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【第78話】裏の支度

永禄九年(一五六六年)。


表向き、僕はまだ駿府での謹慎処分の身であった。


朝比奈の告発によって氏真様から評定への出座を禁じられ、ついに政の表舞台から解放された。佐夜と共に静かに商いだけをして生きていける——本来なら、僕がずっと望んでいた穏やかな状態のはずだった。


しかし、現実はそう甘くはない。僕は望まぬまま、極めて歪な形で再び政の裏側に引きずり戻され、これまで最も避けてきた『戦』の実務に直接関わらされる羽目になっていた。


今、僕は尾張との最前線である大高城のすぐ近くに身を潜めている。


大高城の裏手。遠州屋の荷駄に紛れて運ばれた僕は、人目を避けるように、彦四郎の差配する兵糧蔵の一角にいた。


——こんなところに、いていいのだろうか。


ふと、そんな思いがよぎる。表向き、僕は謹慎の身だ。それが、前線の城の裏で戦の支度に関わっている。誰かに見咎められれば、面倒なことになる。氏真様の下した裁きの手前もある。


だが、義元様の命だった。断れるはずもない。僕は、その居心地の悪さを飲み下すしかなかった。


「お前さんが帳面に顔を出してくれると、本当に助かる。小荷駄の数字がどうしても合わなくて、昨夜も徹夜だったんだ」


薄暗い片隅で、中根彦四郎が疲れ切った顔でぼやいた。彼は今川軍の小荷駄を預かる者として日夜この大高城に出入りしており、遠州屋の荷駄に紛れて彼を訪ねる形をとれば、僕がうろついていても単なる商人の出入りとして不自然には見えなかった。


「太守様からの直々の命(めい)だ。『裏で動け』なんて、とんでもない貧乏くじを引かされたものだよ」


僕は苦笑しながら、山積みになった帳面に目を通した。


僕の立場は、極めて宙ぶらりんだった。氏真様の裁定を重んじる手前、義元様も僕を公の軍議に引き上げるわけにはいかない。だが、その知識だけは裏で搾取される。それでも、遠州屋という帰るべき場所と、そこで生きる佐夜と遠を守るためには、今川が敗れるわけにはいかないのだから。


「さて、本題に入ろう。信長が血眼になって集めている『鉄砲』への対抗策だ」


帳面の束を脇に押しやり、僕は筆に墨をたっぷりと含ませた。


その言葉を聞いた瞬間、彦四郎の顔つきが、実務官僚の疲労から、戦の仕掛け人としての鋭い表情へと変わった。


「太守様は、あの忌まわしい筒の威力を認めた上で、それを完全に封じ込める策を求めておられる。お前さんの知恵なら、どうする?」


先日、僕は義元様に、鉄砲は組で動かせば続けて撃てる、と言ってしまった。それは本当だ。


——三段撃ち、という言葉が頭の隅をよぎった。鉄砲を三列に並べ、順に撃たせて隙をなくす、あの有名な戦法。だが、僕の知る限り、あれは後の世の軍記物が整えて描いた絵図に過ぎない。実際の戦場では、そう都合よく列は動かなかったはずだ。それほど、鉄砲の連続運用を確立するのは難しい。


どのみち、まだ誰も見たことのない未来の話だ。彦四郎に言っても始まらない。


「鉄砲を、どう続けて撃たせるか。やり方はいろいろあるだろう」


僕は手元の和紙に筆を走らせ、火縄銃を構える敵兵の陣形を簡素な図で描きながら説明を始めた。


「撃ち手を何列にも並べて交代させるとか。だが、どんなやり方をしたところで、筒そのものの弱みは変わらない」


「弱点?」


「水に弱い。狙いが甘く、遠くまでは届かない。そして何より、次の弾を込めるのに時間がかかる」


「では圭、その策で、織田の鉄砲を完全に封じ込められるのか」


僕は、首を横に振った。


「いや。完全に封じることは、できないだろう」


彦四郎が怪訝な顔をする。


「ただ、鉄砲が一番強くなる場面を、信長に選ばせないことは、できる。乾いた晴天の日、開けた平地で、こちらが正面から真っ直ぐ突っ込む。それが、鉄砲が最も生きる形なんだ。その形に乗らなければいい。相手の一番得意な土俵で戦わなければ、鉄砲の力は半分も出ない」


「こちらから、撃ち合う日を選んでやる必要はないよ。湿った朝。霧の深い川辺。雨上がりの、ぬかるんだ地。火縄が嫌う場所へ、こちらから敵を引きずり込む」


尾張は、木曽の川々が幾筋も流れ、湿地の多い土地だ。かつて信長が、その地の利を盾に今川の補給を脅かした。ならば今度は、その同じ地の利を、鉄砲を黙らせるために使えばいい。


