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【第86話】来ない味方

空の荷車が、三つ並んでいた。


六月三日の朝、遠州屋の土間に、鳴海から戻るはずの車が戻ってきた。戻ってはきたが、何も積んでいない。


「向こうで下ろせと言われたそうよ」


佐夜が帳面を開いたまま言った。


「誰に」


「侍」


それだけだった。それ以上のことを、車を曳いてきた男たちも知らない。鳴海の手前で止められ、荷を下ろせと言われ、受け取りの紙ももらえずに帰された。文句を言えば刀を抜きそうな顔をしていたという。


僕は帳面の欄に、下ろした場所と俵の数を書いた。書きながら、手が少し止まった。


紙をもらえなかった、というところで止まった。


荷を取り上げるときは、誰が何をいくつ取ったかを書いて渡す。後で代金を払うためだ。それがなかったということは、書く者がその場にいなかったということになる。


帳面をつける人手まで、前へ回っている。


「銭は」


「もらえてない。あとで届けるって」


「届くのか」


「届くでしょ。今川が潰れなければ」


佐夜は筆を止めずにそう言った。冗談のつもりらしかった。笑えなかったのは僕のほうだ。


彦四郎の手紙が来たのは、その日の昼過ぎだった。


相変わらず几帳面な字で、書いてあることも相変わらず事務的だった。大高の蔵に残っている米の俵数。塩と味噌の残り。竹束の作り直しが何組進んだか。玉薬の樽が幾つあるか。末尾に、朔日以降の分は別紙にて、と断り書きがある。


別紙は入っていない。入れられなかったのだろう。


帳面を朔日で切ったということは、その日に何かがあったということだ。


数字しか書いていない。


だから、数字を読む。


玉薬の樽が、四月の手紙のときより減っている。撃っているということだ。米の俵は減り方が急で、先の手紙から十日で三割近く動いている。


三割。


大高が養っている人数が、増えている。


僕は算盤を出して、一日あたりの消費から人数を割り出した。四月の手紙の俵数から出したときより、倍に近い。


攻めているなら、竹束を組む手が要る。組んで、押し出すからだ。その作り直しが止まっている。人手は別のことに取られている。


増えているということは、押されているということだ。増やすのは、足りないと分かったときだ。


手紙の終わりに、一行だけ違うことが書いてあった。


——鳴海の蔵を、空けはじめた。


蔵を空けるのは二つのときだ。前へ送り出すときか、退くときか。


送り出すなら、どこへ何俵と書いてある。彦四郎はそういうことを書き落とさない。書いていないということは、送り出す先が決まっていないということだ。


決まっていないのに蔵を空けはじめたのなら、退くほうの支度だ。


僕は手紙を畳んだ。畳んでから、もう一度開いて、その一行だけ読み直した。


分かったのは、朔日に何かがあったということだけだ。誰が戦っているのか。どこで押されているのか。元康様の三河衆は前に出ているのか。美濃はどうしたのか。そのどれも書いていない。


