【第84話】報せの文面
「美濃と結んだ。聞いておるか」
岡部殿は暖簾を分けるなり、そう言った。向かいの塩屋の女房が、箒を落としかけている。武家が町人地の商家に上がるのは妙な絵になる。前に元康様が来たときも、あの女房は箒の手を止めてこちらを見ていた。
「……荷のことなら」
「そうだったな。そなたはいつも荷から知る」
岡部殿は草鞋を脱いで、框に腰を下ろした。
佐夜が茶を置いて下がった。障子は閉めなくていい、と岡部殿が言った。閉めれば密談になる。開けておけば、ただの世間話に見える。この人はそういうことを考えない人だと思っていたので、少し驚いた。
岡部殿は湯呑みに手を伸ばして、飲まずに置いた。
「甲斐と相模へ、どう報せるかでお悩みだ」
三国同盟の枠の外で、今川が美濃と結んだ。武田と北条には、一言もない。
「隠せば、後で知れたときに信を失う。書けば、断りもなく結んだと残る。……そう仰せだ」
どちらも正しい。正しい道が二本あって、どちらを選んでも減るものがある。
「岡部殿。その文は、どなたの名で出されますか」
「……御屋形様の名で出すよりあるまい」
「では、御屋形様がお決めになったことになります」
岡部殿の指が、湯呑みの縁で止まった。
「決めておられないのに」
言ってから、言いすぎたと思った。だが岡部殿は怒らなかった。膝の上で拳を握って、ほどいた。
「……それだ」
それきり黙った。
僕は帳面を横にどけた。
「順を決めるしかないと思います。どちらを先に出すか」
「甲斐と相模か」
「はい。同じ日に同じ文が届けば、どちらも自分が二番目だと思います」
「……どちらを先にする」
「それは、御屋形様がお決めになることです」
岡部殿が黙ったので、僕は付け足した。
「相模へは、御台様からのお文を添えられてはいかがでしょう」
「……御台様を、使うのか」
岡部殿の声が、少し低くなった。
北条氏康の娘。御屋形様の正室で、駿府に来て十三年になる。僕は書物蔵で御名を目にしただけで、お姿を見たことはない。
「家と家の話を、家の内の話にできます。父御に娘が近況を書く。それだけなら、外交ではありません」
「……誰が、御台様に頼む」
「御屋形様しかおられません。夫が妻に頼むのなら、評定は要りません」
「文の中身は」
「何でも構わないと思います。むしろ、何でもないほうが」
岡部殿はしばらく天井を見ていた。それから、湯呑みの茶を一息に飲んだ。冷めていたはずだ。
「持ち帰る」
立ち上がりかけて、座り直した。
「御屋形様はな、評定でお決めになれる。判も集まる。そなたが作った、あの面倒な持ち回りのおかげだ」
「……はい」
「だがな、大高から来たものには、判の押しようがない」
戸口の外で、荷車の車輪が鳴っていた。
岡部殿が帰ってから、僕はしばらく帳場に座っていた。
判の押しようがない。
十二年前、僕は雪斎様の名を騙って、重臣五人で書付を回す仕組みを立ち上げた。あのとき評定で言い添えた言葉を、いまでもそらで言える。おひとりの頭に頼る国は、そのおひとりが倒れた日に止まる。
頭を一つに頼らせないために作った。その頭を、一つ減らしたつもりでいた。
減らせていなかった。駿府の内側では歯車が回る。回ったところで、大高で扇子が一度鳴れば、それで決まる。僕が組んだのは、屋根のない家の壁だった。
算盤の珠を一つ弾いて、戻した。
日が傾いてから、元康様が来た。
今度は供も連れていなかった。草鞋のまま土間に立って、汚れた足を見せないように片足を引いている。
「縄を、都合してもらえるか」
そう言って上がってきた。
紙を出して、筆を取る。
「太さは」
「杭を結ぶ。太いほうがよい」
「何に、お使いで」
用途を訊かねば、品の見当がつかない。商いの作法だ。
「矢作の川筋が、去年の水で二か所やられた。堤を直す。人足を集めておる」
「……この時期にですか」
「田植えの後だ。手は空く」
嘘ではない。田の仕事が一段落する頃で、人を集めるには悪くない。三河の国衆は自分の土地の普請に人を出す。今川の指図はいらない。
「何人ほど」
「三百」
「日数は」
「四十日、と見ておる」
僕は数を書き並べた。三百人が四十日。一人一日五合として、米が六十石。塩は、人足の飯なら一人一日二勺ほど。味噌を付けるなら別に要る。
書きながら、手が止まった。
三百人。四十日。
堤を直す人足は、鍬を持つ。その鍬を槍に持ち替えられる者が、三河の在所には、いくらでもいる。
顔を上げた。元康様は湯呑みを両手で包んで、こちらを見ていなかった。庭の干し物の竿を見ている。何も隠していない人の座り方だった。何も隠していないから、訊かれたことにだけ答えている。
僕は、訊かれていなかった。
「元康様」
「うむ」
「米と塩は、足りておいでですか」
元康様の指が、湯呑みの上で止まった。
「……足りるように、見積もっておる」
「こういう時は、備えとして少し多めに手配されたほうがよろしいかと存じます」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「普請は延びるものです。雨が続けば土が締まりません。延びれば人が増えます。増えてから買い足すと、値が上がっているものです」
「……ふむ」
「遠州屋なら、まとめてお出しできます。——まけておきますよ」
庭で、干し物が風に鳴った。
元康様は湯呑みを畳に置いた。置く音が、やけに小さかった。
「そなた、いま、何を申した」
この人は聡い。
「商いの話をいたしました」
「商いか」
「はい。それだけです」
元康様は、僕の顔をまっすぐに見た。前に蟻の列を眺めていたときと同じ目だった。探るのではなく、確かめる目だ。
それから、笑った。声を立てずに、口の端だけで。
「頼む」
佐夜が空の湯呑みを下げに来たのは、表の戸が閉まってからだった。
「いくらで」
この前と同じことを訊かれた。あのときは答えられなくて、目録を畳もうとした手が折り目の手前で止まった。
今日は答えた。米六十石、塩と味噌。値を言った。
佐夜は算盤を弾いて、眉を上げた。
「一割、引いてるでしょう」
「……少し、まけた」
「——普請の米ね」
僕は答えなかった。
「あんたが決めたの」
同じ問いだ。あのとき、僕は違うと答えた。
「今度は、僕が言った」
佐夜は算盤の珠を親指で払って、しばらく黙っていた。
「そう」
それだけだった。筆を取って、帳面に何か書き込んでいる。
「こぼれた分は、来月の帳面につけとく」
「……すまない」
「謝らないで。損はしてないから」
筆が一度止まって、また動いた。
「……今日は、もう帳面はいいから」
「まだ途中だ」
「いいの。遠が待ってる」
竹束を麻縄で締めろと言った夜は、眠れなかった。
今日も僕が言った。だが、今日は指が震えていない。
見えているのは、三百人の人足と、四十日と、六十石の米だ。その向こうに、待っている遠の顔があった。
そのために三河の兵を肥やしているのだとしたら、僕はどちらの側に立っているのか。
考えかけて、やめた。今日の分は、もう決めた。
甲斐と相模へ出る文は、まだ誰の手の中にもない。
表で荷車の車輪が鳴った。三河へ下る荷だ。明日からは、あれに僕の米が載る。




