【第85話】六月朔日
両方が、同じ日に動いた。
清洲の広間は朝から蒸していた。信長は障子を開け放たせたが、風は入らない。梅雨の晴れ間の、雨より始末の悪い日だ。
「東は鳴海から西へ。旗は、二千」
簗田政綱が書付から目を上げずに言った。指が次の行へ下りる。
「西は、墨俣の渡しにかかっております。三千五百」
柴田勝家が膝を進めた。
「二千とは。舐められたものでございますな。ならば好都合。西が着く前に東を叩き、返す刀で川を背にした美濃を。手薄なほうから潰すのが戦の理でござる」
広間が沸いた。誰かが早くも槍の数を数え始めている。
佐久間信盛だけが、膝の上で手を組んだまま動かない。
「その二千、囮ということはございませぬか」
信長は答えなかった。
二千。
書付の上で、指がその二文字から動かない。
前に来たときは五千だった。あれから四月。今川は尾張の東半分を押さえたままで、兵を減らす理由がどこにもない。むしろ美濃と組んだ今こそ、増やすべきときだ。
なのに、減らしている。
「西の数は、はじめから三千五百か」
「旗の数からは、さように」
信長は書付を畳んだ。
囮ではない。囮なら、もっと本気に見える数を出す。
戦の話ではない。
頼んできたのは美濃だ。挟み撃ちを言い出したのも美濃だ。その美濃が三千五百を出し、頼まれた側が二千しか出さぬ。
そんな同盟があるか。
買い叩かれたのだ。頼む側は先に数を言う。言わねば話が進まぬからだ。言われた側は、それを聞いてから自分の数を決める。後から決める者が、いつでも強い。
商いだ。それも、あまり品のよくない商いだった。
「試しておるな」
「は?」
「斎藤を、だ」
信長は立ち上がった。
「どこまで呑むかを見ておる。呑めば、次はもっと削る。今度の戦は、大高の御仁にとっては稽古よ。勝てば儲けもの、負けても減るのは二千だけだ」
広間が静かになった。
柴田が眉を寄せている。この男は、そういう話を好まない。
信長も好まなかった。腹の底が、じりじりと焦げるように熱い。
二千で足りると踏まれた。それはつまり、織田は二千で足りる相手だと値をつけられたということだ。四月前、こちらは一戦して退けている。退けた相手に、半分にも足りぬ数で来られた。
「わしを、舐めすぎだ」
低く言って、自分で舌打ちした。
腹が立つのは筋違いだと分かっている。値を踏み違えたのは向こうで、こちらはその誤りで得をする側だ。だが、間違えられたという事実が気に入らない。
信長は絵図の前へ歩いた。
墨俣。鳴海。清洲。三つの点を、指で順になぞる。
美濃から尾張の北へ下る道と、鳴海から西へ来る道。清洲はその間にある。東西のどちらへも、向こうが互いへ動くより早く着ける。
挟まれるのは、二つが同時に来たときだけだ。
「筒は」
政綱が答えた。
「玉薬が、まだ。堺の値が上がったままで、前の戦の分を取り戻せておりませぬ」
分かっていて訊いた。四月前、火矢で縄を焼き、崩れた束へ撃ち込んだ。あの一戦で蔵が空いた。あれから買い足そうとしたが、硝石の値は下がらない。買い足す者が増えたままだからだ。誰が買うておるのかは、まだ見えぬ。
そのうえ、この湿気だ。今日の火縄では、油紙に包んだところで半分は火が回るまい。
筒は使えぬ。
信長は庭を見た。松の葉に水が残っている。昨夜の雨だ。
ならば、槍で足りる相手から片づける。そのためには、二つを引き剥がさねばならぬ。
「西美濃へ、手を伸ばす」
佐久間が顔を上げた。
「あの三人でございますか」
「去年から返書が遅い」
誘いをかけたのは去年の春だ。断りもせず、応じもせぬまま冬を越した。返さぬのではない。返すべきか迷っている者の遅さだ。返書は遅いが、使いは毎月通っている。繋ぎは切れておらぬ。迷う者は、迷いを正してくれる報せを待っている。
「その三人の手勢は、今度の三千五百に」
「入っております」政綱が書付をめくった。「後備に、三家で八百ほど」
後ろが動かねば、前は渡り切れぬ。糧も、退き口も、後ろが持っている。
「流せ。今川は来ぬ、と」
「……それだけでございますか」
「それだけだ」
柴田が口を開いた。
「謀で勝った戦は、家中に残りませぬぞ」
「勝ってから言え」
謀というほどのものでもない。嘘をひとつ、置いてくるだけだ。だが嘘は、相手が半分信じているときにしか効かない。
斎藤は、すでに疑っている。
三千五百を出して、二千しか来ぬ。それを呑んだ日から、あの城の者は今川を数えている。信じている相手のことは、人は数えない。
そこへ、今川は来ぬ、と届く。
「疑うておる者には、疑うたとおりのことを言うてやればよい」
信長は絵図から目を上げた。
「足が止まる。半日でよい」
政綱が書付をまとめて立った。廊下を走る足音が遠ざかっていく。
信長は障子の外の、動かない松を見ていた。
大高の御仁は値をつけるのが上手い。それは認める。だが値をつけるということは、相手を数にするということだ。数にされた者が、どういう顔で城に戻るかまでは、あの男は勘定に入れておらぬ。
昼を過ぎて、西からの報せが来た。雨は、とうとう落ちてこなかった。
美濃勢、墨俣の渡しで止まる。渡りかけた先手を戻し、物見を出して動かず。
早い、と思った。こちらの使いが西美濃に着くより、まだ早い。
止めたのは、わしの嘘ではないのかもしれぬ。
信長は絵図の前を離れた。
「馬を引け」
「東へ、でございますか」
「二千を、数え直してやる」
表で馬が嘶いた。土の匂いが濃い。
草鞋の紐を結びながら、ふと、四月前のことを思い出した。
あのとき、竹の束の太さも縄の巻き数も揃っていた。誰かが帳面で数えている、と思った。
帳面の男は、今日の二千を知っているのだろうか。
知らぬだろうな、と信長は思った。
知っていれば、こんな数では出さぬ。




