【第79話】年表の音
大高城の兵糧蔵の裏手に、竹束が壁のように積み上がっていた。表向き、この竹束を考えた僕は、駿府で謹慎していることになっている。
切り出したばかりの青竹の匂いが、冬の乾いた風に混じって鼻を刺す。僕は俵に腰を下ろし、彦四郎が書き起こした寸法書きを一枚ずつ確かめていた。束の太さ、長さ、麻縄を巻く数と間隔。どの紙にも同じ癖の字で、同じ数字が並んでいる。
「足軽たちが噂してるぞ。この竹束を考えたのは、遠州屋の荷駄についてくる商人らしい、ってな。お前さんのことだ」
彦四郎が竹の切り口を指でなぞった。
「荷が着くたびに、蔵の裏で二人して紙を広げてるんだ。見られてないほうがおかしいよ」
口では軽く返したが、胸の奥がひやりとした。商人としてなら通る。だが、僕の顔を知る者が見れば、一目で分かる。
そのとき、蔵の角から足音がした。
供を二人だけ連れた若い武将だった。質素な胴服に、よく陽に焼けた顔。背筋がまっすぐに伸びていて、足の運びに無駄がない。彦四郎が慌てて膝をついた。僕は俵に座ったまま、動けなかった。
武将は積み上がった竹束を眺め、それから僕に目を移した。
「竹束を考えたのは遠州屋の者だと聞いてな。遠州屋の婿といえば、雪斎様の弟子だった右筆だ。まさかと思うて来てみたが」
口の端が、わずかに上がった。
「やはり、圭殿であったか」
松平元康だった。三河衆に割り当てられた兵糧の受け取りを検めに来た、というのが表向きの用件なのだろう。供の一人が割符を手に、蔵役人のほうへ離れていった。
僕は俵から飛び降りて頭を下げた。元康は手を振ってそれを制し、竹束の一つに近づくと、麻縄の結び目に指をかけた。
「寸法が揃いすぎておる。武者の思いつきなら、束ごとに太さが違うものだ。これは帳面を作る者のやり方だな」
彦四郎が、ちらりと僕を見た。元康は昔からこうだ。何も聞かずに、見ただけで言い当ててしまう。
「知多からの荷の検めがございますので、しばしご無礼を。圭、帳面の二枚目は触るなよ。まだ合ってない」
彦四郎が気を利かせて席を外すと、元康は僕の隣の俵に腰を下ろした。
初めて会ったのは、元康がまだ竹千代と呼ばれていた幼いころだ。駿府館の庭で蟻の列を数えていた痩せた子供は、先頭がいなくなっても二番目がすぐ先頭になると呟いた。十五の若武者になって同じ池の端で再会したときも、同じ言葉を口にした。桶狭間の前には蔵で軍役帳を覗き込み、僕が勝つより負けぬ策を探していると見抜いた。出陣前の軍議のあとには、死ぬなよと声をかけてきた。
「死ぬなと言うたが、しぶとく生きておったな」
「おかげさまで。元康様こそ、ご無事で何よりです」
「三河を預かってからは、槍より帳面ばかりよ」
元康は笑い、竹束に目をやった。
「謹慎の身と聞いておった。某は何も見ておらぬ。それでよいな」
「……ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。そなたが相変わらず只者ではないと分かっただけで、来た甲斐があった」
好ましい笑顔だった。池の端で見たときと同じ、穏やかで、礼を失わない笑い方だ。
なのに、僕はその笑顔をまっすぐに受け取れない。
この人は、いずれ徳川家康になる。僕の知る歴史では、今川を離れて独り立ちし、最後には天下を取る。
この世界の元康は、何も企んでいないのかもしれない。桶狭間で今川は勝ち、義元様は生きている。独り立ちの機会などないまま、忠実な三河の将として一生を終えるのかもしれない。そう思おうとしても、頭の片隅で年表がめくれる音がやまない。
目の前の人と話しているのに、僕が見ているのは教科書の中の家康だった。それが失礼なことだとは、分かっていた。
「織田は、鉄砲をずいぶん集めておるそうだな」
元康が竹束に手を置いたまま言った。
「はい。堺や国友から、法外な値で買い集めていると聞きます」
「あれは、値など見ぬ男だ」
言ってから、元康はほんのわずかに間を置いた。竹束の上で指が止まり、視線が北西の空へ流れる。清洲のある方角だ。
「……と、三河の商人どもがこぼしておった。欲しいとなれば、値は後から考える。そういう相手と戦をするのは、骨が折れる」
声は穏やかなままだった。言い繕い方にも隙がない。だが、僕は聞き逃さなかった。あれは、と元康は言った。噂で聞いた敵の大将ではなく、顔を知っている相手を語る口ぶりだった。
