【第80話】乾いた竹
今川が動いた。
織田信長の膝の上で、報せの墨はまだ乾ききっていない。
清洲の広間には、朝から人が詰めていた。年が明けて、永禄十年の二月である。
大高から鳴海、そこから西へ。旗の数からして五千は下らない。
「総大将は鵜殿藤太郎長照。義元の甥にございます」
簗田政綱が言った。
「周りを固めるのは三河衆。松平、奥平、戸田。硝石は、駿府の商人が堺の大店から薬種と同じ荷で運んでおるとの由」
「殿」
佐久間信盛が膝を進めた。
「数が違いすぎます。熱田口の砦は捨て、清洲で受けるべきかと」
「なぜ今、来たと思う」
信盛が言葉を探しているうちに、信長は自分で答えた。
「儂の支度が、まだ整わぬからだ」
堺と国友から買い集めた鉄砲は、数だけならもう並の大名の蔵を超えている。だが撃つための玉薬が足りない。硝石はこの国では採れない。海の向こうから来るものを、堺で買うしかない。その堺に、近ごろ今川の手が伸びていた。
筒が増えれば増えるほど、撃てぬ筒が増えていく。
堺の硝石の値は、この半年で二度上がった。買い負けたのではない。買い足す者が増えたのだ。
奴らは数えている、と信長は思った。儂が筒を揃え終えるまでの日数を、誰かが帳面で数えておる。
揃い切る前に潰す。それが利口な手だ。
「だから、今日来た」
信長は書付を畳んだ。
「義元は、出てこぬのか」
「本陣は大高に据えたまま、自らは前へ出ぬとのことです」
「……臆病者め」
言ってから、口の端だけで笑った。桶狭間で将軍家より賜った輿を自ら捨て、生き延びた男だ。慎重になるのも道理よ。だが、城の奥に座ったままで天下が取れるか。
大高に本陣を据え、甥を前に出した。負けても今川の本体は傷つかず、勝てば親族の武功になる。いやらしい布陣よ。
政綱が旗の並びを読み上げていく。鵜殿の旗を囲むように松平、その脇に戸田と奥平。
松平。信長の指が、書付の上で止まった。
あの童が、まだ今川か。
童ではない。もう三河を預かる男だ。
戸田は、駿府へ送られる途中の竹千代を奪い、銭と引き換えに父・信秀へ売り渡した家だ。その子が、今日はその竹千代の脇を固めている。奥平は十年前に今川へ弓を引いた家で、それが今日は先手にいる。
三河衆を前に並べたのも、ただの数合わせではあるまい。忠義を試し、同時に尾張に縁のある血を、尾張へぶつけておる。
人は変わる。家も変わる。変わらぬのは、置かれた場所だけだ。
信長は立ち上がった。
「筒は後ろに置け。前には出すな」
「後ろに、でございますか」
柴田勝家が眉を寄せた。
「霧が出る」
信長は障子の外を顎で示した。夜半から雨が降り、明け方に止んでいる。庭の土は黒く湿り、松の枝から水が落ちていた。
「濡れた火縄では、火が回らぬ。撃てぬ筒を前に並べて、何を守る。火縄は油紙に包み、懐で温めさせておけ」
それから、広げた絵図の左の端を指した。
「山崎川へ落ちる谷は、雨のあとは必ずぬかるむ。三百置いておけ。今日は使わぬかもしれぬ。使うのは、向こうが回ってくる時だ」
翌朝。鳴海から西へ一里、山崎川の手前に開けた低い野で、霧は低く垂れ込め、十間先の人の顔も見分けられなかった。
今川が仕掛けてきたのは、日の出の直後だった。霧の中から槍の穂だけが先に見え、次に足音が地面を伝ってきた。
信長は鉄砲を一発も撃たせなかった。弓と槍で受け、退き、また受けた。攻めてくる側は、こちらの筒がどこにあるかを探している。撃たせて位置を暴きたいのだ。だから撃たない。
霧が薄れ始めたのは、四半刻ほど過ぎた頃だった。
日が差し、稜線が戻り、今川の隊列の輪郭が見えた。
「筒を前へ」
懐で温めておいた火縄に火が移り、乾いた音が横一列に走った。先頭が倒れる。土煙が上がる。
だが、列が止まらない。
倒れた者の脇を抜けて、次の足軽が進んでくる。その前に、分厚い壁があった。竹を束ね、縄で幾重にも縛った太い柱のようなものを、足軽が二人がかりで抱え、押しながら前へ出てくる。弾は竹の表面を裂くが、奥まで抜けていない。
「ほう」
信長は目を細めた。
「今川にも知恵の回る者がいるようだな」
弾を止める盾なら珍しくはない。板も、土嚢も、誰でも思いつく。だが目の前のあれは、太さも長さも縄の巻き数まで揃っていた。誰かが寸法を決め、数百を同じ形で作らせている。
戦場の思いつきではない。帳面の仕事だ。
昨日、清洲で思ったばかりだ。誰かが帳面で数えておる。その誰かが、竹の太さまで決めたか。
「あの束の竹は、青いか、白いか」
信長が言うと、簗田政綱が物見を一人、前へ走らせた。戻ってきた男は、息を切らしながら答えた。
「白うございます。節の際が、灰色に乾いておりました」
切り出したばかりの青竹なら、水を含んで青光りする。白んでいるなら、積まれてから、ひと月か、ふた月か。
