五百と書いた。書いた数は動かせぬ。ならばこちらは、その隣に立っていればよい。立っていて、城が落ちたときに手を伸ばせばよい。
二千は、美濃がそれを呑むかどうかを測る数でもあった。呑めば、次に組むときは向こうが頭を下げてくる。
美濃は呑んだ。呑んで、書いたとおりの数を出し、書いたとおりの日に動いた。
そこまでは、見たとおりになった。
だが、渡らなかった。
呑む相手かどうかは測った。呑んだあとで動く相手かどうかを、儂は測っていない。
そして、この城だ。
戦う相手かどうかも、測っていなかった。
測ったのは、値の話だけだった。
「太守様」
長照が敷居の向こうで膝をついた。
「城の者は、一人もおりませぬ。町の者に訊きましたところ、三日前の夜に荷を積んで出たと」
「何を積んだ」
「米と、玉薬と……帳面を、と申しております」
帳面を。
儂は、そこだけを二度聞いた。
七年前も、こうだった。
丘の上で輿を捨て、儂は歩いた。歩いて、生きた。生きて、尾張を取り損ねた。あの日、首を獲られなかったのは儂のほうだ。
今日は、儂が獲れなかった。
城は手に入る。城など、焼けても建つ。建て直せぬものだけが、西へ出ていった。
「お手柄にございます」
誰かが、後ろでそう言った。
振り返らなかった。
誰の手柄だ。
誰も戦っていない。誰も死んでいない。矢の一本も放たずに、尾張の城が手に入った。手柄を立てた者がおらぬ以上、恩賞の出しようもない。
戦わずに取った城は、戦わずに取り返される。
門のところまで戻った。
開いたままの門を、儂は閉めさせなかった。閉めたところで、閉める相手がいない。
日が傾きかけていた。西の空が、まだ明るい。
馬の跡が西へ向かって散っていたのを、思い出した。
あの男が何を見て引いたのか、儂には分からぬ。
分からぬまま、尾張は手に入った。




