【第82話】美濃からの使者
大高城の一室で、義元は同じ書付を三度読んだ。
その隣に、もう一通。美濃の花押が据えられた書状が、開いたまま置かれている。持ってきた使者は、三日前から控えの間にいた。
永禄十年、三月。
鳴海から西へ一里。山崎川の手前の低い野で、今川の五千は止められた。清洲は指先にも触れていない。竹束は焼け、麻縄が切れ、束の崩れたところへ弾が撃ち込まれた。討ち死に十七。隊は折れずに退いたというから、鵜殿の采配は悪くない。
悪くないのだ。それが気に入らなかった。
去年の暮れ、あの右筆は言った。鉄砲が最も生きる形に乗らぬこと。湿地、霧、雨上がり。竹束と持盾で間合いを詰めること。筋は通っていた。通りすぎているほどだった。
だが信長は、竹を焼かずに縄を焼いた。
「儂の目が、曇ったか」
義元は独り言ちた。あの男を買いかぶったのではない。そうではなく、信長のほうが半歩先にいた。それだけのことだ。それだけのことが、腹の底に重く残る。
美濃の書状に目を戻す。
斎藤龍興。稲葉山の主。三年前に家臣に城を追われ、半年で取り返した男だ。その男が、東西から織田を挟もうと言ってきた。駿府から回された氏真の添え状は短い。いかが思し召されますか、とだけある。決めよとは書いていない。父に伺いを立てる形を崩さぬ息子の字を、義元はしばらく眺めた。
「評定を開く」
大高に詰める者たちが集まった。
「願ってもないことでござる。美濃が西から動けば、織田は二つに割れる」
「斎藤など当てになるものか。家中が割れて城を追われた男だぞ」
鵜殿長照が、膝の上で手を組んだまま言った。
「太守様。先の一戦で、こちらの手の内は一度見られております。二度目は、同じようには参りませぬ」
「では、やめておけと申すか」
「やめよとは申しませぬ。ただ、二度目に見られて困るものが何かを、先に決めておくべきかと」
まともな意見だった。だが座は、そちらへ流れなかった。
「あの一戦の借りは返さねばなりませぬ。三河衆が退いた分、次は我らが」
「退いたのではない。殿を務めたのは松平の隊ぞ。誰も置いてこなかった。……あれを、負けと呼ぶのか」
義元は扇子の先で脇息を叩いた。音がひとつ鳴って、座が静まる。
銭の話をする者が、一人もおらぬ。
こういう場を、雪斎は一睨みで終わらせた。終わらせたうえで、誰も損をしない形の裁定を出した。あの坊主の頭の中には、この座にいる全員の面目と借りと縁戚が、綺麗に並んでいたのだろう。
儂には、それがない。
ふと、思い出した。
荷の値を毎日つけておる男がおる。
儂が直に文をやれば、氏真の裁きが嘘になる。呼びつければ、鵜殿がまた困った顔をする。だが、ついでに寄る者がいるなら話は別だ。
「元康」
末席で黙っていた男が顔を上げた。
「三河衆の兵糧の検めで、近々駿府へ下ると申しておったな」
「は。明後日にも」
「駿府に、遠州屋という商家がある。そこの婿に、この話をどう見るか訊いてみよ」
「……承知いたしました」
どの婿か、とは訊かなかった。元康の表情は動かない。動かなすぎる。
「呼びつけるな。ついでに寄ったという体を崩すな。……鵜殿に叱られるのは、一度で懲りた」
「太守様。あのときは、通りかかった体をこしらえるのに三日かかったのでございます」
鵜殿が渋い顔をし、座に小さな笑いが起きた。
「商人に、政を訊かれますか」
誰かが呟いた。義元はそちらを見ずに答えた。
「訊くのではない。値のつけ方を見るのだ」
次の間で、帳面の束を抱えた代官所の者が、手を止めていた。匂坂弥三郎という。誰も、その手が止まったことに気づかなかった。
* * *
元康様は、履物を揃えてから離れに上がってきた。
「急に訪ねてすまぬ。荷の検めのついでだ」
供は表に残してきたらしい。付いてきたのは一人だけで、その者も戸口の外に座った。三河の将が商家の離れに上がること自体、町の目には妙に映るはずだ。現にさっき、向かいの塩屋の女房が箒の手を止めてこちらを見ていた。
佐夜が茶を運んできて、何も言わずに下がった。障子を閉めるとき、ほんの一瞬だけ手が止まったのが分かった。
「美濃が、同盟を言うてきた」
元康様は前置きをしなかった。
「織田を東西から挟もうと。太守様が評定に諮られたが、まとまらなんだ。そなたなら、これをどう見る」
僕は茶に手をつけないまま、しばらく黙っていた。
「……元康様は、どうお考えですか」
「某が答えては、訊いた意味がない」
そう言って、元康様は少し笑った。
「だが、隠すことでもないな。挟むとなれば、東から押すのは三河衆だ。前に立つのは某の兵になる」
だから訊きに来たのだと、この人は言わなかった。言わなくても分かった。
僕は懐に手を入れた。美濃の荷の写しを取り出そうとして、指が別の紙に触れた。大高の彦四郎から届いた手紙だ。討ち死に、十七。あの一行の上に、消そうとして消し切らなかった筆の跡がある。
写しだけを抜き出して、畳の上に広げた。