彦四郎は書かない。書けば、届く前に読まれるかもしれない。


数と俵だけが、僕のところに来る。


午後、荷の差配に来た問屋の手代が、土間で草鞋を直しながら言った。


「三河へ下る分は、増やしてくれと言われております」


「三河へ」


「はい。矢作の普請の分に、また足すと」


四十日で三百人。米六十石。あの見積もりに、さらに足す。


僕が勧めて、僕がまけた荷だ。


「どなたから」


「岡崎のお屋敷の、蔵方の方から」


元康様ご本人ではない。


前のときは、ご本人が来て頼んでいった。今度は蔵方から、前の分に足すという形で来る。新しく頼んだのではなく、前に頼んだものが少し増えただけになる。


帳面には、そう残る。後で目録を検める者がいても、増えたのは普請の米だ。


手代が帰ってから、僕は帳面を三冊並べた。


鳴海から戻る荷が減っている。三河へ下る荷が増えている。大高の米は急に減っている。


三つの数字が、同じ一つのことを指していた。


尾張の東で、今川が押されている。そして三河では、まだ誰も戦っていない。


珠をいくつか動かして、答えを書かないまま帳面を閉じた。


元康様の三百人は、鍬を持っている。槍には持ち替えていない。持ち替えられる者たちが、矢作の川筋で土を運んでいる。


誰が、何を待っているのか。


考えかけて、やめた。僕が考えても、僕には何も動かせない。


夕方、臨済寺の使いが帳面を取りに来た。寺領の年貢の割り付けで、これは戦とは関係がない。関係がないものを書いていると、少し落ち着く。


書き終えて外へ出ると、通りを馬が二頭、駿府館のほうへ駆けていった。


土埃が立って、しばらく消えなかった。


翌日、駿府館から使いが来た。大高ではない。館におられる御屋形様からだ。


若い侍だった。口上は、御屋形様より、で始まった。太守様の名は、最後まで一度も出なかった。


大高を通さずに、館だけで動いている。


「御屋形様より、遠州屋へお尋ねでございます」


佐夜が框に膝をついた。僕は後ろに座った。


「大高まで、荷をどれほどの日数で運べるか。あと、三河の岡崎からは幾日か」


商いの問いだった。だから佐夜が答えた。


「駿府から大高へは、荷車で六日。急がせて五日。岡崎からなら二日です」


「二日」


「はい。二日です」


使いは繰り返して、書き付けた。


書き付けてから、顔を上げた。


「……近うございますな」


言ってしまってから、しまったという顔をした。侍が商家で漏らす言葉ではない。


僕は畳の目を見ていた。


兵だけなら、もっと早く着く。だが兵糧は荷車の足でしか動かない。だからこの人は、荷車の日数を訊きに来た。


駿府から六日。岡崎から二日。どちらが先に大高へ着くかは、訊くまでもない。


使いが帰ってから、佐夜が湯呑みを片づけながら言った。


「御屋形様は、何を訊いたの」


「荷の日数だ」


「そうじゃなくて」


佐夜は僕を見ていない。湯呑みを重ねている。


「あの人たちが商人に訊くときは、荷の話をしてるふりをして、別のことを測ってる。あんたが一番よく知ってるでしょ」


僕は答えなかった。


答えなかったのは、佐夜が正しいからだ。


御屋形様は、援軍が何日で届くかを測っている。駿府から出す兵は六日かかる。それでは間に合わないかもしれない。間に合う場所に、すでに人が集まっている。


三河に。


誰かがそれを言えば、話は動く。言わなければ、動かない。


僕は評定に出られない。出られないから、言えない。


言えないことに、少し安堵している自分がいた。それが一番、始末に困った。


その夜、遠が熱を出した。


額に手を当てて、佐夜が「夏風邪ね」と言った。それから、少し黙った。


「薬種が、切れてるのよ」


「取り寄せは」


「あっちから来る分だから」


あっち、と佐夜は言った。鳴海から先だ。今朝、空のまま戻ってきた荷車が通ってきた道だ。


僕は夜中に二度起きて、寝息を確かめに行った。


二度目に廊下へ出たとき、佐夜も起きていた。


「寝なさいよ」


「……ああ」


「あんた、戦の話を考えてるでしょ」


「子の顔を見ていた」


「同じことでしょ」


佐夜はそう言って、部屋へ戻っていった。


同じことだ。


熱で赤くなった遠の顔が、まだ目の奥にあった。その顔のために、僕は米をまけた。まけた米は三河へ下っていく。三河の人足は、まだ土を運んでいる。


運び終わったら、どうなるのか。


障子の外で、風が鳴っていた。梅雨の晴れ間が続いている。六月にしては、雨が少なかった。



   *   *   *



大高の書院では、その夜も燭台が二つ灯っていた。


