【第87話】引き際
あと二日で押し切れる。
六月六日の朝、鳴海の西、在所の寺に置いた陣で、織田信長はそう見積もっていた。
昨日、戸田の手勢がもう一度崩れた。三日前に崩れた場所と同じところだ。一度ほつれた縄は、繕っても同じ目から切れる。備えも同じだった。
「東の陣、夜のうちに柵を下げております」
簗田政綱が絵図に指を置いた。
「どれだけ下げた」
「半町ほど」
半町。逃げるなら柵は置いていく。前へ出るなら柵を開ける。どちらでもない。
陣を狭めたのだ。守る口を減らせば、少ない手で回せる。手が足りておらぬということだ。
「糧は」
「大高から出る荷が、細っております。鳴海の蔵も空けはじめたと」
蔵を空けるのは、送り出すか、退くかのどちらかだ。送り出すなら荷は増える。細っているのだから、退く算段のほうだろう。
「よい」
退く支度をしている者は、追える。
たとえ二千が四千に膨れたところで、野で削られ続けている軍は、削られた分だけ弱くなる。数が減るのではない。数え方が変わる。備えを直す手が足りなくなり、糧を運ぶ手が足りなくなり、傷を負った者を運ぶ手が足りなくなる。そうやって、同じ二千でも、昨日より薄い二千になる。
あと二日。
そう思ったところへ、知多筋からの報せが入った。
書付は短い。三河の矢作の川筋で、人足が集められている。数は三百。日数は四十日。米と塩は駿府の商家から、まとめて入れたという。値は相場より安いとも書いてあった。
信長は二度読んだ。
数が細かすぎる。
村で人足を数えた者がいる。それだけなら、噂を拾えば足りる。だが米が何石で、値が相場よりいくら安いかまでは、帳面を見た者でなければ書けない。
「これは、誰が見た」
「荷を受けた蔵の、帳面方かと」
政綱はそれだけ言った。名は言わない。こちらも訊かない。
二年前から、尾張の湊には駿府の荷が入るようになった。鳴海にも、熱田にも、津島にも。荷が入れば人が入る。人が入れば、こちらの銭で動く者が出る。堺の硝石が薬種と同じ荷で運ばれていると知れたのも、同じ筋からだった。
商いの道は、兵の通れぬ場所を通る。今川はその道を大きくした。大きくすれば、通るのは荷だけではない。
「三百」
「は。堤の普請と申しておるとのことです」
普請なら、おかしくはない。田植えが済めば手は空く。去年の水で川筋がやられたという話も、前に聞いた覚えがある。
だが、米と塩をまとめて入れた、というところで指が止まった。
普請の人足は、日が落ちれば村へ帰る。帰れば家の飯を食う。領主がまとめて米を出すのは、村へ帰さずに置いておくときだ。
三百人を四十日、在所から離して、一所に集めて食わせる。
堤は直るだろう。直りはする。だが、それを終えた三百人は、四十日のあいだ一所に寝起きして、鐘と太鼓で起き伏しすることを覚えた者になっている。
鍬を槍に持ち替えるのは、たやすい。人を兵にするほうが手間がかかる。その手間を、先に済ませてある。
「佐久間」
「は」
「三河の兵は、いま何人が前へ出ておる」
「松平の手勢は、鵜殿の脇に。二千のうちの、およそ四百かと」
四百。三河の力はそんなものではない。
二月には、松平の旗が鵜殿の周りを固めていた。今度は脇に四百だけだ。
残りは在所にいる。在所で、鍬を持っている。
「二股を掛けておったか」
信長は書付を膝に置いた。
松平元康。桶狭間で先鋒を務め、二月の一戦では殿を務めて、誰も置いてこなかった男だ。今川に尽くしているように見えて、前へ出すのは脇を固める分だけに留めている。残りは在所に置き、飯だけ用意して待たせている。
どちらが勝っても、三河が残るようにしてある。
「見上げた忠義よ」
言ってから、自分で笑った。責める気にはならなかった。同じ立場なら、わしもそうする。
「政綱。東の援けは」
「岡崎道を東へ、早馬が一騎。一昨日の夜に。……これも、先ほどの蔵からにございます」
一昨日の夜。
信長は絵図を見た。
夜に西から東へ走る馬は、大高から出たものだ。あの刻限にあの道を使える者は、ほかにいない。岡崎までなら一日とかからぬ。昨日のうちに届いている。届いていれば、三河の手勢は今日にも動く。
そして西には、墨俣で止まったままの三千五百がいる。
止まっている理由を、信長は知っている。自分で流させた嘘だ。だが、あの嘘がいつまで効くかは、流した側にも分からない。西美濃の三人が今日も動かぬという保証は、どこにもなかった。
東の二千に、三河が加わる。西の三千五百は、いつ動き出すか分からぬ。
そして織田は、城を出ている。
「柴田」
「は」
「城まで、どれほどだ」
「半日もかかりませぬ」
半日。届く。いまなら届く。
明日になれば、どうか。
信長は絵図の上で指を回した。鳴海、清洲、墨俣、岡崎。四つの点を順になぞって、最後に自分のいる場所へ戻した。
真ん中にいる。
内にいる者は、外より早く動ける。それが利だ。だが、それは東と西が別々に動いているあいだの話でしかない。東が三河で厚くなった日に、西の渡しが空けば、真ん中にいる者は、ただ挟まれている者になる。
「引く」
広間が静まった。
「殿」
柴田が膝を進めた。
「あと二日にございます。東の備えは崩れかけております。ここで手を離せば、削った分がみな元に戻りますぞ」
