【第81話】今日の取引
討ち死に、十七。
彦四郎の手紙の真ん中に、その一行があった。崩れた竹に足を取られたところへ撃ち込まれた、と前の方に書いてある。十七のうち何人が束を抱えていたのかは、書いていない。書かなくても、分かる。
麻縄を使えと言ったのは、僕だ。
手紙を受け取ってから七日が過ぎても、僕の指は帳面の上で止まったままだった。
二月の終わりの風はまだ冷たく、帳場の炭は朝に熾したきり、灰をかぶっている。数字は目に入っている。だが、頭の中で数にならない。塩が何俵、運賃が何文。読んだそばから抜け落ちていく。
手紙の残りは、いつもの几帳面な字で埋まっていた。竹の切り出しから何日以内なら青いまま使えるか、縄を濡らして巻く工夫、いっそ鉄の輪で締める案。寸法の数字が、何行も続く。
その終わりに、一人だけ名前が書いてあった。
六助。
竹を割るのが誰より早かった男だ。大高の裏で試作をさせたとき、僕の書いた図を一度見ただけで、巻きの順を覚えた。いい手だと言うと、照れて手の甲で鼻をこすった。あの手の甲は、縄で擦れて赤かった。
俺が束ね方を教えた男だ、と彦四郎は書いていた。それだけだ。十七のうちの一人だとは、どこにも書いていない。書く必要がなかったからだ。
その一行の上に、筆を一度引いた跡があった。消そうとして、消し切らずに、そのまま出したのだと分かる。
彦四郎は、僕がこの名前から何を読み取るかを知っている。知っていて、残した。
僕は手紙を畳み、また開いた。
「圭さん。それ、二枚目まで見た?」
佐夜の声で、我に返った。帳場の向こうで、筆を持ったまま僕を見ている。
「……ああ。いや、まだだ」
「まだ、じゃなくて。さっきから同じところを見てるでしょ」
僕は手元に目を落とした。塩の受け渡しの帳面を、たしかに同じ行のまま眺めていた。
土間の方から、小さな足音が近づいてきた。
「とうさま」
遠が、木の切れ端を握って立っていた。舟の形に見えなくもない、削りかけの何かだ。
「舟か」
「うん。でも、まだ帆がないの」
帆を張るなら、細い糸で横木に結ぶことになる。そう思った自分に気づいて、僕は目を逸らした。
「そうか。できたら見せてくれ」
遠は満足そうに頷いて、また土間へ駆けていった。僕は帳面を引き寄せたが、筆は持たなかった。
「大高で、何かあったの」
佐夜が、筆を動かしたまま言った。こちらを見ていない。
「……僕が書いた寸法のとおりに作った物が、役に立たなかった」
「ふうん」
それだけだった。何のための物だったのかを、佐夜は訊かない。訊けば答えられないことがあると、この人はもう知っている。硝石の話をした夜も、佐夜は一度だけ僕の顔を見て、それきり値の話に戻った。
助かっている。そう思うたびに、少し苦しくなる。
「で、どうするの」
「どう、とは」
「次はどうするの、って聞いてるの」
佐夜は帳面を一枚めくった。
「役に立たなかったんでしょ。なら次は、役に立つやつを作ればいいじゃない。何が駄目だったの」
「……縄が、焼けた」
言ってしまってから、少し息が詰まった。
佐夜は筆を置いた。平らな声だった。
「なら、焼けない縄を仕入れればいいじゃない」
「え」
「麻が焼けるなら、濡らして巻くか、鎖にするか。鎖は値が張るし重いけどね。それか、そもそも縄で締めない作りにするか」
僕は言葉に詰まった。彦四郎も、同じことを書いていた。ただ、彦四郎は詫びるような書きぶりで、佐夜は当たり前の顔で言っている。
「……そういう話じゃないんだ」
「そういう話でしょ」
佐夜は帳場から立ち上がり、湯呑みに白湯を注いで、僕の前に置いた。
「うちの蔵が焼けたことがあるの。あんたが来るずっと前。あたしがまだ十四か、十五の頃」
初めて聞く話だった。
「干物と、油と、南蛮の硝子が三十ばかり入ってた。全部だめ。父が三日寝込んで、起きてきて最初に言ったのが、次はどこから仕入れるか、だった」
「……冷たくないか」
「冷たいわよ。でもね」
佐夜は湯呑みの縁を指でなぞった。
「焼けた蔵の中身を数えても、椀は一つも戻らないの。数えてる間に、次の船が出ちゃう。うちは、それで何度も助かってる」
僕は白湯を口に含んだ。熱くもぬるくもない。ちょうど飲める温度だった。
「人が死んでも、同じか」
佐夜の手が止まった。