竹が乾くほど日を置いたなら、それを縛った縄も、同じだけ乾いている。
「……甘いわ」
信長は弓隊を呼んだ。
「火矢を。竹を狙うな。縄を狙え」
縄は束の胴に幾重も巻かれている。乾いた麻縄は、弓兵が狙うには細すぎる。だが、束の腹に矢を集めれば、どれかは巻きに食う。
矢が弧を描いた。
一の束に、矢が刺さった。竹と竹の隙間、麻の巻きの上だった。毛羽が先に走り、炎が巻きに沿って横へ回る。一周目が切れた。残った縛りに力が集まり、二周目、三周目が音を立てて弾けた。
竹が開いた。
抱えていた足軽が前のめりに倒れた。まだ若い男だった。縄を握り続けた手の甲が赤く擦れている。起き上がろうとして、散った竹に足を取られ、そこへ弾が来た。
隣の束も解けた。その隣も解けた。竹の壁だったものが、ただの竹の山になり、足軽の足を取った。
信長は、そこへ筒を撃ち込ませた。
松平の旗は、崩れた前列を避けるように、黙って右へ滑った。若いくせに、逃げ足ではなく立て直しの足だった。
今川は退かなかった。射線を外すように隊を横へ振り、鉄砲隊の背後へ回り込もうとした。
「回ってきたぞ。川へ落ちる谷筋だ」
朝のうちに置いた三百が、湿った窪地で今川の側面を受け止めた。回り込んできたのは千ほどだ。だが、ぬかるみに足を取られたのは攻める側だった。谷筋は、千の兵が一度に押し出せる幅ではない。数の厚みが、そのまま足枷になっていた。
三度押して、三度退いた。
竹束が崩れた時、今川の太鼓がすぐに変わった。崩れた束は後ろへ下げ、代わりに板盾の列を前へ出す。旗の振り方も細かい。損害は出ているのに、隊そのものは折れていない。
鵜殿藤太郎。名は聞いていたが、采配は堅い。人を無駄に死なせぬ退き方をする。
だが、一度失った勢いは戻らなかった。
昼を過ぎて、鵜殿の旗が退き始めた。
殿に残ったのは松平の旗だった。退いていく隊の背を、最後まで動かずに守っている。
竹千代とは、もう呼べぬ。
「追いましょうぞ」
柴田勝家が馬を寄せてきた。信長は首を振った。
「深追いはせぬ」
玉薬は、今日の一戦でほとんど使い切っている。勝ったのは、撃つ弾があったからだ。次に同じ日が来た時、まだ蔵に残っているとは限らない。
退いていく旗を見ながら、信長は誰にも聞こえない声で言った。
「今川にも、知恵の回る者がいる」
それだけだった。指先に小さな引っかかりが残った気もしたが、信長はそれを拾わなかった。
* * *
僕は駿府に戻っていた。荷駄に紛れて帰った。謹慎の身だからと、自分に何度も言った。
前の年の秋から進めてきた支度が、冬を越えて形になっていた。硝石の取引、南蛮との掛け合い、竹束の寸法。どれも去年のうちに片がついて、あとは使われるのを待つだけだった。
敗報は、それから半月ほどで届いた。
彦四郎の字だった。霧の朝の奇襲は空を切った。晴れてから前に出てきた鉄砲は、竹束が受け止めた。ここまでは、僕らが話した通りだった。
だが、織田は竹を撃たなかった。火矢を放った。焼けたのは竹ではなく、束を縛った縄だった。
手紙を持つ指が、冷たくなっていった。
麻縄を使えと言ったのは、僕だ。蔓では弾の衝撃で解けると言って、丈夫な麻縄にしろと、あの兵糧蔵で言った。弾に強い縛り方を選んだその縄が、火に一番弱かった。
生木の竹はそう簡単に燃えない。だから燃えないと思っていた。積んでおけば乾く。それだけのことが、僕の頭にはなかった。
毎朝、あの竹の山の前を通っていた。青が薄れて白くなっていくのを、たしかに目に入れていた。見ていたのに、見ていなかった。
彦四郎は、自分で寸法を決め、自分で結び方を決めた竹束が崩れるのを、後方の帳場から見ていたと書いていた。何もできなかった、とは書いていない。ただ、次の陣触れの寸法をどう直すかが、几帳面な字で並べてあった。
殿を務めたのは三河衆だったとも書いてあった。松平の隊は、一人も置いていかなかったと。
大敗ではない。鵜殿勢は崩れずに退き、兵の損耗も軍を揺るがすほどではなかった。
それでも、僕の目は、そこに書かれた討ち死にの数から離れなかった。
僕の知る歴史なら、あの男はそろそろ美濃を手にする頃だ。この世界のあの男は、七年、尾張から一歩も出ていない。
なのに、縄を狙ったのは、あの男のほうだった。
喉が渇いた。変わったのは桶狭間という一点だけで、その先の流れは——今川が滅び、あの男が天下へ近づいていく、あの結末は——変えられないのではないか。
今川が滅べば、佐夜も遠も守れない。歴史に触れるのが怖くて、僕はずっと知恵だけを渡し、半歩引いてきた。けれど、引いて眺めているうちに、あの流れが家族ごと呑み込むのだとしたら。
店の奥から、遠の笑い声が聞こえた。