「戻してよい」
「なぜでございます」
信長は答えなかった。
答えれば、三百の人足の話を陣中でせねばならない。それを聞けば、誰かが「たかが人足」と言う。言われれば、こちらはその者に、鍬と槍の持ち替えを一から説くことになる。説いているあいだに半日が過ぎる。
「馬を返せ。荷は置いていってよい」
「荷を——」
「二日で取りに来られる」
嘘だった。取りには来ない。だが、そう言っておけば、兵は退き足を速める。
柴田は何か言いかけて、やめた。膝を引いて立つとき、床板を一度だけ強く踏んだ。納得はしていない。それでも動く。この男はそういう男だ。
佐久間は何も言わなかった。言わぬことで、信長に同心していた。
政綱が立って、板戸を引いて出ていった。走る音が遠ざかる。
誰もいなくなった部屋で、信長は書付をもう一度開いた。
三百。四十日。米と塩。
数だけが並んでいる。この数を並べた者は、三河の在所に何人の男がいて、田植えがいつ済んで、四十日食わせるのに米が何石要るかを知っている。知っていて、それを普請の名目に収めた。
元康の知恵か。
——いや。
元康なら、自分で頼みに行く。あの男は人に頭を下げるのを厭わない。
だが、頼んだ者は値を引かせない。頭を下げて頼んでおいて、そのうえ安くしろとは言えぬからだ。値が引かれているということは、引いたのは売る側だ。
売る側が、損を承知で、この米を三河に積ませたがった。
商人が、そこまで気を回すか。
回す者がいる。二月の竹束を思い出した。束の太さも、縄の巻き数も揃っていた。あのときも思ったのだ。誰かが帳面で数えておる、と。
今度は、その誰かが三河へ米を売っている。
「二千は囮だったか」
口に出してみて、しっくりこなかった。
囮なら、義元は三河の兵を前へ出す。囮として二千を削らせ、後ろから三河四千で叩く。それが筋だ。だが三河の兵は在所にいる。出てきていない。
囮なら、食いついたところを叩きに来る者がおる。誰も来ぬ。
では何だ。
東の二千は本気で足りず、西の三千五百は止まったまま動かず、呼ばれた三河は飯だけ積んで在所にいる。どれも、噛み合っていない。
噛み合っていないなら、こちらは好きに叩けるはずだ。東を潰してから西へ向かえばよい。
それができぬ。
三河の三百が怖いのではない。三百など、こちらの一隊で足りる。分からぬのは、あれが何のために置かれているかだ。
置いた者の考えが読めぬ以上、どれを叩いても、叩いた後に何が起きるか見当がつかない。
誰も揃えていないのに、こちらの手だけが塞がっている。
信長は膝の上で指を組んだ。
「……誰ぞ、別の場所で盤面を動かしておる者がおるな」
声に出すつもりはなかった。だが出てしまった。
広間には誰も残っていない。
義元ではない。あの男は値をつける男だ。値をつける者は、儲けの出る手しか打たない。二千を削られて、城も湊も一つとして取れておらぬ。これでは値の付けようがない。
斎藤でもない。あれは止まっているだけだ。
元康でもない。あの男は身を守っているだけで、盤面には手を出していない。
誰でもない者が、手を出している。
その者が何をしたいのかが、分からぬ。
今川を勝たせたいのか。織田を潰したいのか。どちらでもなさそうなのが、いちばん気味が悪い。勝たせたいなら三河の兵を出す。潰したいなら二千では来ない。なのに、こうして織田は城へ引かされている。
わしに見えてないものがある。
七年前もそうだった。桶狭間の朝、田楽狭間へ向かう道で、こちらの動きだけが先に知られていた。誰が知らせたのかは、いまだに分からない。あのときは、運が悪かったのだと思うことにした。
二度目は、運ではない。
信長は立ち上がった。
いったん清洲へ戻る。それは決めた。
だが、城へ入って門を閉める気はない。
門を閉めて、堀を深くして、兵を入れる。それで何日もつかを数えてみた。蔵の米と、井戸の水と、二千の口。答えが出た。
四十日。
三河に積まれた米と、同じ日数だった。
偶然だろう。向こうがこちらの蔵を数えているはずもない。だが、数が出てしまえば、あとはそこへ向かって減っていくだけだ。
籠城とは、援けが来るまで持ちこたえることをいう。
この城に、誰が来る。
美濃は敵だ。今川は引かぬ。西の六角は、こちらに義理がない。近江の浅井とは、縁組みの話がまだ途中だ。来ぬものを待って四十日を数えるのは、籠城ではない。ただ、閉じこもって死ぬだけだ。
そして、もう一つある。
相手が見えぬ。
誰が何のために盤面を動かしているのか、それが分からぬまま門を閉めれば、外で何が組み上げられても見えぬままになる。見えぬ相手と、狭い場所で向き合う。そんな戦を、わしはせぬ。
信長は草鞋の紐を結び直した。結びながら、家臣の顔を順に思い浮かべた。政綱、佐久間、柴田。名も知らぬ足軽まで入れて、二千あまり。
城に入れば、この二千は城と一緒に数えられる。囲まれた日から、蔵の米と同じように減っていくものになる。城を出れば、二千は二千のままだ。
城は焼けても建つ。人は焼けたら建たぬ。
「馬を引け」
表で嘶きが上がった。
湿気ばかりが重い。七年前のような、都合のいい雨は降らぬ。あのときは天が味方をした。今度は、天も何も、こちらを見てはいない。