あの軍議のあと、元康は震える僕を見て、何かをすでに知っているような目だと言った。いま同じ目をしているのは、元康のほうだった。
元康はそれきり黙った。僕も、続ける言葉を探せなかった。
池の端で、元康は三河を知らないと言った。物心つく前に駿府へ来たのだと。あの時、僕は嘘だと思った。いま思えば、あの嘘は尾張にいた二年を塗りつぶすためのものだったのかもしれない。
六つで尾張の織田に奪われ、二年をそこで過ごした竹千代を、人質の交換で取り戻したのは師の雪斎だった。僕が知っているのは、そういう年号と名前の並びだけだ。
六つの子供が、尾張で何を見たのか。誰と飯を食い、誰に笑われ、誰を覚えて帰ってきたのか。教科書はそんなことを教えてくれない。十代半ばの信長と顔を合わせたかどうかさえ、逸話の中にしか残っていない。
それでも、同じ尾張の空の下にいた。そして史実の元康は、桶狭間の二年後に信長と手を結ぶ。
隣で元康が、足元の竹屑を拾い、黙って指で折った。折れた端を捨てて、また一本拾う。
幼いころに縁のあった相手を、いま今川の将として攻めようとしている。その胸の内が、僕には想像できてしまう。忠義と旧い縁の間で、この人は何を飲み込んでいるのだろう。辛いだろうな、と思った。
疑っているはずなのに、同じ胸で同情している。どちらの気持ちも本物で、どちらも僕の勝手な想像だった。
言えるはずがなかった。尾張の二年なら、家中の誰もが知っている。けれど僕の同情の根にあるのは、この人がいずれ信長と手を結ぶという、まだ起きていない未来だ。なぜそう思うのか、問われたら答えようがない。察しても、差し出せる言葉が一つもない。
竹屑の折れる乾いた音だけが、二人の間に落ちていた。
元康にも、口にしない何かがある。翳りの底に沈んでいるのは、旧い縁の重さだけではない気がした。固く閉じた何か。だが、それが何なのかは僕にも見えなかった。
互いに言えないものを抱えたまま、僕らは並んで座っていた。
「元康、ここにおったか」
沈黙を破ったのは、蔵の向こうから聞こえた間延びした声だった。
四十をいくつか過ぎた男だった。頬の削げた顔に、人を食ったような笑みを浮かべている。着崩した胴服の襟元から、冬だというのに首筋がのぞいていた。
「伯父上」
元康が立ち上がった。
「圭殿、伯父の水野信元だ。知多の緒川と、三河の刈谷を預かっておる」
水野信元。その名を聞いた途端、頭の中で年表がまためくれた。
元康の母、於大の方の兄。父の忠政が死ぬと織田方へ転じ、そのせいで妹は松平家を追われた。僕の知る桶狭間では、義元様の討死を大高城の元康に報せ、退くよう促した男だ。
この世界に、その報せはない。桶狭間ののち、今川が尾張の東へ兵を進めたとき、知多の水野は甥の取りなしで今川に降った。駿府の帳面に載ったのは、そこまでだ。
「ほう、これが元康の言うておった右筆殿か」
元康は何も見ておらぬと言ってくれた。だが、伯父には会う前から話していたらしい。そして、この男は何も約束していない。
水野は僕を頭から爪先まで眺め、それから竹束を拳で軽く叩いた。乾いた音がした。
「竹なら知多の山にいくらでも生えておる。入り用なら言うてくれ。安くしておくぞ」
「伯父上、商いの話は」
「商いのほうが戦より正直だぞ、元康」
水野は声を立てて笑った。冗談なのか本気なのか、まるで分からない。笑っているのに、目だけが、蔵の戸口に積まれた俵を一つずつ数えるように動いていた。
「これで織田の鉄砲が止まればよいがな」
独り言のようにそう言って、水野は踵を返した。元康が僕に軽く会釈をし、その後を追う。
並んで歩く二人の背中を、僕は俵の脇に立ったまま見送った。
伯父と甥。史実では、どちらも織田と深く結びついた血筋だ。今は今川の将として、尾張を攻める側にいる。僕の疑いは、起きるかどうかも分からない未来で、目の前の人を裁いているだけなのかもしれない。
誰を、今のままの姿で見ればいいのか。
桶狭間のあと、歴史の知識は武器ではなく足枷になった。そのことは分かっていたつもりだった。けれど、人を見る目まで縛られるとは思っていなかった。
歴史を知っていることが、また、僕を孤独にしている。
冬の風が竹束の隙間を抜けて、低く鳴った。