僕はその敵陣へ向かって進む味方の最前列に、分厚い直方体を描き足した。


「囮を出して無駄撃ちさせ、その隙を突く。それに、竹を密に束ねた『竹束(たけたば)』や板を重ねた『持盾(もちだて)』を前列に構えさせ、弾を防ぎながら間合いを詰める。……手はいくらでもある」


だが、実戦を知る彦四郎は言葉だけでは得心しなかった。


「……試してみよう。もっとも、お前さんは人目に触れるわけにはいかないからな。結果は後日、俺が知らせる」


数日後、再び兵糧蔵の裏手で顔を合わせた彦四郎の目の色は、はっきりと変わっていた。


「本当に止まったぞ。藤太郎(とうたろう)様に頼んで筒を一つ手配してもらい、二十間ほど離れた竹束めがけて撃ち込ませてみたんだ。竹の表面は鋭く裂けたが……鉛の弾は束ねた竹の中ほどで食い止まり、奥までは抜けていなかった」


藤太郎様とは、この大高城の城主である鵜殿長照のことだ。


興奮を抑えきれない様子で、彦四郎は分厚い帳面をめくった。僕の机上の思いつきが、彼の中で確かな手応えに変わった瞬間だった。


「これなら、その辺の竹林からいくらでも切り出せるな。どう組めば持ち運びしやすく、かつ倒れにくくなるか。現場の足軽たちに試作させてみよう。寸法と紐の結び方は、俺のほうで一つに揃えて、陣触れに書き込んでおく」


さすがは彦四郎だ。僕が示した知恵を、瞬く間に戦場の仕組みへと落とし込んでいく。彼との協働は、あの臨済寺の薄暗い蔵で共に帳簿をめくっていた頃から何も変わらない、阿吽の呼吸があった。


僕がやるのは、あくまで「鉄砲を無力化する構造的な知恵」を示すことだけだ。実際にそれを形にし、大量の兵たちに運用させるのは、彦四郎や今川の武家たちの役割だった。


だが、竹束の寸法を計算する彦四郎の横顔を見つめながら、僕の胸の奥には、鉛のように重い割り切れなさが渦巻いていた。


(僕は、戦から遠くにいたかったはずだ)


人の死に、できるだけ関わりたくなかった。歴史を変えるような大舞台ではなく、ただ佐夜や遠と共に、駿府の軒先で静かな日常を生きていたかった。戦など、できることなら永遠に避けて通りたかった。


なのに今、僕はこうして、戦の最前線で「道具」の作り方を指南している。義元様の覇道に、己の知識を切り売りして貸し与えている。


(これは、今川を守るためだ……)


自分にそう言い聞かせる。歴史が変わった今、今川が尾張で敗れるかどうかは分からない。ただ、織田が鉄砲を集めている以上、長篠の戦いで武田の軍勢を圧倒したという史実が頭をよぎる。万が一があってはいけない。家族を守るためにも、駿河が戦火に巻き込まれることだけは絶対に避けねばならないのだ。


だから、知恵を絞らなければならない。


けれど、僕が今作っているのは、味方を守るための盾であると同時に、敵をより効率的に殺すための戦術でもあった。知恵を貸せば貸すほど、より多くの人間が合理的に、効率的に死んでいく。


「おい、圭。手が止まっているぞ。どこか具合でも悪いのか?」


彦四郎の怪訝そうな声に、ハッと我に返る。


「……いや、なんでもない。竹束の固定方法だが、蔓(つる)ではなく丈夫な麻縄を使った方がいい。弾が当たった衝撃で解けないようにするためだ」


僕は葛藤を無理やり心の奥底に押し込め、再び筆を動かした。


守るための力が、殺すための道具でもある。その矛盾に、完璧な答えなどないことは分かっている。桶狭間の夜も、飢饉の冬も、僕は常にこの矛盾に引き裂かれながら、それでも泥に手を突っ込んできたのだ。


それから数日のうちに、大高城の裏手では、彦四郎の指揮のもと、夥しい数の竹束と持盾が運び込まれ始めていた。


整然と積み上げられていく、泥臭い戦の道具。僕はそれを見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


この膨大な準備が、いずれ大きな実戦で使われることは火を見るより明らかだった。義元様は、ただ敵を牽制するためだけにこれほどの物資を動かすような御仁ではない。


尾張攻略へ向けた巨大なうねりが、肌を刺すような緊張感となって前線に満ち始めていた。


僕が練り上げたこの鉄砲対策は、果たして実際の戦場でどう機能するのか。そして、この巨大な戦が、今川と織田の歴史に何をもたらすのか。


厚い雲に覆われた尾張の空を見上げながら、僕はまだ見えない明日への不安に、ただ唇を噛み締めていた。

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