こちらを見た目が、少しだけ強くなった。
「同じなわけ、ないでしょ」
低い声だった。
「でも、死んだ人は戻らない。戻らないから、次に死なせない物を仕入れるの。悔やむのは、仕入れが済んでからにしなさい」
湯呑みが、思ったより重かった。
佐夜は何も特別なことを言っていない。店の理屈だ。焼けた物を数えるより、次の仕入れを考える。商人なら誰でも言う。
佐夜は筆を取り直した。その筆の先が、帳面の一行で止まった。硝石の行だった。
「硝石だって、そうでしょ」
「扱うけど、深入りはしない。関わらなきゃ食べていけないし、深入りすりゃ潰れる。どこで止めるかを、毎日決めてるだけ」
毎日決めているだけ。
僕は湯呑みを持ったまま、しばらく動けなかった。
大高の兵糧蔵で、僕はずっと二つのうちのどちらかを選ぼうとしていた。歴史に触れるか、触れないか。触れれば何かが壊れ、触れなければ守れない。その二つしかないと思っていた。
だが、目の前の人は、そんな数え方をしていない。
関わる。深入りはしない。どこで止めるかを、毎日決める。
今日の分を決めて、明日はまた決め直す。それだけのことを、この人は十年以上続けてきたのだ。
僕は湯呑みを置いた。
「……すごいな、佐夜は」
口に出してから、気づいた。所帯を持ってから、飲み込まずに出てしまう言葉が、少しずつ増えている。
佐夜の筆が止まった。
「え、なに?」
「なんでもない」
「今、何か言ったでしょ」
「言ってない」
「言ったわよ」
佐夜は少し笑って、また筆を走らせ始めた。その口元が、いつもより長く緩んでいた。
なぜ僕がこの言葉をこんなに深く受け取っているのか、この人は知らない。知りようがない。五百年後の教室で、僕が歴史は触れるものではないと言い切ったことも、その持論が桶狭間の泥の中で崩れたことも。
僕は白湯を飲み干して、帳面を引き寄せた。
塩が何俵、運賃が何文。数字が、ようやく数になって入ってきた。
何も決めたわけではない。ただ、崩れかけていた足元が、今までとは違う方を向いた気がした。
日が落ちてから、店先が少し騒がしくなった。
出入りの仲買が、荷を下ろしながら番頭と何か話している。僕は帳面を閉じて、土間へ降りた。
「圭さん、ちょうどいい。これ、見てくださいよ」
仲買が荷の目録を差し出した。美濃から東海道へ回ってきた荷だ。美濃紙、刃物、干した鮎。いつもの品が並んでいる。
その中に、いつもは載らない品が混じっていた。
塗りの鞍が一背。鷹の羽が一括り。太刀の拵えが二つ。
「妙でしょう。それに、口銭を先に払っていきましてね。美濃の荷主が、駿府まで急ぎで通したいと」
「先払いか」
「珍しいことで。荷が着く前に銭を置いていくってのは、よほど後ろで急いでる人がいるってことですよ」
帳場から、佐夜が顔だけ出した。
「誰かが、誰かに頭を下げに行く荷ね」
仲買が笑った。
「そりゃそうだ。鷹の羽なんて、進物以外に使い道がねえ」
僕は目録を手にしたまま、動けなくなっていた。
美濃。
なぜ今、美濃が。
僕の知る歴史では、この年の八月に稲葉山は落ちる。落とすのは信長で、城を追われるのは斎藤龍興だ。
だが、その信長は尾張から一歩も出られていない。この月の初めに、鳴海の西で竹束を焼いて今川を退けたばかりだ。玉薬を使い切るほどの一戦を国境でやっている男に、美濃まで攻め上る余力があるとは思えない。
龍興は、三年前に家臣へ城を奪われ、半年ほどで返してもらっている。それでも、まだあの城にいる。
誰に頭を下げに行くのか。何を頼むつもりなのか。
分からなかった。
年表の先が、ここから白い。
竹束が焼けたと聞いた夜は、大きな流れは変えられないのではないかと思った。今は逆のことを思っている。変わってしまったのなら、僕はもう、この先を知らない人間と同じだ。
どちらが怖いのかも、分からなかった。
「圭さん、その目録、写しますか」
「ああ。もらう」
僕は帳場に戻り、自分の帳面を開いた。
美濃。進物の品。口銭は先払い。永禄十年、二月。
書き付けてから、写しを畳んで懐に入れた。指先が、彦四郎の手紙に触れた。十七と書かれた紙と、美濃の荷の写しが、同じ懐に収まっている。
土間で、遠が削りかけの舟を走らせている。佐夜が算盤を弾く音が、その向こうで続いていた。