「美濃は何人出すのですか。いつ出るのか。兵糧は誰が担ぐのか。書状に、そのあたりは書いてありましたか」
元康様の眉が、わずかに動いた。
「……ない」
「では、まだ何も約束されていません」
自分の声が、思ったより低いことに驚いた。
昔は策から話した。いまは、人数から訊いてしまう。
僕は紙の上の品目を指でなぞった。
「この荷が駿府に入ったのは、二月の終わりです。塗りの鞍が一背、鷹の羽が一括り、太刀の拵えが二つ。進物にしか使わない品ばかりです。そして、口銭が先に払われていました」
「先払い」
「はい。荷が着く前に、銭が置かれている。急ぎで、確かに通してほしいという意味です。仲買が珍しいと言っていました」
元康様は写しを見た。しばらく見てから、顔を上げた。
「急いでおるな」
「……使者は、いつ大高に着かれましたか」
「某が発つ、その三日前だ」
僕は日付のところを指で押さえた。
「荷が入ったのは、二月の終わりです。荷のほうが、先に着いている」
「先に、荷だけを走らせたか」
「頼めば通ると思っているなら、使者と一緒に運ばせます。先に地ならしをしたということは——断られるかもしれないと、向こうが思っているのです」
言ってから、胸の底が冷えた。
僕の知る歴史では、稲葉山は今年の八月に落ちる。落とすのは信長で、城を追われるのは斎藤龍興だ。あと五か月で終わるはずの男が、いま、こちらへ手を伸ばしている。
だがその信長は、尾張から一歩も出られていない。国境で玉薬を使い切る戦をやっている男に、美濃まで攻め上る余力があるとは思えない。八月は来ないかもしれない。来るかもしれない。
僕の返事は、あの城まで届く。
初めてではない。竹束を麻縄で締めろと言ったのは、僕だ。あれで死んだ者がいる。
それでも僕は、自分が決めたわけではないと思っていた。訊かれて答えただけだと。
焼かれる側に立ったことはない。今日もない。
ただ、焼くか焼かないかを決める部屋の、隣の部屋に、十七年いる。
今日の分を、決めるしかない。
「……どう見る」
元康様が、もう一度訊いた。
僕は写しを畳んだ。
「先に口銭を払う荷主は、足元を見られています」
「ほう」
「急いでいる者は、値を叩かれます。断られたくない者は、なおさらです」
元康様が、ほんのわずかに目を伏せた。半呼吸だけだった。断れない側の話をされて、自分の家を思わないはずがない。三河は、今川に断れない。
「ですから、深く掛けないほうがよろしいかと存じます」
僕は続けた。
「弱った相手と縄を結ぶときは、あまり強く締めないほうがよろしいかと。向こうが折れれば、こちらの端も一緒に落ちます。……値を叩けば叩くほど、その縄は細くなる」
元康様はしばらく黙っていた。それから、紙の置かれていた畳の目を見て言った。
「縄は、締めるほど細くなる、か」
繰り返してから、頷いた。
「よく分かった。そのまま申し伝える」
障子が閉まる。
しばらくして、佐夜が湯呑みを下げに来た。茶は冷めたまま残っていた。
「あのお方、何しに来たの」
「……荷の検めの、ついでだ」
佐夜は僕の顔を見て、それ以上は訊かなかった。湯呑みを盆に載せ、出ていく前に一度だけ振り返った。
「深いところまで、行かないでよ」
* * *
元康が大高へ戻ったのは、評定から十日ののちである。
美濃の使者は、まだ控えの間にいた。
「遠州屋の婿は、何と申した」
「は。先に口銭を払う荷主は、足元を見られている、と」
「ほう」
「急いでいる者は値を叩かれる。断られたくない者は、なおさら——」
「——では、まだ下げられるということじゃな」
元康は、口を開きかけた。
続きがございます、と言えばよかった。深く掛けるな、縄は締めるほど細くなる、と。あの右筆はそう言った。そちらのほうが、言葉の数としては長かった。
だが、上座の男はすでに書状へ手を伸ばしていた。斎藤の花押を、指の腹で二度なぞっている。前当主の見立てを、三河の将が引き戻す。それができる場ではなかった。
まして、断れぬ側の家を預かる己が、弱った相手を叩きすぎるなとは言えなかった。己のために申しておるのだろうと、そう取られて終わる。
元康は、口を閉じた。
「美濃から出す兵の数と刻限を、書面にさせよ。……この使者は持っておるまい。稲葉山まで問い合わせることになる。返答は、それだけで十日は延びる。延びた分だけ、向こうは焦る。焦ったところで、こちらの出す兵を一段減らす。向こうの数は、書かせたままでな。……急いでおる者は、断れぬ」
灯が揺れた。義元は扇子を閉じ、口元の形を変えた。
「あの男は、よい値のつけ方を知っておる」
そして、次の間へ声を投げた。
「控えの者を呼べ」
板戸が開く。三日のつもりで来て、十三日を待った男が入ってきた。袴の膝が、座り続けた形に皺を寄せている。使者は畳に手をつき、額を下げた。
顔を上げたとき、その目が、返事を待つ者の目をしていた。