鵜殿長照が絵図を巻き直しながら言った。


「美濃は、墨俣より動きませぬ」


「動かぬか」


義元は脇息にもたれたまま、目を開けなかった。


「伊勢路の繋ぎから、桑名より船で届いた報せにございます。二日遅れにて。渡りかけた先手を戻し、そのまま陣を張っておると」


「何日になる」


「三日にございます」


三日。


朔日に動き、その日のうちに止まり、そのまま動かない。


「織田は」


「鳴海の西へ出て、こちらの備えを削っております。……昨日、戸田の手勢が崩れましてございます」


義元は目を開けた。


戸田。二十年前、駿府へ送られる途中の竹千代を織田へ売った一族だ。それを許して、前へ置いた。置いた場所が崩れた。


「死んだか」


「二十ほど、と」


義元は何も言わなかった。


「三千五百を、誰が止めておる」


「分かりませぬ」


「川か」


「水は出ておりませぬ」


ならば止めたのは人だ。


義元は扇子を膝の上に置いた。置いたまま、開かなかった。


「斎藤は、来ぬな」


言葉にすると、それは事実になった。


「……四月に、申し上げました」


長照がそこまで言って、口を閉じた。


向こうが、恨みますまいか。あのとき、この男はそう訊いた。恨まぬ、と答えた。頼んできたのは向こうだ、と。


恨まぬ、と言い切ったのは儂だ。その見立てが、外れたのかもしれぬ。


広間の隅で、誰かが小さく息を吐いた。それは安堵ではなく、これで言えるという息だった。


「はじめから、その腹であったのでは」


言ったのは末席の若い侍だった。義元は、その名を覚えていない。


「書面の三千五百も、旗だけでございましょう。川向こうで、こちらが織田と噛み合うのを見ておるのでございます」


誰も止めなかった。


義元も止めなかった。


止めれば、ではなぜ止まっているのかを説かねばならない。説けなかった。


「二千で足りるとお考えになったのは、太守様にございます」


そう言う者は一人もいなかった。いないことを、義元は知っていた。


知っていて、何も言わなかった。


やがて、目を閉じたまま言った。


「長照」


「は」


「岡崎へ、早馬を」



   *   *   *



稲葉山では、長井道利が同じ夜に同じことを考えていた。


墨俣の陣から早馬が来ている。渡しの向こうに織田の旗はない。道は空いている。それでも先手は戻したままだ。


戻せと言ったのは道利ではない。西美濃の後備が動かなかった。後ろが動かねば、前は渡り切れない。糧も、退き口も、後ろが持っている。


なぜ動かぬのかと問うた。


返ってきたのは、今川は来ぬそうにございます、という言葉だった。


どこから聞いた、と訊いた。


返事はなかった。


あの三人が去年から誰と文を交わしているかは、およそ知れている。知れていて、問い質せない。三家で八百。その八百が抜ければ、この陣は組み直しになる。


道利は広間の柱にもたれて、燭台の火を見ていた。


今川は来ぬ。


その話が嘘なら、誰かが流している。誰が流したかは見当がつく。流す理由も分かる。


だが、嘘だと言い切れない。


三千五百と書かされ、二千と返された家だ。あの日から、この城の者は今川を数えている。数えている相手のことを、人は信じない。


嘘であっても、当たっているかもしれない。それが一番、質が悪い。


もし今川が本当に来ていないなら、動かぬ後備は正しい。もし来ているなら、動かぬ後備がこの家を滅ぼす。


どちらか分からぬまま、三日が過ぎた。


三日のあいだに、何人かが「今川は何をしておる」と口にした。


道利は止めなかった。


止めれば、ではなぜ動かぬのかを説かねばならない。説けなかった。


広間の奥で、龍興が寝ずに座っている。十九の背中が、柱の陰に見えた。


次は、こちらから頼まぬ。


あの日、主君はそう言った。


頼んでいない。今度は、こちらが頼まれた側でもない。同じ日に出ると書いて、書いたとおりに出て、それで止まっている。


止まっている理由を、この家の誰も説明できない。


燭台の芯が爆ぜた。


次にこの家が誰かへ頭を下げるとき、某が止める。あの夜、そう決めた。


だが今度は、頭を下げてなどいない。書いたとおりの数を出し、書いたとおりの日に動いた。落ち度はどこにもない。


落ち度がないまま、この家は四月に呑まされたときと同じところに立っている。止める機会は、来なかった。


道利は膝の上で指を握り、それから開いた。手のひらが、汗で濡れていた。

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